何度でも
レストランの個室に、張りつめた沈黙が、満ちていた。
フレッド会長。ニッキー。そして、まだ席にいる、フランチェスカ。三人の視線が、それぞれの思惑を抱えて、宙で絡んでいる。
その沈黙へ、私は、ぽつりと、声を置いた。
「……ニッキーさん」
フレッド会長の目が、こちらを向く。
「私、フレッド会長のおっしゃることは——その通りだと、思っているんです」
「!」ニッキーが、息を呑んだ。
「私よりも、若くて、家柄もいい、フランチェスカさんと、結婚すべきだと」
フランチェスカが、わずかに、目を伏せる。
「——その上で」
私は、まっすぐに、ニッキーを見た。
「もう一度だけ。ニッキーさんの気持ちを、聞かせてくれますか」
ニッキーは。一拍の、ためらいもなく。むしろ、ひどく静かな声で、言い切った。
「言っただろう。僕は、支社長を追われたって、構わない。——僕は、ガブリエルさんを、妻にしたいんだ」
「貴様っ……!」
フレッドが、立ち上がり、ニッキーの胸ぐらを、掴み上げた。けれどニッキーは、その手を、涼しい顔で、見返すだけだった。
「ああ、言っておくけどね」
ニッキーが、静かに、付け加える。
「たとえ、このまま、ガブリエルさんに振られたとしても。——僕は、フランチェスカとは、結婚しない。一生、独身で、構わない」
——あ。
その瞬間、私は、見てしまった。
すまし顔を保っていた、フランチェスカの。その頬を、すうっと、一筋の涙が、伝うのを。
私は、とっさに、ハンカチを、差し出していた。
「……大丈夫、です!」
フランチェスカは、それを、見もせずに。椅子を引いて、立ち上がり——個室を、走り出ていった。
あとには、なんとも言えない、気まずい空気だけが、残された。
「ニッキーさん」私は、思わず、咎めた。「あんな言い方、しなくても……追ってあげて」
「悪いのは、父さんだ」
ニッキーは、引かなかった。
「そ、それよりも——」
彼は、私に、向き直った。
「ガブリエルさんの、気持ちは。どうなんですか」
◇ ◇ ◇
「……そうですね」
私は、少しだけ、間を置いた。それから、正直に、打ち明けることにした。
「実は、私……」
「はい」
「ここに、フランチェスカさんが、現れたときよりも」
私は、ニッキーの目を見た。
「ニッキーさんが、『支社長を解任する』と、言われたことのほうが——ずっと、ショックだったんです」
「……!」
「だって。ニッキーさんが、支社長じゃ、なくなったら。これまで、援助を受けてきた、うちの商会も——どうなるか、分からない」
ニッキーが、固まった。信じられない、という顔で。
「はっ」フレッドが、笑った。
「随分と、冷酷な女だな。倅と結婚できることよりも、自分の商売の心配が、先に立つとは」
私は、悪びれずに、頷いた。
「はい。私、そういう女なんです」
ニッキーの顔から、すうっと、色が引いていく。失望が、彼を、固めていくのが、分かった。
「——でも」
私は、続けた。
「ニッキー。あなたが。支社長の椅子を、捨ててでも。私と、一緒になりたいと、言ってくれて」
ハッと、ニッキーが、顔を上げる。
「……嬉しかった」
私は、すっと、彼の手を、取った。
「だから」
「!」
「私も。覚悟を、決めたわ」
ニッキーの瞳が、揺れる。
「たとえ——私の商会が、傾いても。構わない。何度だって、やり直せるもの」
それは、本心だった。一度、ぜんぶ失って。空っぽの両手から、ここまで歩いてきた私だ。怖いものなんて、もう、ない。
「あなたが。隣に、いてくれるなら」
「ガブリエルさん……」
私は、息を吸って——言った。
「ニッキーさん。私と、結婚して、くれますか?」
ニッキーは。みるみる、瞳に、涙を、溜めて。
「……はい。命をかけて。生涯、お守り、いたします」
「もう。泣くことないじゃない」
「だって」彼は、子供みたいに、笑った。「ガブリエルさんに、ここで、振られるかと……」
「そんなわけ、ないでしょう」
呆れたように言って——私も、笑った。
その向かいで、フレッドが、目を、見開いていた。
◇ ◇ ◇
「——ということで」
私は、フレッドに、向き直った。
「私たちの気持ちは、決まりました。あとは、すべて、会長の、思うがままに、お進めください。——主導権は、あなたに、ございます」
恭しく、頭を下げる。
——冗談じゃない。主導権を握っているのは、お前だろう。
フレッド・カートライトは、胸の内で、そう、毒づいた。
これ以上、反対すれば。ニッキーは、本当に、家を出る。そうなれば、自分は、跡取りを一人、失い。その上、ベルリア支社まで、失うことになる。
当初は、ベルリア支社など。マルコスにでも任せておけば、勝手に育つと、思っていた。——だが、違った。
ベルリア支社は。この女の、手腕によって。ここまで、育ってきたのだ。商売の根幹も。そして、息子の心も。この女は、とっくに、すべてを、掌握していた。
つまり——外堀は、とうに、埋まっていた。
その上で。この女は、涼しい顔で。交渉のテーブルに、座っていたのだ。
「……参ったな」
フレッドは、ふいに、立ち上がった。
「フランチェスカが、戻ってこない。——探しに、行ってくるよ」
「父さん!」
ニッキーが、腰を浮かす。
「話は、まだ、終わってないよ!」
「ニッキーよ」
フレッドは、振り返って、にやりと、笑った。
「女知らずの小僧が。——随分と、いい女を、捕まえてきたじゃないか」
「!」
「ガブリエルさん。本当に、こんな倅で、いいのかね。——どうだ、こいつより。ワシの女に、ならんか」
「父さん!」
「はっは。冗談だ」
フレッドは、席を立った。それから、ふと、思い出したように。
「ガブリエルさんや。——先ほどの、金貨で。ここの勘定を、払っておいてくれ」
……あの、侮辱の、金貨で。
私は、吹き出しそうになるのを、こらえて、頭を下げた。
「——かしこまりました」
扉の前で、フレッドは、こちらを、振り向いた。
「ニッキー。明日、ベルリア支社で、会おう」
そして。
「——結婚式の相談は。そのときに、な」
「「!」」
私とニッキーは、思わず、顔を、見合わせた。
結婚式。
——ああ、そうか。私は、本当に。この人の、息子の、妻に、なるのだ。そして、この、嵐のような男が——私の、義理の父に、なる。
不思議だった。あれほど、私を、潰しにかかっていた相手なのに。今は、胸の奥に、奇妙な——高揚が、ある。
夫を、一人。そして、とびきり厄介で、面白い、義父を、一人。私はどうやら、同時に、手に入れて、しまったらしい。
——さあ。ここからだ。
戦いは、終わったんじゃない。むしろ——いちばん、大きくて、派手な戦が。明日から、始まる。




