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「おいおい、なんだコイツ」
「なんか、上から降ってこなかったかぁ?」
「人んとこに勝手に落ちてきて、舐めたマネしてんじゃねぇぞ。お前、どこの高校だ?」
どうも、隣の屋上から空を飛ぶ魔法『フライ』を使って滑空練習をしていた僕は、不良たちの溜まり場に足を踏み入れてしまったようだ。
いや、足を踏み入れたというより、上から落ちてきた。
正確には、飛べると思って飛んだら、思ったより飛べず、風に流され、隣の建物の屋上に着地しようとして失敗し、そのまま不良たちのいる路地裏へ、ばさっと落ちた。
ムササビみたいに。
のっそりと立ち上がる、柄の悪い不良三名。
ひとりはタバコを足で踏み潰し、ひとりは壁にもたれていた背中をゆっくり剥がし、ひとりは眉間に皺を寄せたまま首をゴキゴキ鳴らしている。
「おい、聞いてんのか?」
「なんとか言えや」
「ビビってんじゃねぇぞ、コラ」
うん、柄に加えて鳴き声も悪い。
普段の僕ならここで、ビビっていた。
「すみません! 間違えました!」と、きゃんきゃん言いながら尻尾を巻いて逃げ出しているところだ。
でも、今日の僕は違う。
僕にはジュエルからもらった魔法『フライ』がある。
空を飛ぶ魔法。
まあ、正確にはまだ空を飛ぶというより、空中でちょっと粘れる魔法だけど。
それでも魔法は魔法だ。
今日においてはキャンキャン鳴くのは、残念ながら彼らの方である。
ジュエルも、不良たちの周りをふわふわと漂いながら、ワクワクした表情で言っている。
「チュートリアルバトルだね」
チュートリアルバトル。なるほど。
初めて魔法を覚えた主人公が、最初に遭遇するザコ敵三体。
見た目もわかりやすい。
不良A、不良B、不良C。
いや、ひとりモヒカンっぽいから、モヒカン男Aでいいかもしれない。
とりあえず、僕はジュエルに向かってウインクしておいた。
任せとけ、という意味だ。
「……あ?」
モヒカン男Aの眉間の皺が、ぐっと深くなった。
違う、君じゃない。君と僕はウインクする関係じゃないだろ。
まあ、ともあれ。
こんなシチュエーションに憧れていなかったかといえば、嘘になる。
たむろしている不良たちに絡まれたとき、秘めた力を颯爽と解放して、ふん、と鼻で笑って帰る感じ。
不良たちは地面に転がり、僕は夕焼けを背にして、軽く手を振る。
「悪いな。今日は急いでるんだ」
みたいなやつ。
健全な日本男児なら当たり前じゃない?少なくとも、僕は中学二年生のときに七回くらい妄想した。
そんなことを考えていると、痺れを切らしたのか、モヒカン男Aが僕の胸をどついてきた。
「おい、テメェ。聞いてんのか?」
上から睨み下ろされる。
近い、空気がビリリって圧迫感がヤバい。ヤバいことだけは天地をどの順番でひっくり返したとて確かだ。
怖い、教科書で習った通りに怖い。
ふぅ、と息を吐く。
落ち着け。
本気を見せますか。
僕は一歩、後ろに下がった。
足元に転がっていた空き缶が、からん、と鳴る。
モヒカン男Aが笑った。
「逃げんのか?」
僕は、背後のフェンスをちらりと見た。
高さは胸のあたりまで。
上に乗るには、少し勢いがいる。
でも、今の僕には『フライ』がある。
僕はフェンスに足をかけ、よじ登った。
「は?」
不良たちが一瞬、動きを止める。
その一瞬で十分だった。
僕はフェンスの上から、飛んだ。
正確には、落ちた。
ただし、普通に落ちるのではなく、フライの魔法でほんの少しだけ身体を浮かせ、前へ滑らせる。
風が頬を切る。
胃がふわっと浮く。
視界が一瞬だけ高くなる。
いける。ジュエルと目が合う。
「うわっ、なんだコイツ!」
ゴツンッ!
僕の拳が、モヒカン男Aの頬をぶち飛ばした。骨に当たる鈍い感触が、拳に返ってきて痺れるような鈍い痛みが広がる。
けれど、モヒカン男Aはよろめき、壁に肩をぶつけた。
「いい感じ〜♪」
ジュエルが、空中で尻尾を振りながら合いの手を入れた。
魔法(っぽい何か?)、いけるじゃん。
「こっち来るな!」不良Bがヤケクソに腕を振り上げる。
正面からの殴り合いなんてお断りだ。僕は地面に着地すると同時に、もう一度フェンスへ駆けた。
ガシャ、と金網が鳴る。
登る。
足をかける。
飛ぶ。
滑る。
拳を突き出す。
ズドン!
相手の腹に拳がめり込んだ。
「ぐふっ」
低い呻き声が、路地裏のBGMに加わる。
「ヨイショ〜♪」
合いの手もいい感じに乗ってきた。
ジュエル、意外と盛り上げ上手だな。
今だけは認めてやる。
僕はもう一度、フェンスに登った。
ガシャガシャガシャガシャ。
金網が揺れる。
滑空。パンチ。着地。
ガシャガシャガシャガシャ。
フェンス。滑空。パンチ。着地。
ごめんね、ジュエル。
せっかくの魔法を、こんなショボい使い方しかできなくて。
でも、今の僕にはこれが最強だった。
空を飛ぶ魔法『フライ』。
現時点での活用法。高所からのムササビパンチ。
「このクソやろ――グフゥ!」
快音が路地裏に響き渡る。
——快音が路地裏に響き渡る。
イエス、パーフェクツ♪
僕の中の何かが、完全に調子に乗っていた。
——————
僕、もしかしていけるのでは?
魔法があれば、人生の攻略難易度って案外下がるのでは?
そんな、浅くて甘い考えが脳内に広がっていく。
だが、物事にはだいたい攻略法がある。
そして僕の戦法は、あまりにもワンパターンだった。
フェンスに登る。飛ぶ。パンチ。
フェンスに登る。飛ぶ。パンチ。
「次、来るぞ」
不良のひとりが、低く言った。
え?
と思ったときには、遅かった。
僕はいつものようにフェンスから飛んだ。
視界が少しだけ高くなる。
風が頬に当たる。
拳を前に出す。
その瞬間。
横から伸びてきた腕に、足首を掴まれた。
「あ」
身体が、空中で止まった。
いや、止まったというより、引っこ抜かれた。
フライの浮遊感が、ぐしゃっと潰れる。
次の瞬間、僕の身体は地面に叩きつけられていた。
背中から。
呼吸が消えた。
「っ、が」
息が入ってこない。
口を開けても、喉から変な音しか出ない。
「ムササビみてぇでキメェんだよ!」
ドスッ。
腹に蹴りが入る。
「ぐぇ」
「調子乗ってんじゃねぇぞ!」
ドスッ。
背中に何か硬いものが当たる。
「ぶふっ」
「飛んでんじゃねぇよ!」
ドスッ。
横腹。
「だはぁ」
僕は転がった。
ゴミ袋に肩が当たり、缶が散らばり、腐ったような匂いが鼻を突く。
そのまま襟首を掴まれ、引きずられる。
「おら、入れ」
「え、ちょ、待っ——」
ガコンッ。
気づいたときには、僕はゴミ箱に詰め込まれていた。
狭い。
暗い。
臭い。
最悪の三拍子だった。
ドスドスドス。
「ぐぇ」
「ぶふぅ」
「だはぁ」
渾身の蹴りが、ゴミ箱越しに僕の腹を突く。
ゴミ箱がへこむ音と、僕の情けない声が、路地裏に交互に響く。
手間取らせやがって。
ムササビみてぇでキメェんだよ。
しね。
不良たちの罵声が、ゴミ箱の内側で反響する。
耳が痛い。
背中が痛い。
腹が痛い。
あと、プライドが痛い。
何がパーフェクツだ。何が高所からのムササビパンチだ。ただの変な動きの高校生じゃないか。
助けて。
そんな気持ちで、ゴミ箱の隙間からジュエルを見る。
ジュエルは宙に浮いたまま、困ったように眉を下げていた。
そして、ゆっくり首を振った。
なんだこいつ。
役立たずめ!
「そろそろ帰ろーぜ」
その言葉に救われた。
本当に、神の声かと思った。
最後の一撃とばかりに、強力なキックが三連打で入る。
ぐぇ。
あいつの女の身体がどうとか、誰がどうとか、こーとか言いながら、不良たちの足音が離れていった。
遠ざかる笑い声。
路地裏に戻ってくる、夕方の静けさ。
僕はしばらく、ゴミ箱の中で動けなかった。
「大丈夫だった?」ジュエルが覗き込んでくる。
黙々とゴミ箱から這い出す。血の味が奥歯に挟まって気持ち悪い。
「……うん。大丈夫じゃなさそうだね」
見りゃわかるだろ。
「チュートリアル戦でも結構手強いんだね!」
頭についたゴミを払う。
ゲロを発酵させたような、濃厚な匂いがした。くせぇ。
「頭、壊れた?」
そしてうるせぇ。
「うーーーん、修理できるかな?」
お前を修理してやりたいよ
無言でパンチを繰り出す。そんなんじゃ当たんないよ、もっと鍛えなきゃ、とジュエルはひょいっと身体を透かせるようにして避けた。ウゼェ。
もう一発殴ろうとしたがやめた。腕を上げるだけで、脇腹が痛んだからだ。
ふらふらと壁にもたれかかりながら、路地裏を出る。
途端に、赤い光が目に刺さった。
夕焼けだった。
赤い、赤い夕焼けが僕の網膜を焼く。
それは普段なら、ただの帰り道の光景だった。
でもこの時は。この時だけは、少し違って見えた。
頬が痛い、腹の奥がじくじくする、口の中は血の味がする、超最悪のフルコース。でもなぜか、世界だけはやけにはっきり見えた。
風の冷たさも。
アスファルトの匂いも。
全部が、妙に生々しかった。
その最悪さの変な熱の中で、僕はぼんやりと、生きているって感じを噛み締めていた。
——————
ふらふらと家に帰っていると——珍しく、ジュエルはそれまで黙っていた——急に言った。
「あのラーメン屋、行ってみない?」
「え、なんで?」
僕は顔を上げた。
通りの先に、小さなラーメン屋があった。
赤い暖簾。
油で少し黒ずんだ換気扇。
店先の看板には、味噌ラーメン、と太い字で書かれている。
「あそこの店長、ちょっと怖い感じで近づきたくないんだよ」
「なんでも!」
ジュエルは妙に強い口調で言った。
「日々挑戦! 行ったことないんでしょ? あの店」
「そうだけどさ」
僕はポケットに手を突っ込んだ。
ヨレヨレの千円札が出てきた。
汗と、ゴミ箱の匂いと、僕の情けなさを吸ったような千円札だった。
一杯食って帰るか……。
「あー、えっと、どうしよう…じゃあ味噌ラーメン一つ」こんな優柔不断な自分が嫌いだ。
「あいよぉーーー!」
元気な声が、店内に響き渡る。
カウンターだけの店で、壁には色褪せたメニュー札が並んでいる。床は少しべたついていて、椅子はギシ、と鳴った。テレビでは、よくわからない夕方のニュースが流れている。
換気扇が回る音。
寸胴鍋から立ち上る湯気。
醤油と味噌と油と、少し焦げたにんにくの匂い。
店長は、眉が太くて、腕が太くて、声も太い。
「お釣りはいらねぇ」
僕は千円札を出した。
ちょっとだけ、かっこつけた。
本当はお釣りが欲しい。
高校生の千円は重い。
今の僕にとっては、かなり重い。
でも、なんとなく言ってしまった。
ボコボコにされたあとで、せめて言葉だけでも強くありたかったのかもしれない。
「あいよ、毎度ぉ」
キッチンから手が伸びてきて、千円札を取っていった。
……え。
いや。
そうだけどさ。
そうじゃないじゃん。
お釣り。
僕のお釣り。
今のは、こう、冗談というか、強がりというか、言ってみたかっただけというか。
大人ならここで、
「いやいや、坊主。釣りは取っとけ」
みたいなことを言うんじゃないの?
言わないんだ。
取るんだ。
普通に。
ジュエルはワクワクって感じで、カウンターの上にお座りしている。
え、食べないよね?
妖精ってラーメン食べるの?
というか、店長には見えてないよね?
見えてないなら、カウンターの上に白い毛玉が座っている状況を、僕だけが気にしていることになる。
それもそれで嫌だ。
グツグツ、とスープが湧き上がる音。
カラン、と金属の器具と器が触れる音。
ザッ、ザッ、と麺を湯切りする音。
そこに、
「一丁あがり」
という店長の掛け声が混ざり合う。
ブワッと、熱気と濃厚な香りが顔を突き上げた。
目の前に置かれた味噌ラーメンは、湯気の向こうで少しだけ滲んで見えた。
濃い茶色のスープ。
表面に浮いた脂の輪。
くたっとしたもやし(親近感が湧いた)。
シャキシャキの青ねぎ。
萎びたメンマ。
そして、一枚だけ乗ったチャーシュー。
僕はレンゲを手に取り、すっとスープを飲み込んだ。
熱い。
最初に熱が来た。
次に、味噌の塩気。
そのあとから、脂の甘みと、にんにくの匂いが追いかけてくる。
舌の上は少しざらついていて、味は濃い。
正直、上品ではない。
でも、今の僕にはそれがよかった。
殴られて、蹴られて、ゴミ箱に詰められて、身体の中が空っぽになっていた。
そこに、熱くて、しょっぱいものが、喉を通って、胸の奥に沈んで、腹の底でじんわり広がる。
「うまい」
そんな声が出た。
店長がちらりとこちらを見た気がした。
涙が少し出てきた。
痛いからか。
悔しいからか。
温かいからか。
それとも、千円のお釣りが消えたからか。
自分でもよくわからなかった。
そんな涙を見せたくなくて、僕は黙々と食べ進める。
麺は少し太めで、もちっとしている。
スープがよく絡む。
もやしはくたっとしているのに、噛むと少しだけしゃきっとする。
味噌のまろやかさの奥に、焦がしたにんにくみたいな香ばしさがあって、そこに背脂の甘さが乗っている。
しょっぱい。
でも、やさしい。
いや、しょっぱいものをやさしいと言い始めたら終わりかもしれない。
でも、このときの僕には、そう感じた。
「僕も〜」
ジュエルが、どんぶりに顔を突っ込んできた。
おい。
チャーシューを食べるな。
チャーシューを。
一枚しかないんだから。
ジュエルの口元に、チャーシューが消えていく。
やめろ。
それは僕のだ。
そのとき、すっと影がラーメン鉢にかかった。
顔を上げると、店長が立っていた。
眉が太い。
腕が太い。
そして、やっぱりちょっと怖い。
「おい、坊主」
「はい」
反射的に背筋が伸びる。
「チャーシュー、サービスだ」
そう言って、店長は僕のどんぶりに、チャーシューを一枚追加で乗せてくれた。
厚めに切られた、脂の乗った一枚だった。
湯気の中で、スープをまとって、少しだけ沈む。
普段なら、思っていただろう。
いや、さっきの千円に、その代金普通に含まれてたんじゃ、とか。
「お釣りはいらねぇ」って言った結果、実質チャーシューを買っただけでは、とか。
そういう温かみ、ちょっと気恥ずかしいんだよな、とか。
素直に受け取るのが下手だから、心の中で茶化していたと思う。
でも、この時は。
この時だけは、そんな優しさと、まろやかなスープが心に沁みた。
「おいしいね、このチャーシュー。止まらないよ♪」
それ、俺の分!!!




