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席を立たなかった女

レストランの個室に、私の、努めて明るい声が響いた。


「へえ——。お二人は、アルビオンで、知り合われたんですか?」


ワインを片手に、フランチェスカが微笑む。


「ええ。父が、アルビオンに赴任していた頃。フレッド会長の、パーティーに招かれて」


「その頃のフランチェスカは」フレッドも、グラスを傾けた。「まだ、これっぽっちの、小さな少女だったがな」


「懐かしいですわ。ねえ——ニッキー様」


「そ、そうですね」


ニッキーは、借りてきた猫のように、座っていた。その顔には、「一体、何がどうなって、こんなことに」と、ありありと書いてある。そして、「だいたい、ガブリエルさんは、何を考えているんだ」とも。


「ちょっと、待ってください!」ニッキーが、たまらず口を挟んだ。「まずは、ガブリエルさんのことを——紹介、させてくれませんか!?」


「ガブリエルさんは——」


言いかけた、ニッキーを。フレッドの声が、遮った。


「ガブリエル・ド・ランベルク」


「!」


私と、ニッキーが、息を呑む。


「ベルリア国、ヴィエール地方の、地方貴族の出。——だな」


「……っ」


「妹は、アンネリーゼ。ヴィラール伯爵夫人。離縁歴、あり。元夫は、ブレンナールの、ジャック・バルサン男爵」


すらすらと。まるで、何度も読み返した書類を、諳んじるように。


「女手ひとつで、ガブリエル商会を立ち上げ、現在、急成長中の——女経営者」


「……ガブリエルさんを、調べたのか」


ニッキーの声が、低い。


「当たり前だ」フレッドは、悪びれもしない。「我が社も、相当の資金を、貸し付けているだろう?」


「……はい」私は、頭を下げた。「ご融資には、大変、感謝しております」


「いやいや。礼には、及ばん」


フレッドの顔が、ふいに、優しくなった。


「貴方が、有能なご婦人だと、私は理解しているよ。むしろ、弊社のベルリア進出には、大変、有益な——協業者だ。これからも、ぜひ、カートライト商会を、よろしく頼む」




◇ ◇ ◇




「はい。こちらこそ、どうぞ、よろしくお願い、いたします」


頭を下げながら——私は、思考を巡らせていた。


——この人は。最初から、ぜんぶ、分かっていたんだ。私たちと、カートライト商会の関係も、すべて把握した上で。


私が顔を上げた、その瞬間に、被せるように。


「だが」


フレッドは、微笑を浮かべた。


「倅の、伴侶となると——話は、別だ。わかるね」


「…………」


「なんで、そんなことを、父さんが決めるんだ!」


ニッキーが、気色ばむ。


「親が、子の将来を決めるなど、当たり前のことだ」


「馬鹿馬鹿しい! ウチは、貴族でもない。そんな道理、あるもんか!」


——一瞬。フランチェスカが、寂しそうな顔を、した気がした。


「これからは、自由恋愛の時代だ!」ニッキーが、まっすぐに言い切る。「僕が、妻にしたい人は、僕が決める!」


「!」


「それで、支社長を、解任したいなら。すればいい。——僕はもう、カートライトには、戻らないからね」


——っ!


私は、思わず、ニッキーを見た。


その、覚悟の強さに。胸を突かれる。この穏やかな人が。私のために、家を、地位を、ぜんぶ捨てると、言っている。


「ニッキー様にとって。この方は、それほどの、思い人なのですね」


静かにワインを飲みながら、フランチェスカが言った。


「そうだよ!」ニッキーが、フレッドを睨む。「だいたい、なんで父さんは、フランチェスカなんかを、連れてきたんだ!」


「…………」


フランチェスカは、何も答えなかった。


「ガブリエルさんは——二十八、だったかな」


ふいに、フレッドが、私に矛先を向けた。


「……今月で、二十九に、なります」


「二十九歳の、忙しい女経営者が」彼は、淡々と続けた。「これから、ニッキーの子を、何人、産めるんだ?」


「……はあ?」ニッキーの声が、凍る。


「その点、フランチェスカは、十九歳。これから、まだまだ、何人でも産める」


がたり、と。ニッキーが、立ち上がった。


「もう、限界だ! これ以上、聞いていられない。——行きましょう、ガブリエルさん!」


「ニッキーさん」


私は、静かに、彼を見上げた。そして。


「——フレッド会長の、おっしゃっていることは。すべて、事実ですわ」


「……っ!」


平然と、そう返した私に。ニッキーは、信じられない、という顔で、絶句した。




◇ ◇ ◇




「フレッド会長」私は、グラスを置いた。「もう少し、フランチェスカさんのことを、教えていただけますか」


「……ふむ」


フレッドの口元が、わずかにゆるんだ。面白い、とでもいうように。


「フランチェスカは。あの、エルミュール商会の、一人娘でな」


「……っ」


「ガブリエルさん。エルミュール商会は、知っているね」


「はい、もちろん」私は、頷いた。「造船と、海運を担う——我が国でも、最大級の商会の一つ、ですね」


「そうだ」フレッドの目が、光る。「エルミュール家と、商社たる、カートライト家が、結びつけば。世界を、股にかける、ビジネスが、生まれる」


そして、彼は、静かに付け加えた。


「それは——衣服を、ちまちま、売るビジネスとは。比べ物に、ならんほどの、な」


「!」


衣服を、ちまちま。その言葉は、確かに、私の商いの急所を、突いていた。


けれど。不思議と、悔しさよりも、納得が勝った。——ああ。この人は、本気で、そう信じているのだ。


「ガブリエルさん。貴方は、賢く、有能なご婦人だ。そして——この席を、立たない、胆力もある」


フレッドは、グラスを掲げた。


「そんな、貴方に。敬意を表して、言わせてもらおう」


そして、まっすぐに、私を見て。


「どうか——倅のことは。諦めて、くれ」


「!」


——その一連の流れで。私は、ようやく。フレッド・カートライトという男の、輪郭を、掴んだ。


この人は。義母である、ミランダとは、違う。


ミランダも、利益を追求する女だ。けれど、その利益は、あくまで——「個」である、彼女自身の、幸せのため。


対して、フレッドの行動の、すべての基準は。自分よりも、カートライト商会という——「全体」の発展に、どれだけ寄与するか、なのだ。


封建社会が生んだ、貴族の、ミランダ。資本主義が生んだ、ブルジョワジーの、フレッド。


二人の、その、決定的な違い。


そして——気づいて、しまった。


私の、商売に対する、考え方は。どちらかといえば。このフレッドのほうに——ずっと、近い。


だとしたら。この人を、動かす言葉は。恋でも、情でも、ない。


私が、いちばん得意な——商売の、言葉だ。


会食は、まだ、終わっていない。


私は、空になったフレッドのグラスに、そっと、ワインを注いだ。

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