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第90話 落ちた子供と、“乾燥”の一言


 水路の向こう側が騒がしくなっていた。


「誰か!」


「落ちたぞ!」


「子供が流されてる!」


 叫び声。


 慌てた足音。


 古水路は場所によって流れが急になる。


 小さな子供が、水流に巻き込まれていた。


「っ――!」


 ティアが息を呑む。


 レオンが即座に前へ出た。


 だが。


 その瞬間にはもう、カイが動いていた。


「え」


 リナが目を見開く。


 速かった。


 ほとんど音もなく駆け、水路脇まで一直線に走り抜ける。


 そして迷わず飛び込んだ。


 水しぶきが跳ねる。


「カイ様!?」


 ティアが思わず叫ぶ。


 古水路の流れは見た目より強い。


 普通なら足を取られる。


 だがカイは違った。


 流されない。


 まるで水の抵抗そのものが弱くなっているみたいに、そのまま真っ直ぐ進む。


 レオンが目を細める。


「……またか」


 カイはすぐ子供へ辿り着いた。


 小さな腕を掴み、そのまま抱き上げる。


 すると。


 暴れていた水流が、一瞬だけ静かになった。


 アルトの表情が止まる。


「……水圧制御?」


「違います」


 エルミナが即答した。


「術式反応がありません」


 カイはそのまま水路脇へ戻ってくる。


 子供を抱えたまま、普通に歩いて。


 母親らしき女性が駆け寄った。


「あ……ありがとうございます……!」


 涙声だった。


 子供も咳き込みながら無事らしい。


 周囲から安堵の空気が漏れる。


 だが。


 その中心にいるカイ本人は。


「……濡れた」


 少し嫌そうだった。


 髪から水が落ちている。


 服もかなり濡れていた。


 リナが思わず言う。


「いや助けたんだからそこは仕方ないでしょ」


「冷たい」


「子供助けた直後の感想がそれなの?」


 ティアが慌てて鞄を開く。


「た、タオル出します!」


「大丈夫」


 カイはそう言って、自分の袖を見る。


 そして小さく呟いた。


「――【乾燥ドライ】」


 次の瞬間。


 ふわり、と温かな風が吹いた。


「――!?」


 ティアの髪が揺れる。


 周囲の空気が一瞬だけ変わった。


 カイの濡れていた服が、見る間に乾いていく。


 水気が消える。


 髪も同じだった。


 数秒後には完全に元通り。


 まるで最初から濡れていなかったみたいに。


 静寂。


 レオンが固まる。


「……は?」


 アルトも完全に言葉を失っていた。


 カインが呆然と呟く。


「生活魔法……?」


「いや、違う」


 否定したのはレオンだった。


 その顔は完全に真面目になっている。


「【乾燥ドライ】は一応、生活魔法分類ではある」


 だが、と続ける。


「実際は難易度が高い」


 エルミナも静かに頷いた。


「風魔法による送風、水魔法による湿度制御、火魔法による温度調整」


「その三属性を同時制御して、対象物を傷めない精密操作が必要になります」


 ティアが目を丸くする。


「そ、そんなに難しいんですか……?」


「普通は専門訓練が必要です」


 エルミナは即答した。


「服を焦がしたり、逆に水分を飛ばしきれなかったり、人体へ熱障害を起こす事故もあります」


 レオンが苦い顔で続ける。


「学院でも最初に習う名前の魔法ではあるけど、“ちゃんと使える”やつは少ない」


「生活魔法って呼ばれてるせいで簡単そうに聞こえるだけだ」


 アルトも小さく息を吐いた。


「……それを詠唱短縮どころか、ほぼ無詠唱で?」


「しかも術式反応なしです」


 エルミナが頭を抱える。


「本当にどうなっているんですかこの人は……」


 カイはそんな周囲を気にせず、自分の袖を触った。


「……うん。快適」


 満足げだった。


 リナが遠い目をする。


「もうこの人、“快適性”のためなら高等魔法を生活感覚で使うのよね……」


 ティアは逆に目を輝かせていた。


「すごいです……! 一瞬でした!」


 アルトはしばらく黙ったあと、小さく笑う。


「なるほど」


 視線がカイへ向く。


「確かに、“噂通り”ではあるらしい」


 その声にはもう、疑いより興味の方が強かった。

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