第115話 湯煙の街
山道をさらに進んでいくと、
空気が少しずつ変わり始めた。
森の冷たい風の中へ、
微かに熱を含んだ湿気が混ざり始める。
硫黄の匂い。
温かい水の匂い。
地面のあちこちから、
白い湯気が細く立ち上っていた。
「おー、近いな」
レオンが前方を見る。
山道はゆるやかに開け、
木々の隙間から景色が見え始めていた。
谷間。
その中央に広がる温泉街。
木造の建物が斜面沿いに並び、
至る所から白い湯煙が上がっている。
赤茶色の屋根。
木製の橋。
石畳の坂道。
温泉水路が街の中を流れ、
白い湯気を立てていた。
夕方前の柔らかい陽光が、
湯煙を薄金色に染めている。
遠くからは、
人々の賑わいまで聞こえてきた。
ティアが目を輝かせる。
「わぁぁ……!」
「すごいです……!」
リナも少し感動していた。
「思ったより本格的ね」
カイは黙って景色を見ていた。
こんな場所は初めてだった。
山。
湯煙。
温かそうな街。
ただ見ているだけなのに、
少し不思議な気分になる。
「……煙いっぱい」
レオンが笑う。
「全部温泉だよ」
「地面から湯湧いてる」
「……すごい」
そのまま街へ入る。
石畳は少し温かかった。
温泉水が地下を流れているからだろう。
道沿いには木造旅館。
土産屋。
湯治宿。
露店。
温泉饅頭みたいな菓子を売る店まである。
風呂上がりらしい人達が、
ゆったり歩いていた。
浴衣姿の人も多い。
街全体がどこかゆっくりしていた。
「ここ好きかも」
リナが自然に呟く。
「分かる」
アルトまで頷く。
王都とは空気が違う。
急いでいる人が少ない。
みんな肩の力が抜けていた。
宿へ着いた頃には、
空は夕焼け色へ変わり始めていた。
木造の大きな旅館だった。
玄関から既に暖かい木の匂いがする。
床は磨かれた木板。
廊下には間接照明代わりの魔導灯。
窓の外には露天風呂の湯煙が見えていた。
カイは静かに周囲を見る。
「……落ち着く」
「だろ?」
レオンが笑う。
「で、温泉入るぞ」
カイが少し止まる。
「……温泉って」
「お湯入る」
「知ってる」
「じゃあ行けるな!」
そのまま男組は温泉へ向かう。
脱衣所ですら木の香りがした。
床板はほんのり温かい。
湿気があるのに不快じゃない。
奥からは湯の流れる音まで聞こえてくる。
カイは少し周囲を見ていた。
「……広い」
「初温泉だもんな」
レオンが笑う。
ガラリ、と扉を開ける。
次の瞬間。
白い湯気がぶわっと広がった。
露天風呂だった。
岩造りの大浴場。
湯は透明に近い乳白色。
湯気がゆっくり立ち上り、
夜風に流れていく。
周囲には岩と木々。
遠くには山並み。
空は夕暮れから夜へ変わり始め、
薄紫色になっていた。
温泉水が岩肌を伝い、
静かな水音を立てている。
カイは少し固まる。
「……でかい」
「入ってみ」
レオンが先に肩まで浸かる。
「あ゛〜〜〜……」
「これだよこれ」
ベルクもゆっくり浸かる。
「ふぅ……生き返るのう」
アルトは少し慣れた様子だった。
「王都の風呂とは全然違うからな」
カイは慎重に湯へ足を入れる。
「……熱っ」
「最初だけ最初だけ」
ゆっくり肩まで浸かる。
その瞬間だった。
身体中から力が抜ける。
温かい。
でも熱すぎない。
柔らかい湯だった。
山風が頬を撫で、
火照った身体を少し冷ます。
湯気越しに見える夜空も綺麗だった。
カイは数秒黙り――
「……すごい」
ぽつりと呟いた。
レオンが笑う。
「気に入ったな?」
「うん」
ベルクが楽しそうに目を細める。
「カイはこういうの初めてじゃったか」
「こんなに大きい風呂初めて」
「前はシャワーだけとかだったのか?」
レオンが聞く。
カイは少し考える。
「……前は」
「お湯に浸かる時間あんまり無かった」
少しだけ静かになる。
アルトがふっと息を吐いた。
「まあ、そういう家もあるか」
カイは特に深く考えず頷く。
「忙しかったし」
レオンは湯に浸かりながら空を見る。
「温泉はいいぞ」
「なんか全部どうでもよくなる」
「それ分かるかも」
リラックスしたせいか、
アルトまで少し素直だった。
「王都いると常に気張るからな……」
ベルクが笑う。
「貴族は大変じゃのう」
「学院も疲れる」
アルトがぼやく。
「取り巻きはうるさいし」
「親は親で期待してくるし」
「勝手に婚約話持ってくるし」
「うわぁ……」
レオンが露骨に嫌そうな顔をした。
カイは少し首を傾げる。
「結婚嫌なの」
「嫌っていうか面倒」
「まだ学生だぞ俺」
「それは確かに」
意外とカイが普通に返す。
アルトは少し笑った。
「お前、変なとこだけ普通だな」
その時。
レオンがニヤッと笑う。
「で?」
「アルトお前好きな奴いねぇの?」
「ぶっ――!?」
アルトがむせた。
「おまっ、急に何言ってんだ!?」
ベルクが楽しそうに笑い始める。
「若いのう」
「うるさい!!」
カイは静かに聞いていた。
「いるの?」
「いない!!」
「即答だなぁ」
レオンが笑い転げる。
温泉の湯気の中、
男達の笑い声が静かに響いていた。




