第32話 森の異変と、濁った気配
森に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わったのが分かった。
ひんやりしているのに、どこか重い。
肺に入ってくる空気が、わずかに粘ついているような感覚。
木々は立っている。葉もある。
それなのに、どこか“生気が薄い”。
緑は緑のはずなのに、色が一段くすんで見える。
陽の光が差し込んでいるのに、その明るさが途中で濁っている。
「……嫌な感じね」
リナが低く呟いた。
足元の落ち葉を軽く蹴ると、乾いているのに湿ったような音がする。
「魔物の気配じゃない。森そのものが変」
フォルはすでに数歩先を歩いていた。
小さな体を低くして、空気を確かめるように鼻をひくつかせる。
「キュル……」
いつもより警戒した声。
森の奥へ進むほど、その違和感は強くなっていった。
枝が風もないのにかすかに揺れたり、鳥の鳴き声が途中で途切れたりする。
そして何より――魔物の様子がおかしい。
グレイウルフは走るたびに足取りが乱れ、何度もバランスを崩す。
影トカゲは輪郭がぼやけ、存在そのものが不安定に揺れている。
まるで“形を保てていない”。
本来の生き物というより、無理やり押し出された歪みのようだった。
「これ、自然発生じゃないわね……」
リナの声が少し硬くなる。
「何かが森を汚してる」
その言葉の通り、森の中心に近づくほど空気は重くなった。
足を踏み出すたびに、地面がわずかに沈むような錯覚がある。
そして――
森が開けた場所に出た瞬間だった。
空気が“落ちた”。
そこにあったのは黒い“溜まり”。
水でも泥でもない。
魔力が腐敗し、固まったような異質な塊。
表面はぬめりを持ちながら、ところどころ泡立つように波打っている。
じゅくり……じゅくり……
心臓のように、不規則に脈打っていた。
その周囲から、歪んだ魔物が湧き出している。
形が安定せず、出ては崩れ、また生まれる。
「……これが原因ね」
リナが眉をひそめる。
「地脈が腐ってる。流れが詰まって、逆流してる」
フォルが前に出た。
小さな体なのに、明確な敵意を向けている。
「キュルルッ!」
口元に小さな炎が灯る。
だがその瞬間――
カイが静かに手を上げた。
「待って」
その一言で、フォルの動きが止まる。
カイは黒い溜まりをじっと見ていた。
恐怖も嫌悪もない。ただ“状態を見ている”目だった。
「汚れてるだけだね」
リナはすぐに返す。
「その“だけ”が一番厄介なのよ」
カイは一歩近づく。
足元の草が踏まれるたび、わずかに黒く変色する。
それでもカイは気にしない。
そして、手を伸ばした。
「【クリーン】」
ぱぁ……と光が広がる。
黒い溜まりの表面が波打ち、膜が剥がれるように薄くなる。
じゅくり、と音がして、表層の汚れが空気に溶けていく。
だが――
奥はまだ黒いままだった。
リナが目を細める。
「まだ中が残ってる」
フォルが低く唸る。
「キュルッ!」
周囲の魔物を追い払うように小さく火を吐く。
カイはもう一度手を伸ばした。
「【クリーン】」
今度は光が“深さ”を持って入り込む。
表面ではなく、内部の濁りに触れるように。
黒い塊がひび割れるように揺れ、少しずつ崩れ始める。
じゅくり……じゅくり……
嫌な音が森の奥に吸い込まれていく。
だがまだ、中心には“核”のようなものが残っていた。
リナが小さく息を吐く。
「……しぶといわね」
カイは一度だけ目を閉じる。
空気の流れを確かめるように。
そして、静かに手を置いた。
「【クリーン】」
三度目の光。
今度は地面の奥まで届くように、ゆっくりと広がっていく。
黒い溜まりの中心が崩れ、泡のように弾けていく。
やがて――
それは完全に“何もなかったもの”へと変わった。
空気が一気に軽くなる。
肺の奥まで澄んだ空気が入ってくる感覚。
森の音が戻る。
葉が自然に揺れ、遠くの鳥の声が途切れず続く。
フォルが小さく鳴いた。
「キュル……」
だが地面はまだ傷んでいた。
ひび割れ、沈み、根が露出している。
まるで長い間押し潰されていた跡。
リナがそこを見て顔をしかめる。
「ここはまだダメね……」
カイはしゃがみ、手を置いた。
「【リペア】」
光が地面を走る。
ひびがゆっくりと繋がっていく。
だがまだ浅い歪みが残る。
カイはもう一度。
「【リペア】」
今度は地面の奥まで補修される。
沈んでいた部分が持ち上がり、形が整い始める。
それでもわずかな“ズレ”が残る。
カイは最後に、静かに言った。
「【リペア】」
その瞬間、森の地面全体が一気に整った。
ひびも段差も、沈みも歪みも消える。
まるで最初から何もなかったように。
リナはゆっくり息を吐く。
「……森一個分の修復、今ので終わったわね」
フォルが満足そうにカイの肩に飛び乗る。
「キュルル♪」
風が通る。
葉が自然に揺れる。
森はようやく、本来の呼吸を取り戻していた。
カイは手を下ろす。
「汚れてたから」
それだけ言った。




