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「……こんな生活していて、何が楽しいの?」


机の奥から、くぐもった声が聞こえた。


あの白くて、ふわふわで、やたら目がキラキラしていて、存在そのものが僕の神経を逆撫でする生き物は、今、机の一番奥に押し込んである。


正確には、ぎゅーっと小さく潰して、古いプリントと使い終わったノートと、何に使うのかわからないケーブルの群れの隙間に詰め込んでおいた。


妖精って、もっと神秘的なものだと思っていた。


月明かりの下で舞ったり、森の奥で泉を守ったり、人間には聞こえない歌を歌ったり、そういうやつ。


少なくとも、学習机の奥でホコリまみれになりながら説教してくる存在ではないはずだ。


「もう昼だよ!」


「知ってる」


僕はベッドの上で仰向けになりながら、スマホの画面を親指で流した。


タイムラインには、よくわからない誰かの成功体験と、よくわからない誰かの炎上と、よくわからない誰かの昼ごはんが並んでいる。


「ねえ、佐藤! 学校は?」


「休んだ」


「どうして?」


「行きたくないから」


「行きたくないだけで休めるの?」


「休めるよ。人生って案外そういうものだから」


机の奥で、もぞもぞと白い塊が動く気配がした。


「でも、せっかく過去に戻ったんだよ? 高校生活をやり直せるんだよ? 友達を作ったり、勉強を頑張ったり、部活に入ったり、気になる女の子と青春したり、文化祭で何かが始まったりするんじゃないの?」


「しない」


「即答!」


「そういうのは、そういうことができる人間にだけ発生するイベントなんだよ」


僕は画面から目を離さずに言った。


「高校生活っていうのは、全員に平等に配られるチュートリアルじゃない。初期ステータスと行動力と運と顔面偏差値によって、解放されるイベントが違うんだ」


「顔面偏差値?」

キュルンとした瞳を瞬かせながら、コテンと首を傾ける。なんかウザいな、コイツ...。


「そこは聞き流して」


「でも、君は未来を知ってるんだよ? 今度こそ上手くやれるかもしれないじゃん!」

わかった。こいつは妖精界の陽キャだ。ポジティブモンスターってやつ。クラスにもこういうの、いたわ。


「未来を知ってることと、上手くやれることは別だよ」


スマホの画面に、昔好きだったアニメの感想が流れてきた。


この時代では、まだ最終回を迎えていない。

つまり僕は、結末を知っている。


でも、だから何だというのだ。


結末を知っていても、途中で泣くことはある。

負けるとわかっている試合でも、見ていて胃が痛くなる。

人生だって、たぶん似たようなものだ。


僕は自分がどう失敗するかを、だいたい知っている。

でも、それを避けるために何かをする元気がない。


これが一番どうしようもない。


「君さあ」


机の奥から、ジュエルが言った。


「もしかして、転生してもあんまり変わらないタイプ?」


「今さら?」


「僕、異世界転生ってもっとキラキラしてるものだと思ってた」


「奇遇だな。僕もそう思ってた」


本当なら、今ごろ僕は教室で目を覚まして、前世の記憶を頼りに無双しているはずだった。


数学の授業で誰も解けない問題をすらすら解き、教師に一目置かれ、クラスメイトにざわつかれ、目の前の席の女の子が振り返って「佐藤くんって、すごいんだね」とか言ってくる。


あるいは、体育で隠された身体能力が覚醒して、サッカー部のエースから「お前、うちに来いよ」と誘われる。


あるいは、購買でパンを巡って美少女とぶつかり、なぜかそこから人生が始まる。


そういうのが、人生やり直しイベントの正しい作法だ。


だが現実はどうだ。


僕はパジャマのままベッドに転がり、カーテンを半分だけ閉めた部屋で、昼の光から逃げるようにスマホを見ている。


しかも机の奥には、僕の人生を変えるはずだった妖精が挟まっている。


終わっている。


「ねえ、出して」


「嫌だ」


「ホコリがすごい」


「妖精なんだから浄化しろ」


「妖精にも限界があるよ!」


「じゃあ限界を超えろ。異世界転生ものだろ」


「雑にジャンルを利用しないで!」


ジュエルが机の奥でじたばた暴れた。

引き出しが小さくガタガタ鳴る。


母親に聞こえたら面倒なので、僕はため息をついてベッドから起き上がった。


足の裏に床の冷たさが触れる。


それだけで少し嫌になる。

生きるって面倒くさい。


机の前まで歩いて、引き出しを開ける。


中から、ぺちゃんこになった白い毛玉が飛び出してきた。


「ぷはっ! 死ぬかと思った!」


「妖精って死ぬの?」


「たぶん死なないけど、気持ちの問題!」


ジュエルは空中で身体をぶるぶる震わせた。

ホコリがふわっと舞う。


「うわ、部屋きたな」


「うるさいな。高校生男子の部屋なんてこんなもんだろ」


「でも君、中身は二十代でしょ?」


「やめろ」


「二十代の精神でこの部屋に住んでるんでしょ?」


「やめろって」


「しかも高校生の身体で昼までSNSしてるんでしょ?」


「やめろって言ってるだろ!」


ジュエルはにこにこしている。


悪意がない。

悪意がないのに、的確に人を刺してくる。


これが妖精か。

森に帰れ。


「とにかく、学校に行こうよ」


「無理」


「どうして?」


「怖い」


口に出してから、少しだけ後悔した。


部屋が静かになった。


スマホの画面だけが、ベッドの上でぼんやり光っている。


ジュエルは、さっきまでの妙に明るい顔を少しだけ引っ込めて、僕の前にふわふわと浮かんだ。


「……学校、怖いの?」


「怖いよ」


僕は椅子に座って、頭をかいた。


「そりゃ怖いだろ。昨日まで社会人だったんだぞ。いきなり高校生の群れの中に放り込まれて、青春しろって言われても無理だよ。野生に帰れって言われたチワワみたいなもんだよ」


「チワワって野生に帰れるの?」


「僕にもわからないよ」


笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。


胸の奥が、朝からずっと重かった。


高校に戻った。

人生をやり直せる。

失敗を取り返せる。


そう思えば思うほど、身体が動かなくなる。


一度目の人生でできなかったことを、二度目ならできる。

そんなの、誰が決めたんだろう。


結局、僕は僕だ。

どこに戻っても、何歳になっても、僕はこの重たい身体と、鈍い心と、変なところで傷つきやすい自意識を抱えている。


「僕はさ」


言いかけて、やめた。


ジュエルが首を傾げる。


「なに?」


「……いや、なんでもない」


僕はまたベッドに戻った。


布団に潜る。


世界を一枚隔てるだけで、少しだけ呼吸が楽になる。


「佐藤」


布団の外から、ジュエルの声がした。


「学校に行かなくてもいいからさ」


「うん」


「せめて、カーテン開けない?」


その提案があまりにも小さくて、僕は少しだけ黙った。


学校に行け。

友達を作れ。

人生を変えろ。

未来を取り戻せ。


そういう大きな言葉だったら、すぐに拒否できた。


でも、カーテンを開ける。


それくらいなら。


本当に、それくらいなら。


僕は布団の中から手だけを出して、近くのカーテンを少し引いた。


細い光が、部屋の床に落ちた。


まぶしい。


でも、死ぬほどではない。


「ほら!」


ジュエルが嬉しそうに言った。


「一歩前進!」


「カーテン開けただけだろ」


「でも、開けたでしょ?」


「……まあ」


ジュエルは満足そうに、僕の枕元に降りてきた。


「じゃあ今日は、カーテンを開けた記念日だね」


「何そのしょぼい記念日」


「大事だよ。人生の歯車って、たぶんいきなりグルグル回るものじゃないんだよ」


ジュエルは、僕の顔を覗き込んだ。


「最初は、ちょっとだけ動くんだよ。カチリって」


僕は何も言わなかった。


ただ、布団の中から見える細い光を、しばらく眺めていた。


転生初日。


僕は引きこもりになった。


そして二日目。


僕は、カーテンを少しだけ開けた。

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