父との邂逅
「お父様……」
掠れた声が、喉から漏れた。
——結局、私は結婚式に父を呼ばなかった。手紙の一枚さえ書かなかった。招待客の名簿を作るとき、ふと父の顔がよぎったけれど、その名を線で消すまでもなく、最初から書かなかったのだ。
妹のアンネリーゼも、それを止めなかった。あの子はもう、父が私にとって何だったのかを——あの辛い過去そのものなのだと、理解していたから。
幼い私は、来る日も来る日も領地の雑務を押しつけられた。やがて運営が軌道に乗ると、父は用済みの道具を手放すように、私をジャック・バルサン男爵のもとへ嫁がせた。
——もちろん、すべては私の推測でしかない。
ただ、あの頃の父の、こちらを見ようともしない冷たい目が、私にそう思わせ続けてきたのだ。
だが、十年ぶりに見るその顔は。
記憶の中の、刃のように冷たかった面影とは、まるで違っていた。年老いて、皺が増え、どこか柔らかくなって。
(——お父様、こんな顔だったかしら。なんだか、小さくなったみたい)
「ガブリエル」
隣で、ニッキーが頭を下げた。
「君の気持ちを無視して、勝手に呼んでしまってすまない」
「ニッキー……」
「だが」彼はまっすぐに私を見た。「僕たちが家族になる上で、これは絶対に必要なことだと判断したんだ」
父が、一歩前に出る。
「ガブリエル。お前に何があったのか、すべてニッキーさんから聞かせてもらった」
低い、けれど穏やかな声だった。
「お前が私を嫌い、避けていることも承知の上で、恥を忍んでここへ来た」
そして深く息を吸って。
「一言だけ、言わせてくれ」
私は、動けなかった。
「——結婚、おめでとう。どうか、幸せになってくれ」
その言葉に、私は目を見開いた。
◇ ◇ ◇
アンネリーゼも、ニッキーも、控えていた侍女までも。誰もが息を詰めて、見守っている。
「では、私はこれで。帰るよ」
父は寂しそうに微笑むと、ゆっくりと踵を返した。
その背中が、扉へ向かって遠ざかっていく。
——行かせて、いいの?
十年。憎んで、避けて、いないものとして生きてきた相手だ。今さら、何を。そう思うのに。
「——お父様!」
気づいたら、呼び止めていた。
父の足が、ぴたりと止まる。
私はその背中に向かって、顔も見せないまま、声を絞り出した。
「……領地の運営は、上手くいってるの」
父は、振り返らずに答えた。
「ああ。上手くいっているよ。お前が仕組みを作ってくれたおかげだ」
「……身体は、元気なの」
今度は、父が振り返った。皺だらけの顔で、笑って。
「ああ。なんの心配もない。のんびりやらせてもらっているよ」
——だめだ。
下を向く。こらえていたものが目の奥で熱く滲んで、もう止まらなかった。
「お父様!」
私は、叫んでいた。
「帰らないで。最後まで……最後まで、見ていって」
父はしばらく黙って、それから噛みしめるように言った。
「……ああ。ありがとう」
どちらからともなく、二人の距離が縮まる。
そして私は、父の胸に抱きとめられていた。
——なぜ、許せたのだろう。
あれほど強大で恐ろしかった父が、今は抱きしめればすぐ折れてしまいそうなほど、小さく、弱くなっていたから。その背中が、どうしようもなく愛おしく思えたから。私は、そう思った。
——けれど。本当に変わったのは父ではなく、かつて強かった父さえ包み込めるほどに成長した、私自身なのだということに。このときの私は、まだ気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
「ガブリエル……」
ニッキーが、おずおずと近づいてくる。
私はその胸を、ぽすんと叩いた。
「もう。目が腫れちゃうじゃない」
「ごめん」
「……でも」私は涙を拭って、笑った。「ありがとう、ニッキー」
父とアンネリーゼが、そっと挨拶する。
「では、我々は先に会場へ行っているよ」
「頑張ってね、お姉様」
二人を見送って、それからしばらく。
「……出来ました」
侍女が、そっと手を止めた。鏡には、まだ私を映さないまま。
「ど、どうかな」
おそるおそる振り返った私を見て、ニッキーはふっと息を呑んで言った。
「君は——いったい何度、僕を惚れさせれば気が済むんだ」
◇ ◇ ◇
——カートライト百貨店、最上階。イベントスペース。
詰めかけた招待客が、口々にざわめいている。
「驚きましたな、あの動く階段」
「うちの家内など、腰を抜かしそうになっておりましたぞ」
「なんでも昨年の万国博覧会で公開された、電動式のものらしい」
「VIPのお客は、昇降機というものを使っているそうですよ」
「ほほう、乗ってみたいものですなあ」
その喧騒を、よく通る声が断ち切った。
「——ご会場においでのお客様。どうか、ご静粛に願います」
マルコスだ。場が、しん、と静まる。
「ただいまより、カートライト百貨店、開業記念セレモニー。並びに——」
彼は、高らかに告げた。
「——弊社代表夫妻の結婚式を、開始いたします」




