第116話 湯煙の中の昔話
一通り笑いあった後。
露天風呂には静かな湯気が漂っていた。
岩肌を伝う湯の流れる音。
遠くで鳴く虫の声。
山から吹き下ろす夜風。
火照った身体へ冷たい空気が触れるたび、
肌が少しだけ引き締まる。
カイは肩まで湯へ浸かりながら、
ぼんやり夜空を見上げていた。
星が多い。
王都よりずっと。
湯気の隙間から見える空は深く、
まるで山全体が静かに眠っているみたいだった。
「……空近い」
ぽつりと呟く。
レオンが笑った。
「山だからな」
「王都は灯り多いし」
ベルクは岩へ背中を預けながら、
ゆっくり息を吐く。
「こういう場所へ来ると、
昔を思い出すのう」
「ベルクさんの昔話?」
レオンが興味深そうに聞く。
ベルクは少し苦笑した。
「年寄りの話は長いぞ?」
「聞く聞く」
「俺も興味ある」
アルトまで言う。
カイも静かにベルクを見た。
「……聞きたい」
その言葉に、
ベルクは少し目を細めた。
湯気がゆっくり流れていく。
「そうじゃな……」
老人の声は穏やかだった。
だが、
どこか遠い時間を見ている声だった。
「ワシは元々、
王都の人間ではない」
レオンが少し驚く。
「あれ、そうなんだ?」
「北の小さな村じゃよ」
「雪深い場所でな」
ベルクは夜空を見上げる。
「魔物も多かった」
「冬になると、
村の外へ出るだけで命懸けじゃ」
カイは静かに聞いていた。
「昔は今ほど結界技術も発達しておらん」
「防壁も脆い」
「騎士団もすぐには来れん」
「だから――自分達で守るしかなかった」
湯気の向こうで、
ベルクの横顔が少しだけ険しくなる。
「ワシの父も結界術師じゃった」
「毎日、村の結界を維持しとった」
「朝も夜も」
「吹雪の日も」
「熱を出しても」
レオンが少し真面目な顔になる。
ベルクは静かに続けた。
「だが、ある冬」
「結界が破られた」
湯の流れる音だけが聞こえる。
「魔物の群れじゃ」
「吹雪に紛れて来た」
「村の外壁を食い破り、
一気に流れ込んできた」
アルトが小さく息を飲む。
ベルクは静かだった。
感情的ではない。
だが逆に、
その静かさが重かった。
「ワシはまだ子供だった」
「何もできん」
「ただ怖くて震えておった」
山風が吹き、
湯気が流れる。
「その時じゃ」
「父が一人で前へ出た」
ベルクの目が細くなる。
「村人を逃がすためにの」
「……」
「結界を無理やり拡張して、
魔物の進行を止めた」
「だが」
少しだけ間が空いた。
「無茶な魔力行使じゃった」
レオンが静かに聞いている。
「村は助かった」
「じゃが父は、その冬を越えられんかった」
温泉の空気が静まる。
誰もすぐ言葉を返せない。
カイはじっとベルクを見ていた。
ベルクは穏やかに笑う。
「だからワシは結界術師になった」
「誰かを守れる力が欲しかった」
「父みたいになりたかった」
その笑顔は優しい。
でも、
どこか少し寂しかった。
「王都へ来て、
学院へ入り、
死ぬほど勉強した」
「魔力量も多い方じゃったからの」
「期待もされた」
レオンが苦笑する。
「“多い方”で済ませる量じゃないけどな」
「昔はもっと多かったぞ?」
「怖ぇよ」
少しだけ空気が和らぐ。
だがベルクは、
また静かに空を見る。
「そして卒業後、
王国防衛術師団へ入った」
アルトが目を細める。
「……西方魔獣暴走」
「うむ」
ベルクは頷いた。
「ワシが三十代の頃じゃ」
その声色が少し変わる。
穏やかな老人ではなく、
かつて戦場へ立っていた術師の声だった。
「地脈異常で大量の魔物が暴走した」
「数千規模じゃ」
「前線は崩れ、
避難が間に合わん街も多かった」
湯気の向こうで、
ベルクの目が細くなる。
「だから結界を張った」
「後方都市を守るためにの」
ベルクの声が静かに響く。
「使ったのは広域防衛結界術式――」
「《聖城結界グラン・フォートレス》じゃ」
レオンが小さく息を吐く。
「……王国級結界魔法」
アルトも少し目を見開く。
「本当に使えたのか……」
カイは静かに聞いていた。
ベルクは苦笑する。
「完全状態ではない」
「本来は複数の高位術師で維持する大規模結界じゃ」
「じゃが当時は人手が足りんかった」
「だからワシ一人で無理やり起動した」
さらりと言う。
だが内容は無茶苦茶だった。
「《聖城結界グラン・フォートレス》は、
巨大防壁型の多層結界じゃ」
「物理衝撃」
「魔力侵食」
「呪術干渉」
「広域魔法」
「全部を分散処理しながら街全体を覆う」
カイが少し目を細める。
「……複雑」
「複雑じゃよ」
ベルクは笑う。
「しかも当時は、
外から大型魔獣が延々ぶつかってきておった」
「結界表面へ衝突する度、
術式負荷が跳ね上がる」
「普通なら数時間で崩壊する」
レオンが苦笑した。
「なのに三日持たせたんだよなこの人」
「正直あれは気合いじゃった」
「気合いでどうにかなる規模じゃねぇよ……」
アルトが呆れる。
ベルクは少しだけ遠くを見る。
「最初の日はまだ良かった」
「じゃが二日目から地獄じゃ」
「魔力回復剤は尽きる」
「術師達は倒れる」
「結界制御盤は熱暴走寸前」
「それでも維持せねば後ろの街が終わる」
静かな声だった。
だがその場にいた全員が、
当時の凄惨さを想像して黙る。
「結界の内側では避難民が泣いておった」
「子供も多かった」
「だから絶対に割れんよう、
術式を何重にも重ね直した」
ベルクは湯へ浸かったまま、
静かに拳を握る。
「最後の方は、
自分の魔力なのか生命力なのかも分からん状態じゃったな」
レオンが低く呟く。
「……英雄じゃん」
ベルクは少し困ったように笑った。
「ただの老いぼれ術師じゃよ」
だが。
カイには分かった。
この人は本当に、
命を削って人を守ったのだと。
ぽつりと、
自然に言葉が漏れる。
「……すごい」
ベルクは少し驚いたあと、
優しく笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいのう」
その時。
レオンが湯へ背中を預けながら笑う。
「じゃあ次、俺の話するか」
アルトが呆れた顔になる。
「絶対言いたかっただろ」
「まあな」
でも。
レオンの表情も、
少しだけいつもと違っていた。




