第52話 大賢者の胃痛と、生活魔法の正体
夜風が、屋台通りの熱気をゆっくり流していく。
アルトの夜市は相変わらず賑やかだった。
笑い声。
食器のぶつかる音。
香辛料の匂い。
焼きたての肉の煙。
そんな喧騒の中でも、カイたちのテーブルだけは妙に目立っていた。
理由は簡単だ。
「見ろよ……あれが蒼の大賢者ベルクだ」
「向かいの少年、普通に話してるぞ……」
「いやそれよりドラゴン可愛くないか?」
「キュルッ♪」
フォルが得意げに鳴いた。
完全に人気者である。
カイは追加注文した果実ジュースを飲みながら、満足そうに息を吐いた。
「やっぱり温かいご飯は落ち着くね」
「お前は本当にどこでも通常運転だな……」
ベルクが疲れた声で言う。
その前には、すでに空になった皿が大量に積み上がっていた。
リナが苦笑する。
「ベルクさん、顔色悪いわよ?」
「誰のせいだと思っている」
「僕?」
「お前以外にいるか!!」
即答だった。
ティアがびくっと肩を跳ねさせる。
するとベルクはハッとして咳払いした。
「……すまん。怒鳴るつもりではなかった」
「い、いえ……」
ティアがおずおずと答える。
ベルクは少し気まずそうに視線を逸らした。
その様子を見て、リナがくすっと笑う。
怖そうに見えるけど、案外ちゃんとした人なんだな、と少し思った。
「それで」
ベルクが改めてカイを見る。
「お前、あの地下迷宮で何をした」
「掃除」
「具体的に聞いている」
カイは少し考えてから答えた。
「空気が悪かったから【清浄】(クリーン)。歩きにくかったから【整地】(フラット)。罠は危ないから【分別】(セパレート)した」
ベルクが無言になる。
周囲で盗み聞きしていた冒険者たちも静まり返った。
「……待て」
ベルクが低い声で言う。
「それだけか?」
「あと、湿度調整で【調律】(コンフォート)も使ったよ」
「さらっと追加するな!!」
テーブルを叩いて立ち上がるベルク。
周囲の客がビクッと震える。
「【調律】だと!? あれは古代魔法体系の環境制御術式だぞ!!」
「空気が埃っぽかったし」
「理由が軽い!!」
リナが額を押さえる。
また始まった、という顔だった。
ティアはきょとんとしている。
彼女には、カイの魔法がどれだけ異常なのかまだよく分かっていない。
でもベルクは違う。
彼は“理解できてしまう側”だった。
だからこそ頭が痛い。
「【清浄】だけでも本来は神官級浄化術式……【整地】は土木魔法の最高位……【分別】は超精密解体術式だぞ……」
ベルクはぶつぶつ呟き始める。
完全に魔導研究者の顔だった。
「それを全部“生活を快適にするため”だけに使っているのか、お前は……?」
「うん」
迷いのない即答。
ベルクが天を仰いだ。
「意味が分からん……」
「でも便利だよ?」
「便利とかそういう問題ではない!!」
また叫ぶ。
屋台の店主が「元気なおじいちゃんだなぁ」と呟いていた。
ベルクの眉がぴくりと動く。
「……私はまだ老人扱いされる歳では」
「ベルク、これ食べる?」
カイが焼き菓子を差し出した。
ベルクは反射的に受け取る。
甘い匂いがした。
「……なんだこれは」
「はちみつバター焼き。人気らしいよ」
一口かじる。
外はサクサクで、中はふわっと柔らかい。
ベルクの動きが止まった。
「……美味いな」
「でしょ」
カイが満足そうに頷く。
その横で、フォルがティアのクレープを狙って前足を伸ばしていた。
「こらフォル、それは私のです」
「キュルゥ……」
しょんぼりするフォル。
でも次の瞬間、リナが小さく切った果物を口元へ運ぶと、一瞬で機嫌を直した。
「キュルッ♪」
「現金な子ねぇ」
リナが笑う。
ベルクはその光景を黙って見ていた。
——妙だ。
本当に妙だった。
カイは規格外だ。
魔法の才能だけなら、歴史上でも頂点に近い。
なのに本人には野心がない。
権力欲も。
名誉欲も。
研究欲すら薄い。
あるのはただ、“快適に旅したい”という欲求だけ。
その結果、国家規模の現象が起きている。
「……カイ」
ベルクが低く呼ぶ。
「ん?」
「お前、自分がどれほど異常か理解しているか?」
カイは少し考えたあと、静かに首を傾げた。
「生活魔法って、みんな使うでしょ?」
ベルクは数秒沈黙した。
それから。
深く、深く息を吐く。
「……駄目だ。頭が痛くなってきた」
「大丈夫?」
「お前と話していると大丈夫じゃなくなる」
即答だった。
リナがまた吹き出す。
夜の屋台通りに、賑やかな笑い声が溶けていく。
そんな中。
ベルクだけは一人、本気で悩んでいた。
——この少年を、王都に連れて行くべきかどうかを。




