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「あっ」


思わず声が出た。


スマホをいじっていた親指が、画面の上で止まる。


タイムラインに流れてきた日付。

それから、ニュースの見出し。

懐かしいというには、少し嫌な記憶。


そういえば、この事件、この時期だったよな。


僕は身体を起こして、カレンダーを見た。


机の横にかかっている、イケメン俳優の写真つきカレンダー。

高校生の僕が、どういう気持ちでこれを選んだのかまったく思い出せない。

たぶん母親が勝手に買ってきたやつだ。


日付を確認する。


やっぱり、近い。


「佐藤?」


ジュエルがこっちを見ていた。


枕元にちょこんと座って、白い尻尾をふりふりさせながら、目だけをきらきらさせている。


その顔は、なんというか。


とうとう覚醒したか、みたいな顔だった。


母親が三者面談で、

「うちの子、本当はやればできるんです」

と担任にゴリゴリ押していたときの、あの気恥ずかしさを思い出す。


違うんだよ、母さん。

違うんだよ、ジュエル。


僕は別に、内なる才能が目覚めたわけではない。

ただ、スマホを見ていたら昔の事故を思い出しただけだ。


「なに? どうしたの?」


ジュエルが身を乗り出してくる。


「……あーっと」


僕は頭をゴシゴシとかいた。


「いや、ちょっとさ。運命ってやつを、変えてみようかなって。」


その瞬間、ジュエルの顔がぱあっと明るくなった。


比喩ではない。

本当にちょっと光った気がする。


「やっとやる気を出してくれたんだね! 相棒!」


相棒ではない、断じて…。


「さて、何からやろうか。とりま、世界救ってみる?」


ジュエルはベッドの上でぴょんと跳ねて、尻尾をぶんぶん振った。


なんでそんな大袈裟なんだ。

ここ、日本の高校生活だよな。

剣と魔法の王国でもなければ、魔王軍が攻めてくる予定もない…はずだ。


「いや、そうではなくて。」


僕はスマホの画面を消して、膝の上に置いた。


「この頃、確か火事があったんだよね。」


「火事?」


「うん。クラスの子が大怪我を負ってしまう事故があったんだ。」


口にしてから、少しだけ胸が重くなった。


当時の僕は、その事故を遠くから見ていただけだった。


学校で噂になって、先生が深刻な顔をして、クラスが妙に静かになって。

みんなが「かわいそう」と言っていた。


僕も言った。

たぶん、言ったと思う。


でも、それだけだった。


何もできなかったし、何もしようとも思わなかった。


だって当時の僕には、その事故が起きることなんて知らなかったから。

知らなかったから仕方ない。

そう言えば、いくらでも逃げられる。


でも今は違う。


僕は知っている。


「で、その子を救ったらさ」


僕は少しだけ声を明るくした。


重い空気を、自分で茶化すみたいに。


「なんか、いい感じじゃね?」


「いい感じ?」


「こう、ヒーローって感じでさ」


僕は手を動かした。

大袈裟に広げて、指揮者のように。


「危ないところを助けて、二人の仲がぎゅっと縮まっちゃってさ。相手が『佐藤くん、どうして私を……?』ってなって、僕が『理由なんてないよ』って斜め上を見ながら答えるわけ」


「斜め上を見る必要ある?」


「ある。ヒーローはだいたい斜め上を見る」


「そうなんだ」


「そうなんだよ」


ジュエルはふむふむとうなずいた。


こいつ、変なところで素直だな。


「それって、前の席の子?」


「そう!」


僕は即答した。


「可愛いよね。あの、ふわふわってしてる感じが特にさ」


前の席の女の子。


授業中に僕が教師に名簿で脳天を撃ち抜かれたとき、くすくす笑っていた子。

あの笑い方は、馬鹿にしているというより、ちょっと困ったような、でも面白くて我慢できない、みたいな感じだった。


たぶん。


いや、そう思いたいだけかもしれないけど。


髪が柔らかそうで、声が穏やかで、ノートの字がきれいで、なんというか全体的にふわふわしている。ふわふわという表現に全てを丸投げしている気がするが、実際そうなのだから仕方ない。


「いいね!」


ジュエルがにこにこ笑った。


「でも、あの子、彼氏いるけどいいの?」


「えっ」


声が裏返った。


「マジで?」


「マジマジ!」


ジュエルは悪気なくうなずいた。


「昨日、放課後に校門のところで男の子と一緒にいたよ。手、つないでた」


「手」


自分の手を見る。

この頃は結構きれいな指なんだな、と思った。


「うん。手」


「つないでた」


「うん。ぎゅって」


「ぎゅ」

自分の右手と左手をぎゅっと握ってみる。

これが…恋人繋ぎってやつ?!


頭と胸がギュッと身体から絞り出されて、世界が少しだけ遠くなった。


彼氏。


前の席の子に彼氏。


いや、別にいい。

それは当然のことだ。

彼女には彼女の人生がある。

可愛い子に彼氏がいるのは、自然界の摂理みたいなものだ。

むしろいないと思っていた僕の方がどうかしている。


でも。


でもさ。


過去に戻ったんだから、そこは未発生でいてくれてもよくない?


僕が未来から来た意味、薄くない?

僕はジュエルのほっぺたをムギュッとつまんで、グリグリしてやろうかと思った。しないけどさ。


「でもいいね、人助け!」


ジュエルは空気を読まずに尻尾を振っている。


「これこそ救世主の役割って感じ!」


「……やっぱ止めようかな」


「え?」


「いや、ほら。彼氏いるなら僕が出る幕でもないというか。彼氏が助ければいいというか。そういう運命もあるのかなって。彼氏にさ、教えてあげればみんなハッピーって感じ?」


ちょっと声が震えたかもしれない。


ジュエルの笑顔が、すっと消えた。


「君って、本当に自分のことしか考えてないよね」


ぐさっ。

今、何かが胸に刺さった。


言い方は軽いのに、刃の入り方が深い。

なんなら、返し刃まで付いていてお得な感じ?


「あのさ、君ってほんとに、人の嫌なところを突くの大好きだね」


「大好きじゃないよ。事実を言ってるだけだよ」


「それが一番ひどいんだよ」


ジュエルはきょとんとしている。


悪意がないのに、的確に人を刺してくる。


何度でも思う。


これが妖精か。

森に帰れ。


「別にいいじゃんかよ」


僕はふてくされたように言った。


「聖人君主なんて時代遅れだぜ? 時代は自助? ってやつ。テレビの人が言ってた」


「よくわかんないけど」


ジュエルは首を傾げた。


「それ、たぶん使い方違うと思う」


「うるさいな。僕だってよくわかってないよ」


「でも、まあいいや!」


ジュエルは僕の前にふわりと浮かんだ。


白い毛が光を受けて、少しだけ発光しているように見える。

さっきまで机の奥でホコリまみれだったくせに、こういうときだけ妙に神秘的だ。


「そんな君に、奇跡を授けよう!」


「奇跡?」


「空を飛ぶ魔法――」


ジュエルは短い前足みたいな手を、そしてフニフニした肉球を、びしっと僕に向けた。


『フライ!』


え?


今この部屋だけが世界から切り出されたかのように、部屋が静かになった。


僕はジュエルを見た。


ジュエルも僕を見て尻尾をふりふりしている。


「……魔法?」


声が裏返った。


思ったより高い声が出た。


「そう、魔法!」


ジュエルは胸を張った。


「君には世界を救う義務があるからね!」


「いや、待って」


僕は手を上げた。


「待って待って待って。魔法?」


ここって日本だよな。

科学大国で、魔法なんて御伽話かゲームの中にしか存在しなくて、でも目の前には妖精がいて?ならオールオーケーで?


おかしくない、のか?


いや、おかしいだろ。


過去の日本で、魔法。

空を飛ぶ魔法。

フライ。


名前がシンプルすぎる。


もう少しこう、古代語っぽい詠唱とか、厨二っぽい漢字とか、神話由来のかっこいい響きとかないのか。


「そう!魔法『フライ』」


デデン、とジュエルは効果音を口ずさみながら大きく胸を張った。


「フライって」


僕は顔をしかめた。


「空を飛ぶからフライだよ!」


「安直」


「わかりやすいでしょ?」


「わかりやすすぎるんだよ」


ジュエルは気にしていない。


むしろ得意げだ。


「使い方は簡単! 飛びたいって思えば飛べるよ!」


「雑!」


なんか、こんなやりとりをしていると、年季の入ったお笑いコンビみたいだ。


『ジュエル&佐藤』。


馬鹿らしいので、首を振って忘れる。


「最初は低く飛ぶところからね。いきなり高く飛ぶと、たぶん落ちて死ぬから」


「変なこと言うなよ!怖いだろ!で、多分ってなんだよ、白黒はっきりしろ!」


「大丈夫! 救世主はそんな簡単に死なないよ!」


「俺は救世主じゃない!」


思ったより大きな声が出た。


親に聞かれたら、病院に連れて行かれてもおかしくない。しっかり気を保てよ、僕。


僕はベッドの上で三角座りをして、膝の上の毛をプチプチと毟る。


魔法。


本当に魔法が使えるなら、話は変わってくる。


火事。

大怪我をするクラスメイト。

未来を知っている僕。

空を飛ぶ魔法。


条件だけ並べれば、完全にイベントクエストだ。


助けに行け。

未来を変えろ。

彼女を救え。


そういう流れにしか見えない。


なのに、僕の頭に最初に浮かんだのは、

「彼氏いるのか」

だった。


自分で自分が嫌になる。


「佐藤」


ジュエルが少しだけ声を柔らかくした。


「別に、かっこいい理由じゃなくてもいいんじゃない?誰かに好かれたいとか、ヒーローっぽく見られたいとか、そういうのでも」


ジュエルは僕の膝の上にちょこんと降りた。


僕は何も言えなかった。


それは、たぶん正しい。


動機が汚くても。

下心があっても。

かっこつけでも。


それで誰かが助かるなら、何もしないよりはずっといい。偽善ってやつだ。


そう考えた瞬間、胸の奥の歯車が、ギギッ、と小さく軋んだ気がした。


「……で」


僕はジュエルのキラキラの純粋な目を見下ろした。


「そのフライって、本当に飛べるの?」


「飛べるよ! まあ、最初は滑空するくらいだけどね! 練習したらフワフワって浮けるよ!」


こんな感じにね、とジュエルは部屋の中をクラゲみたいにふわふわ漂った。


「火事がこの日だった気がするから...あと3日か」


僕はため息をついた。


三日。


たった三日。


けれど、前回の人生では一度も経験しなかった運命を掛けた三日だ。


何もしなければ、たぶん同じことが起きる。

でも、何かすれば、少しは変わるかもしれない。


それが良い方向か悪い方向かはわからない。


僕が動くことで、もっとひどいことになる可能性だってある。


そう考えると、また身体が重くなった。


カーテンを開けた次は、いきなり空を飛ぶ練習。


人生の歯車ってやつは、どうやら加減を知らないらしい。


「……わかったよ」


僕はベッドから降りた。


「やるよ。フライの練習」


ジュエルの顔が、またぱあっと明るくなった。


「やった! やっぱり君は――」


「ただし」


僕は指を立てた。


「世界は救わない」


「えー」


「火事の子を助けるだけ」


「それが世界を救う第一歩だよ!」


「君は大袈裟すぎるよ…」


これでも過小なくらいだよ、とジュエルは笑って、僕の周りをくるりと飛んだ。


「じゃあ、まずは窓を開けよう!」


「なんで?」


「飛ぶから!」


「ここから?」


僕は窓の外を見た。


二階だった。


普通に落ちたら怪我をする高さだ。


「……やっぱ止めようかな」


「早いよ!」


ジュエルの声が部屋に響いた。


転生二日目。


僕はカーテンを少しだけ開けた。


そして僕は、空を飛ぶ前に、まず高所恐怖症かもしれないことに気づいた。

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