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第120話 湯の中で交わるもの


 露天風呂の湯気が、夜の山へゆっくりと溶けていく。

 さっきまでの空気とは、少しだけ違っていた。


 アルトの話が終わっても、すぐに誰も言葉を出さなかった。

 湯の音だけが、やけに静かに響いている。


 その静けさを破ったのはレオンだった。


「……なあ」


 いつもの軽さは少し薄い。


「カイってさ」


 視線がカイに向く。


「ずっと一緒にいるけど、自分のことだけはあんま言わないよな」


 アルトも腕を組んだまま言う。


「確かに。お前だけ謎多いんだよ」


 ベルクは何も言わず、ただ湯に浸かったまま目を細めている。


 レオンが少しだけ笑う。


「別に無理にじゃないけどさ」


「ちょっとくらい聞かせてくれよ」


 アルトも肩をすくめる。


「ここまで来て何もないはねぇだろ」


 ベルクが静かに続ける。


「お主の“今”は、どこから来た?」


 山風が一瞬だけ通り抜ける。

 湯気が揺れる。


 カイはしばらく湯面を見ていた。

 そして、ゆっくり口を開く。


「……生まれてすぐ、事故があった」


 空気が変わる。


 レオンの表情から、軽さが消える。

 アルトも視線を外さない。


「家に帰る途中だったらしい」


「両親はその事故で死んだ」


 短い言葉。

 でも、それだけで十分だった。


 カイは続ける。


「俺は生き残った」


「でも、内臓がやられて、身体もうまく動かなかった」


 湯気がゆっくり流れる。


「動かそうとすると、痛みが出ることも多かった」


 レオンが小さく息を飲む。


「……ずっと?」


 カイは頷く。


「ずっと」


「物心つく前から、ほとんど病院の中」


 アルトが低く言う。


「それ、17年だろ」


 カイは静かに答える。


「うん」


 レオンが目を伏せる。


「病院だけ?」


「うん」


「外は?」


「知らない」


 あまりにも淡々とした返事だった。


 アルトが舌打ちするように息を吐く。


「……いや、意味わかんねぇなそれ」


 カイは少しだけ首を傾ける。


「それが普通だった」


 ベルクが静かに言う。


「誰かに会うことは?」


 カイは少し間を置く。


「医者と看護師」


「あと、同じ病室の人」


「話はしてたけど、うまく返せなかった」


 レオンが小さく笑う。


「そりゃそうなるわな……」


 でもその笑いは軽くない。


 アルトがカイを見る。


「見舞いとかは?」


 カイは首を振る。


「ほとんどなかった」


 その一言が落ちると、また静かになる。


 湯の音だけが戻ってくる。


 レオンがぽつりと言う。


「……それで、今ここにいるのか」


 カイは頷く。


「うん」


 アルトが小さく笑う。


「ほんと変だなお前」


「よく外出てこれたなそれで」


 カイは少しだけ視線を上げる。


「治療されたから」


 それだけ。


 自分を特別に見せる気はない。


 ベルクが静かに目を閉じるように言う。


「生き延びることと、外に出ることは別じゃ」


「それでも今ここにおる」


 レオンがカイを見る。


「じゃあさ」


 少しだけ声が優しくなる。


「外に出て、どうだった?」


 アルトも続ける。


「怖くなかったのか?」


 カイは少し考える。


 そして、静かに言う。


「怖いっていう感覚が、よく分からない」


 一瞬、言葉が止まる。


 でもその沈黙は拒絶じゃなかった。


 理解しようとする沈黙だった。


 レオンが小さく息を吐く。


「そっか……」


 アルトがぼそっと言う。


「じゃあさ」


「今は?」


 カイは少しだけ間を置く。


 そして言った。


「今は、ここにいる」


 それだけだった。


 でも、その一言には確かな重さがあった。


 ベルクが穏やかに目を細める。


「それで十分じゃよ」


 レオンが湯をかきながら笑う。


「十分っていうか、結構すげぇよそれ」


 アルトも小さく笑う。


「ほんと、お前だけ別世界だな」


 カイは少しだけ視線を逸らす。


「そうかな」


 そのやり取りに、重さと軽さが同時に混ざる。


 湯気がゆっくり流れる。


 夜はまだ続いている。

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