青天の霹靂
「今日は湖畔の別荘へ、釣りに行こう」
翌朝の食卓で、フレッドが上機嫌に宣言した。
「釣った魚と、地元の野菜で、夕餉といこうじゃないか」
「で、でも」ニッキーが口ごもる。「僕たちは、革命博物館に行くつもりが——」
「お前たちは、せこせこ働きすぎだ!」フレッドが一喝する。「せめて新婚旅行の時くらい、ゆっくりせんか!」
「行きましょう、ニッキー」私は微笑んだ。「ご家族の方とも、もっとじっくりお話ししたいし」
ちらりと、ミリムを見やる。彼女は相変わらず、こちらを見ようともしない。
「……わかった」ニッキーが折れた。「でも、明日からは自由に動かせてもらうからね。移動を含めて、休暇は十日しかないんだ」
「分かった、分かった。とりあえず、今日の釣りは決まりだな」
◇ ◇ ◇
「わあ……素敵な場所」
湖は、空をそのまま映したように青く澄んでいた。
「子供の頃から、よく来てるんだ」エドリックが言う。
「ガブリエル」ルーサーが振り返った。「君は、釣りはどうだ」
「あの……実は」
「ガブリエルは、ボートが苦手なんだ」ニッキーが苦笑して助け舟を出す。「一度、公園のボートでひどい目に遭ってね」
そのときの記憶が蘇って、私は思わず身震いした。揺れる船の上で、ニッキーにしがみついて大騒ぎした、あの——。
「はは!」エドリックが豪快に笑った。「女傑殿の、意外な弱点だな!」
気まずさに、私は頬を染める。
「じゃあ、ガブリエルは」ニッキーが取りなすように言った。「ミリムと残って、食事の支度をしてくれ」
「ミリムも、魚に触れなくてね。釣りにならんのだ」エドリックが付け加える。
男たちが、二艘の船に分かれて湖へ漕ぎ出していく。その背中を見送って——あとには、私とミリムだけが残された。
「さ。支度を、しましょうか」
私は、努めて明るく言った。
「お父様が地元の方から買ってくださったお肉やお野菜が、こんなにたくさん」
「…………」
ミリムは、答えない。
(……嫌だなあ。もしかして、この旅のあいだ、ずっとこんな感じなのかしら)
◇ ◇ ◇
しばらく、無言で手を動かしていた、そのとき。
「……私」ミリムが、ぽつりと口を開いた。「フランチェスカが義姉になるものだと、思っていたわ」
「!」
その名に、私の手が止まる。あの黒髪の令嬢。涙をこぼして走り去っていった——。
「フランチェスカさんと、お知り合いなの?」
「それはもう。仲のいい姉妹のように育ったわ」ミリムは、遠い目をした。「この別荘にも、何度も一緒に来たし」
そして、こちらを見て、ぴしゃりと言った。
「だから、ニッキーがあなたみたいな“年増”を選んだなんて、本当に驚いたのよ」
——ああ。やっぱり、そこか。
私は苦笑して、正直に打ち明けた。
「私も、結婚する前に初めてフランチェスカさんを見たとき。——まったく同じことを思ったわ」
「!」
ミリムが、虚をつかれた顔をする。
「若くて、綺麗で、家柄も申し分ない。この人こそニッキーさんにふさわしいって。——でも」
私は、ふっと笑った。
「彼はこの一年、何ひとつ変わらず、私に愛情を注いでくれた」
「あ、あなたは、どうなのよ」ミリムの声が、少し揺れた。「あなたは……ニッキーを、愛してるの?」
その問いには、すぐには答えず、私はゆっくりと言葉を選んだ。
「……結婚すると、ね。意外なところが見えてくるものよ」
頑固なところ。妙に抜けているところ。いつも裾の出ているシャツ。
「家での彼と、仕事での彼は、まるで別人なの。——でも」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「今はもう、その全部が愛おしいの。私たち、今、最高に幸せよ」
ミリムはしばらく、私の顔を見つめていた。その頬が、つられたように、ほんのりとゆるんでいく。
「……そこまで言われたら」彼女は、ふっと息を吐いた。「認めざるを得ないわね」
そして、ドレスの裾をつまみ、優雅にカーテシーをしてみせた。
「これからも、よろしく。——お義姉様」
(——なんだ。可愛らしい子じゃない)
◇ ◇ ◇
——一方、湖の上では。
大物を釣り上げたフレッドが雄叫びを上げ、ルーサーが慌てて網を差し出していた。
「ほれええええ!」
その豪快な様子を、少し離れた船から眺めながら。
「さすがだな、父さんは」ニッキーが笑った。
「…………」エドリックは、笑わなかった。
代わりに、低い声で切り出した。
「——実は近々、お前に兵役が科される」
「!」
ニッキーの顔から、笑みが消える。
「ちょっと待って。どういうことだい。僕には事業があるから、免除されていたはずじゃ」
「ああ」エドリックは、湖面を見つめたまま頷いた。「だから俺は軍の内側から、親父は外側から、お前を兵役から外すために、ずっと動いてきた」
「……」
「だが、ハイラントのウォルテラ侵攻で状況が変わった。——もう、裏取引で国のルールに抗うのは不可能だ」
「……なるほど」
「それでな」エドリックは、弟を見た。「これから発表される、新しい制度がある。——徴兵される前に自ら志願すれば、兵役の期間を短くできるんだ」
「短くなって、期間は?」
「通常、二年のところが——一年だ」
ニッキーは、しばらく黙り込んだ。
「募集の枠には限りがある。だが、俺ならお前をねじ込める。——どうだ」
「ふっ」ニッキーは、力なく笑った。「軍服工場といい、これといい。僕はガブリエルに、迷惑をかけてばかりだな」
「…………」
「分かったよ、兄さん」ニッキーは、静かに言った。「——僕は、軍に志願する」
エドリックが、ふと訊いた。
「ベルリア支社は、どうする」
「もちろん、父さん次第だけど……」
ニッキーの視線が、遠く岸辺へと向けられる。そこには、ミリムと笑い合うガブリエルの姿があった。
「——僕は」
ニッキーは、その背中を見つめて、静かに言った。
「あの会社を、ガブリエルに任せたいと思っている」




