第44話 裏社会のドンと、快眠のための静域
夜のアルトは、昼とは別の街になる。
昼間は観光客や商人で賑わっていた大通りも、日付が変わる頃には灯りが減り、石畳を踏む音だけが静かに響くようになる。
けれど、その静けさの裏側では、別の人間たちが動き始めていた。
アルト裏社会の一角を仕切る奴隷商、ギロンは、路地裏で苛立ったように葉巻を噛み潰していた。
「……ふざけやがって」
低く吐き捨てる。
昼間、自分の商品だったはずの少女を横から奪われた。それだけでも面白くないというのに、相手はまるで自分たちを恐れていない。
それが何より気に入らなかった。
「準備はできてんだろうな?」
ギロンの周囲には、武器を持った荒くれ者たちが集まっている。
数だけならかなりのものだった。
誰かがニヤつきながら答える。
「もちろんでさぁ。今夜は眠れねぇ夜にしてやりますよ」
ギロンは口の端を吊り上げた。
「殺す必要はねぇ」
「ビビらせろ。眠らせるな。精神を削れ」
「朝になって泣きついてきたところを、そのまま回収する」
下卑た笑いが広がる。
そして次の瞬間――。
「やれ!!」
怒号と共に、男たちが一斉に騒ぎ始めた。
鉄パイプで鍋を叩き割るような耳障りな金属音。
壁に投げ込まれる大量の爆竹。
下品な叫び声。
宿の周囲は、一瞬で最悪の騒音地帯へと変わった。
窓ガラスがビリビリと震える。
近隣の宿からも悲鳴や怒鳴り声が飛び始めていた。
その頃。
宿の最上階。
ふかふかのベッドと静かな空間を満喫していたリナは、爆竹の音で飛び起きた。
「な、何!?」
慌てて窓へ駆け寄る。
下を見た瞬間、顔が引きつった。
「うわぁ……最悪」
完全包囲だった。
松明を持った男たちが宿を囲み、好き放題暴れている。
その隣では、ティアがシーツを頭から被って震えていた。
「ひっ……」
怒鳴り声。
荒い笑い声。
物が壊れる音。
それらは彼女にとって、嫌でも過去を思い出させる音だった。
耳を塞いでも、振動が身体に伝わってくる。
恐怖で肩が震える。
「カイ、起きて!」
リナが慌てて振り返る。
部屋の奥では、カイが眠たそうにゆっくり起き上がっていた。
「……ん」
完全に寝起きだった。
フォルも布団の中から「キュル……」と顔を出している。
「外! 奴隷商の連中が来てるのよ!」
リナが言うが、カイは窓の外を見る前に、先に眉を寄せた。
「……うるさい」
「だからそう言ってるでしょ!」
「睡眠の質が落ちる」
カイは真面目な顔で言った。
「ちゃんと眠れないと、明日歩く時に疲れる」
リナは一瞬言葉を失う。
問題視する場所がズレている。
外には何十人もの荒くれ者がいるというのに、カイの関心は“快眠”に向いていた。
けれど次の瞬間、カイの視線がティアへ向く。
シーツの中で小さく震えている銀髪の少女。
その姿を見て、カイは小さく息を吐いた。
「……怖いよね」
ティアの肩がぴくっと揺れる。
「せっかく安心して寝られる場所だったのに」
その声は静かだった。
怒鳴るわけでもない。
ただ、少しだけ不機嫌そうだった。
カイはベッドの上で軽く胡座をかく。
そして窓へ向けて指を向けた。
「【静域】『サイレント』」
その瞬間だった。
世界から、音が消えた。
リナは目を見開く。
窓の外では男たちがまだ暴れている。
口を開けて怒鳴っている。
鉄を振り回している。
爆竹も破裂している。
なのに。
聞こえない。
本当に、一切。
部屋の中には静寂だけが残っていた。
自分の呼吸音だけがやけに大きく感じるほどの、完璧な無音。
「……え?」
リナが呆然と呟く。
「なにこれ……」
カイは普通に答えた。
「防音」
「防音で済むレベルじゃないんだけど」
ティアもゆっくりとシーツから顔を出す。
恐る恐る外を見る。
暴れる男たち。
なのに静かな部屋。
その異常な光景に、青い瞳が丸くなる。
カイはそんな二人を見て、満足そうに頷いた。
「これでちゃんと眠れるね」
そして布団へ戻る。
「おやすみ。明日はクレープ食べたい」
それだけ言って、五秒後には本当に寝息を立て始めた。
リナは窓の外を見る。
無音で暴れ続ける男たち。
それから隣で気持ちよさそうに眠るカイ。
しばらく見比べたあと、ぷっと吹き出した。
「……何なのよ、ほんと」
ティアも小さく笑う。
恐怖は、もうほとんど消えていた。
そして翌朝。
朝日がアルトを照らし始める頃。
宿の前には、大量の男たちが倒れていた。
「ぜぇ……はぁ……」
喉は潰れ、腕は痙攣し、体力は限界。
一晩中騒ぎ続けた結果だった。
ギロン自身も壁に寄りかかりながら荒い息を吐いている。
「なんで……出てこねぇんだ……」
その時。
宿の扉が開いた。
「ふぁぁ……」
大きく欠伸をしながら、カイが外へ出てくる。
肌ツヤが異常に良い。
完璧に熟睡した顔だった。
後ろからはリナとティアも続いてくる。
三人とも普通に元気だった。
カイは地面に転がる男たちを見下ろし、不思議そうに首をかしげた。
「……何してるの?」
誰も答えない。
というより、答える気力が残っていない。
カイは困ったように言った。
「道塞がると歩きにくいんだけど」
その瞬間。
ギロンたちの心が完全に折れた。
何人かが白目を剥いて倒れる。
残った者たちも、無言のまま崩れ落ちていった。
朝のアルトに、爽やかな風が吹く。
その中でカイだけが、本気で不思議そうな顔をしていた。




