その名はアメリ
——夜明け前。王都の空が、薄紅に染まっていた。
嵐の夜が明け、ベルリアの空に、ようやく静けさが戻っていた。
ガブリエル邸の寝室。カーテンが、朝の風に揺れている。ベッドの上で眠るガブリエルの寝顔は、疲労を残しながらも、どこか穏やかだった。傍らのミランダが、目を細めて、その母子を見守っている。
毛布の端で、小さな手が、ぴくりと動いた。
——新しい命は、夜明けとともに、確かに息を吹き返した。
「……まったく。嵐の中で産むなんてね」
ミランダが、柔らかく笑う。
そっとドアが開いて、マリアが入ってきた。
「おはよう。……母子ともに、無事?」
「医者も、太鼓判さ」
そのとき、私は、ゆっくりと目を開けた。
「……おはよう」
かすれた声で、微笑む。
「……名前は、もう決めたのかい」マリアが、ベッド脇にしゃがんだ。
「ええ」私は、腕の中の小さな頬に、指を当てた。「“アメリ”に、しようと思うの」
「アメリ……」ミランダが呟く。「いい名だ。柔らかくて、芯がある」
「“努力の子”って、意味なの」私は、囁いた。「この子には——誰にも支配されず、自分で選ぶ力を、持ってほしい」
「お母さんに似るね、きっと」マリアが、目を潤ませる。
私は、首を振って微笑んだ。
「……似ても、いいし。似なくても、いい」
窓から、朝の光が差し込む。
——その子の名は、アメリ・カートライト。嵐の夜に生まれ、朝日に包まれて、泣いた。
◇ ◇ ◇
——産後の静養を続けるガブリエルのもとで。ベルリアとアルビオンの国境に、新たな工場の建設が、動き始めていた。
煙を吐いて進む汽車が、湖畔の町へと近づいていく。
湖を囲む、盆地の町——ヘイブン。澄んだ湖の名を、ミール湖という。線路は、この町から、アルビオン側へと続いていた。
車窓に額をつけて、ロザリーが呟いた。
「……こんな静かなところに、戦の工場を建てるなんてね」
向かいの席で、ヴィンセントが新聞を閉じる。
「静かな町ほど、変わりやすい」
「しっかし、あっしらがこんな遠くに出張るとはねえ」トーマスが、頭を掻いた。
「報いだよ」ロザリーが笑う。「あの人に——ガブリエルに、どれだけ迷惑をかけたと思ってる?」
——工場建設を担うのは、かつてガブリエルと敵対していた、この三人だった。
霧の立ち込めるヘイブン駅に降り立つと、駅前には、古びた倉庫群が並んでいた。
「これを全部、縫製と組み立てのラインに変えるのか」トーマスが見上げる。
「機械は来週。土地の測量は、明日から」ロザリーが、てきぱきと言う。
「労働者は、現地雇い?」ヴィンセントが問う。
「そう。——町ごと、変えていくんだ」
「……姉さん、本気だな」
「当たり前だろ」ロザリーは、湖を見つめた。「ガブリエルさんが命を懸けて産んだ子が、生きる世界を守るためよ」
彼女は、設計図を、ぱんと叩いた。
「やるよ。ヘイブン工場、今日から着工だ」
◇ ◇ ◇
——数日後。工場予定地の、仮設事務所。
「土質が悪いっすね。湖の水脈が、近いのか」
「補強に、鉄材が要る。だが、ブレンナール線の貨物が遅れてる」ヴィンセントが、眉を寄せた。
——戦況の悪化を受けて、国内の鉄道網は、徐々に混乱し始めていた。
「アルビオンからの部材輸送は、まだなのかい」
「国境の審査が厳しく、予定より遅延しています」技師が、頭を下げる。
「なんで!」ロザリーが声を荒げた。「うちらは、アルビオンのためにやってるのに!」
湖の対岸に、小さな舟が浮かんでいる。
「向こう岸は、アルビオン領」トーマスが、目を細めた。「平和に見えても、あっちは戦時中ですからねえ。——夜でも、鉄道警備が増えてる。軍の補給線と、共用してるんです」
「妙な連中も、いる」ヴィンセントが、低く言った。
ロザリーは、煙草に火をつけた。
「スパイか、傭兵か……。でも、止めない。——止まったら、負けだよ」
彼女は、設計図を強く押さえた。
「建てるのよ。——命を、繋ぐ場所を」
——そして、工事は、凄まじい速度で進んだ。
トン、トン、トン、と。金槌の音が、湖畔に響き続ける。
——わずか八週間で、工場は完成を迎えた。
そして。
霧の晴れる朝。工場の門前で、ロザリーが、ふと顔を上げた。
一台の車が、こちらへ近づいてくる。その後部座席から降り立つ、長身の人影。逆光の中、そのシルエットは——。
「……来た?」
ロザリーが、目を見開いた。




