流される
マンダール広場に面した、私の事務所兼自宅。そこはこのところ、何台ものミシンが並ぶ、立派な工房と化していた。
がっちゃん、がっちゃん。朝から晩まで、布を縫う音が、絶え間なく響いている。シレーヌ、ソフィー、シャルロッテ。雇い入れた女工たちに混じって——ここ数日、私自身も、その一台に、かじりついていた。
表向きの理由は、「ミシン技術の向上のため」。社長たるもの、現場の仕事も知らなくては、という、もっともらしい口実だ。
——本当は、違うのだけれど。
「はい、これ」
縫い上げた一着を、隣のシレーヌに手渡す。彼女は、しげしげとそれを検分して、感嘆の息を漏らした。
「はーー。会長も、ずいぶん、お上手になったもんですねえ」
「本当!? シレーヌにそう言ってもらえると、信じちゃうわよ」
「お世辞なんかじゃ、ありませんよ」
シレーヌは、長年、貴族相手に数えきれないドレスを仕立ててきた、筋金入りの職人だ。その彼女が、まっすぐに言う。
「会長はもう、一流の職人ですわ」
「ありがとう!」
けれど、シレーヌは、ふと針を止めて、私を見た。
「……でも、いいんですか、会長」
「?」
「ここ数日、工房にかかりっきりで。お店にも、カートライト商会にも、ろくに顔を、出していらっしゃらないでしょう」
「……っ」
図星を、突かれた。
「ちょ、ちょっとくらい、エレナに任せても、大丈夫よ」わざと明るく言って、私は次の布を手繰り寄せた。「さ、もう一着、仕立てるわよ〜」
「…………」
シレーヌは、何も言わず、また針を動かしはじめた。
——ミシンは、いい。
がっちゃん、がっちゃん。一定の音に頭を預けていると、何も考えずに済む。布の目だけを、追っていればいい。
そうしていないと、すぐに、あの人の顔が——ニッキーの、あのまっすぐな目が、浮かんでくるから。
ぶんぶん、と頭を振って、私はそれを追い払った。
「ガブリエルさん!」
シャルロッテが、工房に駆け込んできた。
「どうしたの、シャルロッテ」
「表に……」
その先を聞く前に、私の心臓が、嫌な予感に、ひとつ跳ねた。
「ニッキーさんが、いらしてます」
——どくん。
私は、平静を装って、針を置いた。けれど、膝の上に置いた手だけが、自分でも気づかぬうちに、きゅっと握り込まれていた。
◇ ◇ ◇
工房に現れたニッキーを、若い女工たちが、頬を染めて、横目で盗み見ている。仕立てのいい上着に、誠実そうな面立ち。まあ、無理もない。
「どうぞ、こちらに」
私は、工房の隅のテーブルへ、彼を案内した。
「ありがとうございます」
向かい合って、座る。
「きょ、今日は、なんの御用でしょう」
「……ずっと、お目にかかっていなかったので」ニッキーが、少し気まずそうに、横を見た。「エレナさんに、あなたのことを聞いてみたら——体調を崩している、と」
「はい?」
「それで、エレナさんから、見舞いに行くべきだと、勧められたんですが……」
——もう!
私は、心の中で、頭を抱えた。今、ニッキーとどう接していいか分からないから、エレナに相談したのに。あの人ったら。
意地悪く笑うエレナの顔が、ありありと浮かぶ。
——エレナ。あなた、絶対、面白がってるわね!?
「ガブリエルさん」
ニッキーの声が、ふいに、低く、真剣になった。
「!」
「私の気持ちは、あのときから、何も変わっていません」
ぴし、と空気が、張りつめる。
「どうか——ガブリエルさんの、お気持ちを、聞かせてくれませんか」
工房中の手が、止まった。女工たちが、息を呑んで、こちらを見ている。
「ちょ……っ」
私は、かあっと、赤くなった。
「しょ、職場で、そんなお話は、困ります……!」
「す、すみません」ニッキーも、はっと我に返る。「そ、外に、行きますか」
「いえ、業務時間中ですので」
それも違う。私は、ほとんど反射で、口走っていた。
「う……上の、私の部屋で、お話、しましょう」
◇ ◇ ◇
「おお。景色がよくて、素敵なお部屋ですね」
私の部屋に通すと、ニッキーは、窓の外を見て、そう言った。
「何も、なくて……お恥ずかしいんですけど」
寝台と、机と、衣装箱。相変わらず、がらんとした部屋だ。私は椅子を勧め、自分は寝台の端に、浅く腰掛けた。
向かい合うと、急に、言葉が出てこなくなる。
「あの」先に口を開いたのは、ニッキーだった。「今の、お気持ちは……いかがですか」
「は、はい。あの、ですね」
私は、膝の上で、指を絡めた。
「いろいろ、考えたんですけど……私には、本当に、もったいないお話で」
「そんなことは、ありません」
ニッキーが、ぐっと身を乗り出した。
「ガブリエルさんは、本当に、素晴らしい女性だ。むしろ——今の私のほうが、あなたに、もったいない」
「……っ」
「だから、こうして」彼は、まっすぐに私を見た。「懇願している、のです」
——ああ、もう。
このままだと、ニッキーのペースに、巻き込まれてしまう。私は、必死に、最後の砦にしがみついた。
「で、でも。ニッキーさんが、よくても……ご家族は、反対なさるんじゃ」
「父が」
ニッキーの声が、少しだけ、硬くなった。
「来週、この、ベルリアに、やってきます」
「え。来週……?」
「僕が、見合いの話を、断り続けているから。剛を煮やしたんでしょう」
「そ、そんなに、断り続けてるんですか」
「ええ」
ニッキーは、ためらいもなく、言った。
「私が、妻にしたいのは——ガブリエルさんだけ、ですから」
かあっ、と、また、頬が燃える。
「どうか」
彼は、深く、頭を下げた。
「父に、ガブリエルさんを、紹介させてください」
そして、顔を上げて——まっすぐに。
「私が、心から愛している、女性だと」
心から、愛している。
その一言が、私の胸の真ん中に、まっすぐ刺さって——抜けなくなった。
来週。父が、来る。
そのとき私は、いったい、どんな顔をして、その人の前に、立てばいいのだろう。




