甚だしい侮辱
「さあ、中に入ろう。フランチェスカ嬢」
フレッド会長にエスコートされて、黒髪の令嬢が、しずしずと、歩を進める。
——なんて、綺麗な子。
呆然と、私は見惚れていた。陶器のような肌。長い睫毛。隙のない、たたずまい。
——この子が。ニッキーと、お見合い……?
ふと、その令嬢が、私の視線に気づいた。彼女は、ほんの少し首を傾けて——丁寧に、会釈をした。つられて、私も、思わず会釈を返す。
「おい、君」
不意に、フレッドが、こちらに声をかけながら、自分の胸元を、ごそごそと漁りはじめた。
「!」
ぐい、と。私の手が、取られる。その手のひらに、彼は、何かを押しつけてきた。
ずしり、と重い、それは——金貨。
「私は、長く、ここにはいられない身でね。どうか今夜は、ニッキーを、譲ってくれないだろうか」
「……」
「それは、お詫びの印だ。受け取ってくれ」
——金貨?
私の頭は、その意味を、うまく処理できなかった。
「やめろ、父さん!」
ニッキーが、その手を、振り払った。
「これ以上、僕に、恥をかかせないでくれ!」
「なんだと?」フレッドの目が、すっと細くなる。「ニッキー。貴様、一体、誰に、口を聞いているつもりだ」
——え?
私は、混乱の中で、必死に状況を追おうとした。
今日は。ニッキーが、私と結婚したいと。お父様に、会わせに来た、日のはず。
——なのに、この人は。それを知っていて、別の女性を、連れてきた? それとも、何かの、手違い……?
「……困った状況に、なりましたね」
ふいに。隣に立った黒髪の令嬢が、苦笑まじりに、私に囁いた。
——え? どういう、意味?
この子も、何も知らずに、連れてこられた? 私と、同じ——被害者同士、ということ?
混乱は、深まるばかりだった。
◇ ◇ ◇
「フランチェスカ!」
ニッキーが、令嬢に詰め寄った。
「君からも、言ってやってくれ! 僕たちが、見合いなんて——馬鹿げてる!」
「!」
けれど、フランチェスカは。すまし顔で、こう答えた。
「あら。馬鹿げてなんて、おりませんわ。私は、納得して、この場に来ておりますもの」
「……はあ?」
「むしろ」彼女は、私とニッキーを、交互に見やった。「まさか、この私を差し置いて。ニッキー様が、他の女性と結婚なさろうとするなんて——思っても、いませんでしたわ」
「!」
私の心臓が、嫌な音を立てた。
「ち、違うんです」ニッキーが、慌てて私を見る。「フランチェスカとは、昔から、知っているだけで——」
そこで、彼の言葉が、止まった。
「……ってことは。父さんも、君も。今日のこの場が、何なのか、ぜんぶ理解した上で——来た、っていうのか」
絶句する、ニッキー。
フレッドは、にこやかに、私に向かって言った。
「お帰りを」
「…………」
私の思考が、止まった。
——甚だしい羞恥が、私を襲っていた。
今日、私がここへ来た理由。ニッキーの、まっすぐな意図。そのすべてを。この二人は——最初から、ぜんぶ承知の上で、ここに来たのだ。
つまり、これは。
フレッド・カートライトという男の、明確な——意思の、証明。
『ガブリエルという女を、絶対に、認めない』という。
「ガブリエルさん、ごめんなさい!」
ニッキーが、私の背を押した。
「父さんは、どうかしている! 今日は、別の場所で、僕と、食事を——」
「ニッキー」
歩き出そうとした、私たちの背中を。フレッドの低い声が、撃ち抜いた。
「言うことを、聞けないのであれば」
私と、ニッキーが、振り返る。
「貴様を——ベルリア支社長の、座から、解任する」
◇ ◇ ◇
「ちょっと、待って!」ニッキーが、声を上げた。「今度は、一体、何を言い出すんだ!」
「親の言うことを、聞けない息子に。支社長など、やらせられん。当然のことだ」
——え? ニッキーが、解任?
「そんなの……!」
そんなの、困る——と、言いかけて。私は、ふと、口をつぐんだ。
自分でも、驚いたのだ。
——いま、私が、とっさに感じた脅威。それは。この場の羞恥なんかよりも、ずっと。
自分の商売が、脅かされることへの、恐怖だった。
冷静に、考えてみれば。ニッキーが、カートライト商会の、支社長の座から、いなくなる。それは、ガブリエル商会にとって——存亡に関わる、事態だ。
これまで、私たちは。ニッキーから、計り知れない援助を、受けてきた。初期の運転資金。商品の流通。原材料の仕入れ。その、商いのすべての流れが、彼を通っている。
——それを。自分の恋や、結婚の事情なんかで。頓挫させるわけには、いかない。
胸の奥で。恋に舞い上がっていた私とは、別の、もう一人の私が——氷のように冷たく、そろばんを、弾いた。
そして、その、ある意味では冷酷ともいえる自制心が、導き出した答えは。
「あ……あのう」
私は、二人の間に、割って入った。
「だったら——みんなで、ワインでも、飲みませんか?」
『——ワインでも、飲みながら。話そうぜ?』
いつかの、ミランダの声が。耳の奥で、こだまする。
ニッキーが、フランチェスカが、そして、フレッドまでもが。ぎょっと、私を見た。
私は、まっすぐに顔を上げた。逃げない。席を、立たない。
——いま、私が手に入れるべきは。怒りでも、涙でもない。
より良い未来を、手繰り寄せるための、交渉のテーブルだ。
気づけば、私は。あのしたたかな母——ミランダの手法を。その身に、宿しはじめていた。




