恋を知った日
「私が、心から愛している、女性だと」
ニッキーの言葉が、部屋に、残響していた。
私は、動揺を隠せずに、うつむいた。
「ど……どうして、私なんですか」
「それは。ガブリエルさんが、素晴らしい方だから」
「そうじゃ、なくて」
私は、髪の先を、意味もなく、いじった。
「ビジネスパートナーとしてなら……私たち、合っていると、思います」
「はい。それは、同感です」
「でも。生涯の伴侶として、見たら——ニッキーさんのお相手は、やっぱり、私じゃ、ない気がして」
「僕が」
ニッキーは、引かなかった。むしろ、さらに、押してきた。
「僕が、あなたを、望んでいるんです。あなたが、いいんです」
「……っ」
「ガブリエルさんと、歩みたいんです」
その言葉が、一つ、また一つ、私の奥の、柔らかいところに、刺さっていく。
——ガブリエルは、恋を、したことがない。
幼い頃から、家の手伝いに、追われていた。父の愛情も、母の関心も、いつだって、妹のほうにばかり、注がれた。男の人と、自然に言葉を交わす機会なんて、ただの一度も、なかった。
やがて、義務のように、嫁いだ。義務のように、尽くした。そして、あっけなく、終わった。あの結婚に、ときめきなんて、ひとかけらも、なかった。
恋というものは。ナタリーやミシェルのように、自分の知らないところで、自分以外の、幸運な人たちが、繰り広げるもの。私には、一生、縁のないもの。ずっと、そう思って、生きてきた。
だから——今。
目の前で、こんなにもまっすぐに、「心から愛している」と告げられても。私は、それを、どう受け取ればいいのか、わからない。
ただ。
胸の、いちばん奥から。じわり、と、湧き上がってくるものが、あった。
たとえるなら——黄金色の、衝動。
商売がうまくいったときの、あの誇らしい高揚とも、また違う。もっと、甘くて、頼りなくて、こわいくらいに、あたたかい、何か。
——ああ。
私は、ようやく、気づいた。
これは。私にとって、生まれて初めての——恋、だったのだ。
◇ ◇ ◇
「へえええええ! ニッキーのお父さんと、会うことにしたんだ!?」
エレナが、目を丸くした。
「う、うん」
私は、恥ずかしさに、うつむく。リビングのテーブルを挟んで、私たちは額を寄せ合っていた。
「きゃーーー! じゃあ、ニッキーと、いよいよ、くっつくのね!」
「そ、そんなの、分かんないわよ。ニッキーのお父様が、きっと、反対なさるわ」
「ニッキーは、なんて言ってるの」
「……絶対に、認めさせる、って」
「うーん」エレナが、頬に指を当てる。「大丈夫かなあ。怖いお父様に反対されて、それでも、あなたを守ってくれるかしら。ニッキーって、ちょっと、頼りないところ、あるじゃない」
「そんなこと、ないわよ!」
気づいたら、声が、跳ねていた。
「ああ見えて、ニッキーさんは……商談になると、すごく、頼もしいところが、あるんだから!」
「……そんなに、ムキにならなくても」
「!」
エレナが、にまり、と笑った。
「もう。あなたも、すっかり、ニッキーを、愛しちゃってるじゃない。焼けるわ〜」
「な、な、な——」
「エレナさーん。カボチャパイ、焼けましたよ」
ひょこ、と顔を出したのは、エプロン姿のマルコだった。
「ありがと、マルコ!」
「…………」
私は、思わず、二人を見比べた。
「……あの。マルコって、もう、ここに、住んでるの?」
「そういうわけじゃ、ないわよ!」エレナが、ぱたぱたと手を振る。それから、いたずらっぽく、マルコを横目で見た。「ただ、彼が、私に首ったけで——なかなか、家に帰ろうとしないだけ」
「エ、エレナさんっ!」
真っ赤になるマルコが、おかしくて。張りつめていた気持ちが、少しだけ、ほどけた。
「大丈夫よ、ガブリエル」
エレナが、ふいに、優しい声で言った。
「あなたとニッキーは、お似合いよ。それに——お互い、ちゃんと、愛し合ってる」
「……っ」
「だったら。お父様どころか、神様だって、反対なんか、できやしないわ」
エレナは、にっと笑って、私の背を、ぽんと叩いた。
「頑張って、いってらっしゃい。——しっかり、おめかしして、いくのよ」
「……ありがとう。エレナ」
◇ ◇ ◇
そして。ニッキーの父との、会食の日が、やってきた。
車で迎えに行く、というニッキーの申し出を、私は、固辞した。待ち合わせのレストランまで、一人、歩いて向かう。
——道すがら、もう一度、自分の気持ちを、整理しておきたかった。
どっ、どっ、と。心臓が、うるさい。
——ああ。なんだか、とても、緊張する。
ニッキーのお父様は、一代で、カートライト商会を、アルビオン最大の商店にまで、育て上げた人。
——商人同士。商売の話なら、案外、分かり合えるかもしれない。それとも——。
考えながら、角を曲がった、そのとき。
レストランの、前で。
「——冗談じゃない! ちゃんと、手紙で、お伝えしたじゃないですか!」
聞き慣れた声が、荒々しく、響いた。ニッキーだ。
「こんなこと、ガブリエルさんに、失礼すぎますよ!」
「……ニッキー?」
私が駆け寄ると、ニッキーが、はっと振り返った。
「! ガブリエルさん」
「どうしたんですか、ニッキーさん」
「すみません……父が、とんでもないことを」
そのとき、私は、ニッキーの向こうに——立っている、巨大な人影に、気づいた。
ゴゴゴ、と。空気そのものが、重くなるような威圧。鉄のステッキ。岩のような肩。
——もしかして。この方が、ニッキーの、お父様……?
「は、初めまして。私、ガブリエルと……」
震える声で、頭を下げかけた、私に。
その人——フレッド・カートライトは、にこりともせず、言い放った。
「悪いが、君。今日は、帰ってくれるかね」
「父さん! 何を言い出すんだ!」
「息子は、これから、見合い相手と、食事をするのでな」
「父さん!」
フレッドが、すっと、手を差し伸べた、その先。
「さあ——フランチェスカ嬢。中に、入ろう」
ニッキーの叫びも、どこか遠くに聞こえた。
呆然とする、私の前に。
しずしずと、進み出てきたのは——艶やかな、黒髪の。
息を呑むほど、美しい、令嬢の姿だった。




