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いつからだろう。
明日に不安を感じるようになったのは。
高校生の頃は、もう少しだけ未来に期待していた気がする。
人にはいつか、人生の歯車が回り出す瞬間がある。
そんなふうに本気で思っていた。
何かが噛み合って、カチリと音がする。
そこから世界の見え方が変わって、昨日まで止まっていた自分が、急に前へ進み出す。
たとえば、運命の出会いとか。
たとえば、才能の開花とか。
たとえば、胸の奥に眠っていた熱い何かが、突然ボッと火を噴くとか。
そういう、ありきたりで、都合がよくて、青臭くて、けれど当時の僕には少しだけ信じられたもの。
今では、そんなこともあまり考えなくなってしまった。
運命の歯車なんて、たぶん最初から僕には備わっていなかったのだろう。
あったとしても、とっくに錆びついていて、いざという時に限ってギギギと嫌な音を立てるだけだった。
誰かがやる気スイッチみたいなものを押してくれないだろうか。
誰かが人生の歯車に油を差して、グルグルと景気よく回してくれないだろうか。
そんなことを、いい歳をした大人がぼんやり夢見ながら漠然とした明日のために今日も働いている。
たぶん、これが二十代の鬱というやつなのだろう。
いや、そんなものがあるかは知らないが。
名前をつけたところで、別に明日が楽になるわけでもない。
見飽きたオフィスの窓から外を眺める。
遠くの空では、飛行機がモクモクと立ち上がる白い雲を突き抜けて、僕の知らないどこかへ消えていく。
通りには学生たちがいた。若い、というだけで何もかも許されているように見えた。そんな彼らが眩しくて、薄汚れたデスクも、消えない目のクマも、全部隠したくなった。
彼らは何がそんなに楽しいのか、わちゃわちゃと騒ぎながら歩いている。
その姿を見ていると、胸の奥がじわじわと焦げるような気がした。
羨ましいのか。
腹が立つのか。
置いていかれた気がするのか。
自分でもよくわからない。
ただ、こんな自分に無性にイライラした。
変わらない明日が怖い。
昨日に戻りたい。
でも今日の僕は、机に座って、何も変わらない一日をやり過ごすことしかできない。
だから、僕は異世界転生することにした。
簡単な話だ。
家に帰って、風呂にも入らず、ベッドに転がって、人生のことなんか考えたくないので、いつものように現実逃避をした。
そして白いのを出した。
すると、もこもことした長い耳。
ふわふわの白い毛。
やたら自己主張の強い尻尾。
そういうものを備えた、獣の妖精みたいな何かが、ぽんっと生まれた。
生命の神秘ってやつだ。
そいつは、僕の枕元で胸を張り、妙にキラキラした目でこう言った。
「こんにちは! 僕はジュエルって言うんだ! 僕と異世界転生をしてみない?」
しかもウインクつきだった。
馬鹿げた話だろう?
この世界では、トラックなんてとっくに自動運転だ。
人を轢いて異世界に送り込むなんて、そんなアナログで物騒なシステムはもう流行らない。
そもそも異世界転生というジャンル自体、しゃぶり尽くされて、煮詰められて、骨まで出汁を取られて、今では見る影もない。
剣と魔法。チート能力。ステータス画面。ギルド。奴隷。悪役令嬢。ざまぁ。スローライフ。追放。最強。最弱。実は最強。
だいたい全部見た。
どれを開いても、最初の数ページで先が見えた。
そして何より、そこに逃げ込みたがっている自分まで見えてしまった。
だから、見ることさえ辞めてしまった。
とどのつまり、僕の異世界転生は、とっくの昔に滅びたってことさ。
だから、僕はこう答えてやった。
「さて、寝るか」
布団をかぶった。
「こんにちは! 僕はジュエルって言うんだ! 僕と異世界転生をしてみない?」
聞こえないふりをした。
「こんにちは! 僕はジュエルって言うんだ! 僕と異世界転生をしてみない?」
枕で耳をふさいだ。
「こんにちは! 僕はジュエルって言うんだ! 僕と異世界転生をしてみない?」
スマホで動画を流した。
「こんにちは! 僕はジュエルって言うんだ! 僕と異世界転生をしてみない?」
音量を上げた。
「こんにちは! 僕はジュエルって言うんだ! 僕と異世界転生をしてみない?」
こいつ、この音量を貫通してくるか。
「……この馬鹿げた人生を変えられるのか?」
ふと、そんな言葉が口から出た。
自分でも驚いた。
もっと気の利いたことを言うつもりだった。
皮肉を吐いて、冷笑して、全部くだらないと切り捨てて、そのまま眠るつもりだった。
なのに出てきたのは、情けない言葉だった。
変わりたい。
でも、自分では変われない。
誰かにどうにかしてほしい。
二十代にもなって、そんな他力本願をまだ捨てられない自分が、心底みっともなかった。
ジュエルは、ニコニコと笑っていた。
「こんにちは! 僕はジュエルって言うんだ! 僕と異世界転生をしてみない?」
答えになってない。
こいつ、会話ができないタイプの妖精かもしれない。
けれど、その時だった。
本当に一瞬だけ、人生の歯車が回った気がした。
カチリ、と。
錆びついて、埃をかぶって、もう二度と動かないと思っていた何かが、胸の奥で小さく音を立てた。
だから、僕はこう答えた。
「異世界転生をするよ」
ジュエルは満面の笑みで、僕に向かって両手を広げた。
「こんにちは! 僕はジュエルって言うんだ! 僕と異世界転生をしてみない?」
やっぱりこいつ、会話できてないな。
そう思ったところで、視界が白く弾けた。
———
誰かが、僕の名前を呼んでいる。
遠くから。
水の底みたいな場所から。
身体がゆらゆらと揺れている。
ああ、また電車か。そう思った。
このまま吊革にぶら下がったまま、何も考えずに会社まで運ばれていく。そんな朝なら、まだ少しだけ眠っていられる。
そう思った次の瞬間だった。
「いッ――た!」
ズドン、と衝撃が脳天をぶち抜いた。
目の前に、ピカピカしたエンジェルが飛んだ。
比喩ではない。
本物っぽい何かが、羽をはためかせながらキラキラしていた。
たぶん脳がバグって、痛みを雑に処理したのだろう。
「起きろ、佐藤!」
目を開けると、視界いっぱいに黒板が広がっていた。白くかすれたチョークの線が二次関数のグラフを描き、その上を、消し損ねた粉が薄い霧みたいに漂っている。黒板の端には日直の欄があって、そこには僕の名前「佐藤」と、「六月二十三日、火曜日」という日付が書かれていた。
窓際では、カーテンが湿った風を吸ってだらしなく膨らんでいる。青い草の匂いとチョークの粉っぽさ、誰かの制汗剤の甘い匂いが混ざって、鼻の奥に懐かしい痛みみたいなものを残した。
顔を上げると、チョークの粉で白くなった指先が見えた。その向こうに、無精髭を生やした数学教師の顔がある。手には生徒名簿があった。どうやらその角で、僕の脳天を的確に撃ち抜いたらしい。
「次寝たら廊下で立っててもらうからな」と僕に死刑宣告をした教師は役目を終えた暗殺者のような顔で、何事もなかったように教壇へ戻っていった。
……あいつ嫌い。
誰だったか、名前までは思い出せない。けれど、顔と、この嫌悪感だけは確かだった。
口の周りがべとべとしている。袖で拭うと、涎だった。
前の席の肩が、小さく揺れた。
教師が教壇に戻ったことで授業が再開される。
僕は急いで教科書を開いて、ページをパラパラを捲る。けれど、今どこをやっているのか分かるはずもなく適当なページを開いて閉じてを繰り返す。そもそもこの教科書は、僕の記憶では物置の奥でボロボロになっているはずだった。それが今、ほとんど折り目のない状態で目の前にある。
授業内容を確認しようとノートを見る。
真っ白なページには涎がたっぷりと載っていた。
……ヨシ。
前の席の女の子が、肩を震わせてくすくす笑っている。その笑い声に気づいた瞬間、耳がぶわっと熱くなって僕は顔を伏せた。
教室のあちこちから、小さな声が聞こえた。
「あいつ何回目だよ」
「涎、机まで垂れてたぞ」
「きったねー」
「寝すぎだろ」
どれも小さな声のはずだった。それなのに、机に伏せた僕の背中へ、四方からゆっくりと圧力を高めながら迫ってくる。
高校生の身体は、記憶よりずっと小さかった。椅子の背もたれは低く、視線は記憶にあるよりも地面にずっと近い。肩も背中も頼りなくて、笑い声ひとつ背中で受け止めきれない。
——僕は顔を上げられなかった。
伏せた視界の中で、教室の風景だけがやけにはっきりしていく。
黒板をこするチョークの音、誰かが椅子を引く音、窓際のカーテンが風を含んで膨らむ音。
机に触れた腕には、安っぽい木目のざらつきがあった。
全部、覚えがあった。
けれど、ありえない。
僕は社会人だったはずだ。オフィスで腐って、こんなはずじゃなかったと悶々としていたはずだ。
家に帰って、白い妖精を生み出して、異世界転生をすることにしたはずだ。
なのに、ここは高校の教室だった。
異世界じゃないじゃん。
そう思った瞬間、机の中からもこもこと白い何かが顔を出した。
「こんにちは! 僕はジュエルって言うんだ! 僕と異世界転生をしてみない?」
「もうしただろ」
思わず小声で突っ込んだ。
ジュエルはにこにこしている。
「ここが異世界だよ!」
どうやら転生後は会話機能が解放されたらしい。
僕は黙った。たしかに、今の僕にとって高校は異世界だった。
顔を上げられない僕の上を、チャイムの音が通り過ぎていく。その瞬間、教室の空気が一気にほどけた。さっきまで前を向いていた生徒たちが、当たり前みたいに横を向き、後ろを向き、机を寄せて、小さな輪を作っていく。誰かが誰かのあだ名を呼び、誰かが勝手に人の机へ腰をかけ、昨日の続きみたいな会話があちこちで始まった。
その全部が、僕の知らないところで噛み合っていた。
オフィスなら、モニターを見ていればよかった。忙しいふりも、疲れているふりも、画面の前ならそれらしく見えた。でも教室には、隠れるための画面がない。あるのは机と椅子と、前後左右にいる同年代と、何をしているふりもできずに机へ伏せる僕だけだった。
「また寝てんの、佐藤」
誰かが昨日の天気を話すぐらいの軽さで言った。
その一言で思い出した。
この教室では、僕は僕でいる前に、誰かにとっての『佐藤』だったと。
よく寝るやつ。涎を垂らしたやつ。そして、数学教師に名簿で叩かれるやつ。
そういう雑なラベルが、笑い声と一緒に背中へ貼りついていく。
違う、と言いたかった。
もう僕は大人で、あの頃の佐藤とは違うのだと。
でも、顔を上げられなかった。
言い返せないなら、違うところなんて何もない。
僕はまた、この狭い教室の中の『佐藤』として机に伏せていた。
本来なら、ここは人生をやり直すためのスタート地点だったはずだ。高校時代からやり直せば、今度こそ何かが変わる。
あの時ちゃんと勉強していれば。変に斜に構えず、誰かの誘いに乗っていれば。寝たふりなんかせずに顔を上げていれば。今度こそ、人生の歯車を自分の手で回せる。
そのための過去回帰なのだと、僕はどこかで勝手に思っていた。ここからなら、まだ間に合う。そういう都合のいい物語が、始まるはずだった。
しかし、問題がひとつあった。
自分で歯車を回すバイタリティがなかったからこそ、僕は転生なんてものに縋ったのだ。
過去に戻ったところで、中身は僕のままだった。
そして転生初日にして、僕は引きこもりになった。




