第十三話「侯爵様が、ずっと見ていたと言った」
「一つ、聞いてもいいか」
夕暮れの村外れ。エドガーがルーチェに声をかけた。
その声がいつもより少し低くて、ルーチェはなぜか、心臓が跳ねた。
「どうぞ」
「少し、歩けるか」
「はい」
二人で村の外れを歩いた。
畑の向こう、石壁が終わる手前に、小さな丘がある。村を少し見渡せる場所で、ルーチェが夕方に一人で考えごとをするときに来ることがある。
丘の頂に立って、二人で並んで村を眺めた。
夕暮れの光の中で、家屋の窓が橙色に光っている。炊事の煙が細く上がっている。子どもたちが走っている声が、遠くから聞こえる。
しばらく黙っていた。
「お前が、王都にいた頃から知っていた」
エドガーが、静かに話し始めた。
「侯爵家では管轄内の術師の情報を集めている。お前の記録は、かなり前からあった」
「はい、それは以前おっしゃっていましたね」
「優秀だと書いてあった。術式の精度が高い、対象への馴染みが早い。だが実績が少ないと。なぜ婚約者の傍にだけいるのか、疑問だった」
「……実績を作る機会が、なかなかなくて」
「婚約者が外に出さなかったのだろう」
ルーチェは少し驚いた。そこまで知っているのか、と思ったが、考えてみればエドガーは情報を集める立場にいる。
「この村に来てから——お前が一人で働いているのを、何度も見に来ていた」
ルーチェは動かなかった。
「あの丘の人影は」
「そうだ。私だ」
ずっと、見ていた。
ルーチェが来た翌日から。水路を掘っていたときも、畑を整えていたときも、グレタとスープを食べていたときも——丘の上から、エドガーが見ていた。
「なぜ……すぐに声をかけなかったのですか」
「声をかける理由を探していた」
「理由」
「管轄内の確認、書類の問題、井戸の依頼——そういう名目がなければ、来る理由にならなかった」
「来る理由がなくても、見にきていたんですか」
「……見たかったから」
エドガーが少し間を置いてから言った。声が、いつもより低い。
ルーチェは夕暮れの村を見ていた。
見たかった、という言葉が、耳の中に残っている。
「お前のことが、好きだ」
エドガーが言った。
静かな声だった。感情を抑えているのがわかった。でも抑えきれないものが、その声の底にある。
「王都で名前を知ったときから、この村に来てからも、お前が何かをやり遂げるたびに——ずっと、好きだった。返事は急かさない。ただ、知っておいてほしかった」
ルーチェは動けなかった。
何も言えなかった。
頭の中が、妙に静かになった。そういう瞬間がある。前世でも、本当に大事なことが起きたとき、頭が静かになる瞬間が。
目の奥が熱い。
なぜか、涙が出てきた。
「な……んで、泣いてるんだろう、私」
声に出したら、声が震えた。
「泣くことか」
エドガーが少し困った声で言った。
「泣くことじゃないのはわかってるんですが……」
「無理に止めなくていい」
「止めようとしてるんですが止まらなくて」
ルーチェは袖で目を拭いた。前世でも今世でも、あまり人前で泣かない性分だった。でも今は、どうにも止まらなかった。
「……わたしも」
声に出した。
出したら、また声が震えた。
「……わたしも、エドガー様のことが」
「エドガーでいい」
「エドガー、さんのことが……その、ずっとではないですが、最近……」
うまく言葉が出てこない。ルーチェは前世で総務担当として報告書を書き続けてきたのに、今この瞬間に限って、言葉がまとまらなかった。
「……続きは、後でいい」
エドガーが一歩近づいた。
大きな手が、ルーチェの頭の上にそっと置かれた。撫でるのでも抱くのでもなく、ただ置いた、という感じだった。
「全部聞く。急がなくていい」
ルーチェはまた泣いた。
今度は、さっきより、少し楽になりながら。




