新婚旅行に行くよ
——結婚式から、一年。
ブレンナール。かつてガブリエルが小さな帽子屋を営んでいたこの街に、今では真新しい看板が掲げられていた。
『ガブリエル商会 ブレンナール縫製工房 第三製作所』
ずらりと並んだミシンに向かって、大勢の女工が手を動かしている。
「さあ、今日も一気に仕上げようか!」
声をかけて回るのはロザリーだ。髪はすっかり伸び、その横顔には人を束ねる者の貫禄が滲んでいた。
事務室のガラス越しに、その様子を眺める男が二人。
「姉さんも、立派になったな」トーマスが、しみじみと言った。
「昔から、根は仕切り屋だ」ヴィンセントが、肩をすくめる。
ふと、トーマスが机に向かう一人の事務員へ目をやった。
「おい、ジャック。また在庫数がズレてるぞ」
「す、すみませんっ」
ぺこぺこと頭を下げる、その男——かつてガブリエルを娶り、賭博に溺れ、女遊びの果てに彼女を捨てた、バルサン男爵その人だった。
今では、見る影もない。頭は寂しく禿げ上がり、安物の事務服に身を包んで、伝票の山に追われている。身を持ち崩した果てに転がり込んだ先が、よりにもよって、自分が捨てた女の商会だったというわけだ。
——もっとも、本人はそれを知ってか知らずか、今日もただ小さくなって、数字を数え直している。
「しかし」ヴィンセントが、窓の外の活気に目を細めた。「この三ヶ月で、拠点も倍以上にふくれ上がった。今じゃ、ブレンナール一の縫製工場だ」
「急に大きくなりすぎてな」トーマスが、頭を掻く。「労働者のほうも、いろいろ言い始めてる。福利厚生だの、有給だの……うちは貴族様じゃねえってのに」
「ガブリエル会長は、労働環境にはちゃんと金をかけてる。だが、待遇なんて言い出したら、キリがねえからな」
ヴィンセントは、ふと手にした新聞を、トーマスの前に広げた。
「——それより、これを見ろよ」
見出しには、こうあった。
『王都で話題! 天才デザイナー・マリアの挑戦』
寄り添うように載った、凛々しい少女の写真。
「うちらの出世頭は」トーマスが、ふっと笑った。「……やっぱり、アイツだな」
◇ ◇ ◇
王都本店の、特設ランウェイ。幾筋ものフラッシュを浴びながら、マリアは堂々と立っていた。
「この斬新なライン。着想は、どちらから?」
「日々の現場から、自然に生まれたものです」
「元々、デザイナー志望だったのですか」
「……いいえ」マリアは、わずかに目を伏せた。「会長の、提案で」
「では、以前は何を——」
「…………」
マリアの言葉が、止まる。
「あの! 以前は何をなさって——」
畳みかけようとした記者の前に、すっとエレナが割って入った。
「細かなご質問は、会長が戻ってきてからでよろしいですか?」
「な、なるほど。では、会長が戻られたら、改めて」
記者が引き下がるのを見届けて、エレナはマリアを別室へ連れ出した。
「よくやったわ」差し出されたタオルを受け取って、マリアはふうっと息を吐く。
「心臓が、バクバクよ……」
「でも、今のあんたは、王都店の“顔”だからね」
「……あの記者」マリアが、唇を噛んだ。「私の過去を、探ってる気がする」
声が、震えた。
「元娼婦だったなんて、バレたら……どうしよう」
「何年も前のことよ。バレるわけないわ」エレナは、あっさりと言ってのけた。「それに——もしバレたからって、なんなのよ」
「!」
「あんたには、天才的なデザインの腕があった。そして、誰よりもそれを見事に着こなす才能もあった」
エレナは、まっすぐにマリアを見た。
「あんたの才能に比べたら、過去なんて屁みたいなものよ」
「エレナさーん! また取材です!」
「ほら」エレナが、ぽんと背中を押す。「行ってきな!」
「……行ってくる」
マリアは、両手でぴしゃりと自分の頬を叩いた。そして再びランウェイへ。背筋を伸ばし、凛とした表情で、光の中へと歩み出ていった。
◇ ◇ ◇
——一方、その頃。
アルビオン共和国の港に、一隻の汽船がゆっくりと接岸していた。
タラップを降りる乗客の列。その中に、私たちもいた。
「ついたわねえ——アルビオン」
潮風に伸びた髪をなびかせて、私は深く息を吸い込んだ。隣のニッキーも、髪型を少し変えて、どこか垢抜けて見える。
「おーい! ガブリエル〜! ニッキー〜!」
埠頭の向こうから、大きく手を振る人影。
「あ。父さんだ」
——結婚式から、一年以上。
新しく三店舗を出すのと、百貨店の品揃えを充実させるのとで、すっかり時間を取られてしまって。私たちはようやく、ニッキーの里帰りを兼ねた新婚旅行として、彼の祖国を訪れていた。
「しかし、来るのがずいぶん遅くなったじゃないか」
「申し訳ありませんでした」私は頭を下げた。「本日からお世話になります」
「なあに。ゆっくり羽を伸ばしていってくれ」
連れていかれたのは、見たこともないほど広大な庭園を構えた、お屋敷だった。
「ほえー……」私は思わず間の抜けた声を上げた。「ベルリアの貴族だって、こんなお屋敷に住んでる人はいないわよ」
「ここはね、革命前は公爵の邸宅だったんだ」ニッキーが懐かしそうに言う。「革命のとき、運よく焼け残ったのを、父さんが買い取ったんだよ」
「国民主権の象徴みたいな、お屋敷ですね」
「うん」
屋敷の中へ通されると、フレッドが奥へ向かって声を張り上げた。
「おい、お前たち。ニッキーが一年ぶりに、嫁さんを連れて帰ってきたぞ!」
「久しぶり。ルーサー兄さん、エドリック兄さん」
現れたのは、二人の男だった。一人は髭をたくわえた、ニッキーをそのまま優しくふくよかにしたような長兄ルーサー。もう一人は、いかにも軍人然とした、精悍な次兄エドリック。
「よく帰ってきたな、ニッキー」ルーサーが、目を細める。
「おっ」エドリックが、私に視線を移した。「その人が、今ベルリアで“女傑”と評判の、噂の奥方かい?」
「は、はじめまして。ガブリエルと申します」
——女傑?
内心首を傾げる私に、エドリックはにやりと笑って、こう言った。
「さっそく、食事にしようじゃないか、ガブリエル。——実は軍として、君に提案したいことがあるんだ」
——軍?
聞き慣れない言葉に、私はわずかに身構えた。
このエドリックとの出会いが、やがて私の商会の運命を根こそぎ変えてしまうことになるとは。このときは、まだ思いもしなかった。




