表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
65/73

恋と家族

朝のエレナ亭は、よく晴れていた。


塀のない庭に、白いテーブルがひとつ。湯気の立つ紅茶と、焼きたてのパン。それから、黄身のとろりとした、目玉焼き。鳥の声を聞きながらの朝食なんて、いったい何年ぶりだろう。——もっとも私のほうは、一睡もしていない目で、それを眺めているわけだけれど。


「……そう。実はね」


フォークを置いて、エレナが、少し照れたように言った。


「マルコと、そういう感じに、なっちゃって」


「……っ」


紅茶を、噴きそうになった。やっぱり。さっき門の前で見たものは、夢でも幻でもなかったのだ。


「マルコが、エレナのことを気にしてたのは……薄々、気づいてたけど」


「あら。あなた、気づいてたの」


「それより、いつの間に、そんな」


エレナは、カップを両手で包んで、ふふ、と笑った。


「ほら。前に、あなたとマルコが、徹夜で、値札のタグを作った日が、あったでしょう」


「う、うん」


覚えている。開店の準備に追われて、人手が足りなくて。マルコまで引っぱり込んで、三人がかりで、何百枚というタグに店の名を刷り込んだ、あの夜だ。明け方には、みんなインクだらけになって、げらげら笑い合った。


「あのときのマルコが、なんだか、かっこよくてねえ」


エレナが、頬に手を当てる。


「徹夜明けで、こう……ムラムラっと、来ちゃって」


「ム、ムラムラっと!?」


「うん。私から、押し倒しちゃった」


「——っ!!」


今度こそ、私は、見事にむせた。エレナは、けろりとしている。


「自分でも、信じられなかったわ。この私が、そんなことするなんて」


カップの中の紅茶に、目を落とす。その声から、ふいに、おどけた色が、抜けた。


「……だって私。夫を亡くしてから、そういう気持ち、一切、なくなってたのよ。十年。心も体も、ずっと、喪服を着たまんま」


「……エレナ」


「でも。あなたと一緒に働くようになってから、なんていうか——」


エレナが、苦笑した。


「生きる活力が、漲るっていうか、ね」


その言葉が、ことん、と、私の胸の底に落ちた。


——生きる活力。


ああ、それは。きっと、ゆうべの私の、うなじの奥で鳴った、あの小さな音と——同じものだ。


夫に死なれた女と、夫を捨てた女。二人とも、とっくに女を捨てたつもりでいて。それでも、こうして商いに飛び込んでみたら、体の奥で、忘れたはずの熱が、勝手に、もう一度、燻りはじめる。


「はーーーっ。人生って、何があるか、わかんないものねえ」


エレナが、伸びをして、晴れた空を仰いだ。


「楽しいわ〜」


私は、つられて、笑った。


「……おめでとう、エレナ。二人は、お似合いよ」


「ありがと」


エレナが、ふと、こちらへ向き直る。


「で。こんな朝っぱらから、どうしたの。——何か、あったんでしょう」


見抜かれている。私は、カップを置いて、うつむいた。


「……じ、実は」




◇ ◇ ◇




「は——————っ!? ニッキーが!?」


事の次第を、ようやく打ち明け終えるなり、エレナの素っ頓狂な声が、庭中に、響き渡った。


「いいじゃない! いいじゃないの! 結婚しちゃいなさいよ、もう!」


「で、でも……彼には、私じゃ、釣り合わない気が、して」


「なーに言ってるの!」


エレナが、テーブルを、ぱしんと叩いた。


「あんたは、いい女よ。どうして、そんな変なところで、謙遜するの!?」


「わ、私は……人生を、全部、仕事に、捧げようかと」


「またまた、何を言ってんの」


エレナは、心底呆れた、という顔で、私を見た。


「あなたみたいな、強欲な女が?」


「……強欲、ですか。私が」


「そうよ」


エレナの視線が、庭の向こう——朝の光を浴びて静かに建つ、白い二号店へと、流れる。


「あれもこれも欲しいって、片っ端から手を伸ばして。たった一軒の、小さな帽子屋から、こんな売上を立てる商会まで、作り上げたじゃないの」


「…………すみません」


「謝らないの」エレナが、にやりと笑った。「いい、ガブリエル。よく聞きなさいよ」


彼女は、人差し指を、私の鼻先に、ぴたりと突きつけた。


「手に入れるなら——全部、手に入れるのよ。お金も。名誉も。素敵な男も。家族も。ぜんぶ、よ」


ぜんぶ。


その言葉が、胸に刺さって、抜けなくなった。


仕事でなら、私は、いくらでも貪欲になれた。欲しいものは、奪ってでも手に入れてきた。なのに——自分の幸せの話になった途端、どうして私は、こんなにも、欲しがることを、恐れているんだろう。


「で、でも」


「まだ、何よ」


「ニッキーの……ご両親が、私を見て、なんというか……」


言いかけて、口ごもる。値踏みするような、あの視線の冷たさを、思い出す。


「ふむ」


エレナが、腕を組んだ。それから、実にあっさりと、言い放った。


「確かに。カートライト商会の御曹司の、お嫁さんとしては——あんた、ちょっと、年増ねえ」


「!」


「ひ、ひどい! だから、相談してるのに!」


「ごめんごめん」エレナが、けらけら笑う。「で、ニッキーって、兄弟はいるの?」


「確か……お兄さんが、二人。あと、妹さんが、いるって、言ってた気がする」


「じゃあ、大丈夫じゃない」


エレナが、ぱっと顔を上げた。


「三男なら、跡取りには困ってないでしょ。だったら、あんたがお嫁さんでも、向こうは、そう気にしないわよ」


——そう、だろうか。そうだと、いいのだけれど。


「それで」エレナが、身を乗り出す。「ニッキーは、なんて言ってるの」


私は、少しためらってから、答えた。


「……お父様に、会ってくれって」




◇ ◇ ◇




——ベルリア王国の、東。


海を隔てた先に、アルビオン共和国は、あった。


今から十数年前。この国で、革命が起きた。絶対王政と封建制度ばかりの、この世界で。アンナとケネス——二つの名を旗印に立ち上がった民衆は、王の首をすげ替えるのではなく、王の椅子そのものを、取り払ってみせた。


そうしてアルビオンは、世界で初めて、議会制民主主義を取り入れた国家となった。


土地を握り、人を握っていた貴族は、力を失った。代わって台頭したのは、市民階級の、新しい富者——ブルジョワジーである。血ではなく、富が、人を動かす。いわゆる資本主義社会への移行を、アルビオンは、世界に先駆けて、成し遂げたのだ。


そして、その新しい時代の波に乗ってのし上がった、一人の男が興した商会があった。


——カートライト商会。


「ベルリアに、ですか!?」


執事の声が、広い書斎に、跳ね返った。


机の向こう。『商会長 フレッド・カートライト』と刻まれた、重厚なネームプレート。その奥に、巨躯が、ゆったりと構えている。


岩を削り出したような、肩。鉄のステッキを、無造作に床へ突いて。歳を重ねてなお衰えを知らぬ、圧倒的な威圧。それが、ニッキーの父——フレッド・カートライトだった。


「ニッキーめ」


腹の底から、低い声が、唸る。


「ワシが見合いを勧める手紙を、ことごとく、無視しおる」


「坊っちゃまは、事業にお忙しく……それどころでは、ないのかと」


「たわけ!」


ステッキの先が、硬い音を立てて、床を打った。


「跡取りを作るのも、立派な、仕事ではないか!」


フレッドが、立ち上がる。窓の外、自動車と馬車の行き交う、新しい時代の街並みを、睥睨した。


「産めよ。増やせよ。それでこそ——我がカートライト商会は、いっそう、力を増すのだ」


「は、ははっ」


「船便を、手配しろ。アルフレッド」


「は。……して、もし、坊っちゃまが、なおも見合いを、お拒みになるようでしたら」


フレッドの目が、影の中で、ぎらり、と光った。


「これ以上、拒むようなら——ベルリア支社は、マルコスあたりに、くれてやる。ニッキーは、この国へ、連れ戻す」


海を渡る船の手配が、淡々と、進められていく。


王都に、芽吹いたばかりの、恋の季節。その甘く浮き立つ空気の中で、まだ誰も——ガブリエルも、当のニッキーさえも、気づいてはいなかった。


遠い海の向こうから、冷たい風が、ゆっくりと、こちらへ舵を切りはじめていることに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ