軍人ニッキー
——曇天の空の下。荷車の列と、テント群が続いていた。
「雨の前は、空気が重い。物資も、人の心も、湿りやすい」
台帳を片手に、積荷を検めながら、ニッキーは独りごちた。
「弾薬、糧秣、衛生箱——欠品なし」
上官に向き直り、姿勢を正す。
「中隊分、確かに受け取りました」
上官が、短く頷いた。
「よろしい。十五分の休憩を許可する。——堅い仕事ぶりだな、カートライト伍長」
「ありがとうございます、隊長」
布をかけ直す兵たちの間を歩いていると、後ろから声がかかった。
「よう、エリート。お前の帳簿は、恋文みたいに丁寧だな」
ニッキーは振り向いて、薄く笑った。
「恋文なら、もう少し甘く書くさ。——フランツ」
フランツ・バウアー。農家の八男。長男にこき使われる暮らしに嫌気がさし、自ら志願して軍へ来た男だ。
二人は木箱に腰を下ろし、乾いたパンを割った。
「戦、結局いつまでも始まらねえな」
「ハイラントも、国際的な孤立は避けたいのだろう。——今更だけどね」
「ってことは」フランツが、鼻で笑う。「このままのらりと一年過ぎて、お前はめでたく除隊、ってわけだ」
「それが一番だ」ニッキーは、缶の水を一口飲んだ。「戻って、やるべき仕事がある」
「“戻って待ってる仕事”か」フランツが、羨望を隠さずに言う。「いい響きだな」
彼は、パン屑を指で払った。
「俺には、帰っても土地も店もない。戻れば、日銭の運び屋か、石炭運びだ。——革命が身分制度を無くしたのは確かだ。でも結局、金持ちと貧乏人の、新しい差ができただけじゃねえか」
◇ ◇ ◇
「今のアルビオンは、努力と能力で這い上がれるじゃないか」ニッキーは言った。「昔とは、全然違うよ。実際、僕の父も、裸一貫から、革命後の混乱期に身を立てて——」
「それだよ、それ!」フランツが、食いついた。「俺が気に食わないのは、そこなんだ。お前の親父が成功して高い位置にいるのは、いい。——でも、なんで息子のお前まで、そこにいるんだ」
「そんな……」
「って、悪い。つい僻んじまった」フランツは、ばつが悪そうに頭を掻いた。「まあ、でも、お前も実際に優秀だしな。いい奴だし」
「ありがとう」
「だけど、俺は——戦を望むぜ」
「!」
「戦になれば、身分も金持ちも関係ねえ。手柄さえあげれば、昇進できるんだからな」
ニッキーは、少しだけ口角を上げた。
「補給部で、武勲は難しいぞ」
「問題は、それなんだよなあ」
フランツが、大きくため息をつく。
——生まれも育ちもまるで違うのに。不思議と、フランツとは、ウマが合った。
その夜。寝台で、ニッキーは便箋を広げた。
『最愛のガブリエルへ。軍には、あらゆる人生が詰まっている。畑の若者、街の孤児、元職人——彼らと共に働くのは、僕にとって、大変な学びだ。あと少しで、務めを終える。君の店のショーウィンドウを、思い浮かべている』
ペンを置いて、小さく呟く。
「——早く、会いたい」
ふと、テント布を叩く雨粒の音に、気づいた。
「降りだしたな」兵士の声。
ニッキーは、立ち上がった。
「荷が心配だ。——シートを、見てこよう」
◇ ◇ ◇
雨の闇の中。補給列の帆布が、ばたばたとはためいていた。
ニッキーが、手早く綱を締め直す。
「手伝う!」フランツが、駆け寄ってきた。
「助かる!」
——その、瞬間。
稲光が、一閃。空が、白く裂けた。
「うわっ、雷だ!」
「でかいぞ!」
一呼吸遅れて、地を揺さぶる、轟音。
「まじかよ」フランツが、喉を鳴らす。「ここに、雷落ちないでくれよ」
「……雷?」
ニッキーは、足の裏に伝わる振動に、眉をひそめた。
「——いや。この振動は……」
そのとき、兵器係が、叫んだ。
「前線から、伝令ッ! ——ハイラント、越境砲撃ッ!!」
「「!!」」
「来やがった……」フランツの声が、震える。「ついに、戦が、始まりやがった」
ニッキーは、拳を握りしめた。
「……物資を——守るぞ!」
三発目の閃光が、連鎖する。
「全員、持ち場につけ! 消火用水も、用意しろ! 医療箱は最前列に、毛布は小隊ごとに束ねろ、馬は風下へ寄せる!」
——さらに近くで、砲弾が炸裂した。
耳鳴りの奥で、ニッキーは、たった一つの名を、呼んだ。
(——ガブリエル)
そして、雨の闇へと、駆け出していった。




