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恋の季節

その日、家に帰り着いた私は、自分でも、らしくないと思った。


出迎えた社員たちに、愛想笑いだけ返して、ろくに言葉も交わさない。「おかえりなさい」の声に、「ええ、ただいま」とだけ応えて、私は、まっすぐ自室へ向かった。


背中に、けげんそうな視線を感じる。扉を閉める間際、社員たちが、ぽかんとこちらを見ているのが、隙間から見えた。


ばたん、と扉が閉まる。


——ちなみに、この家。ブレンナールへ帰っていったパージ、ミシェル、ナタリーの三人と入れ替わりに、新しい顔ぶれが、住み込みで入っていた。シャルロッテ、ソフィー、シレーヌ。王都店を回すために雇った、若い子たちだ。


その新入りの目も気にせず、私は、寝台に倒れ込んで、ごろごろと、みっともなく転がった。


耳の奥で、あの声が、こだまして離れない。


『女の幸せ、忘れちゃダメだよ』


クレシェント夫人——ミランダの、煙の向こうの、妙に真剣だった目。


「……何よ、女の幸せって」


私は、枕に顔を埋めて、呻いた。


「私だって、今、とっても幸せなんだから」


そう。幸せだ。間違いなく。


顔を上げて、私は、自分の部屋を見回した。


寝台と、小さな机と、衣装箱がひとつ。壁には、何も掛かっていない。飾りもない。がらんとした、何もない部屋。


——何もない部屋。……今の、私みたい。


「……って、ええ?」


がばっと、身を起こした。


「私、今、何考えた!?」


違う違う、と首を振る。何もないわけがない。私には、たくさんあるじゃない。仕事がある。仲間がいる。守るべき店だって、三つもある。


ふと、ミシェルとナタリーの顔が、浮かんだ。


『はい。来月、結婚します』


——そうだわ。あの二人、結婚するのよね。


子供ができて、家庭を持って。新しい暮らしへ、二人で歩き出していく。


おめでとう、と心から思う。思う、けれど——その隣に、私は。


考えかけたところへ、ふいに、別の声が、割り込んできた。


『私は——ガブリエルさんを、妻にもらいたいのです』


かあっ、と。


顔が、燃えるように、熱くなった。




◇ ◇ ◇




うなじの奥で、ちり、と、小さな音がした気がした。


その熱が、背筋を伝って、ゆっくりと、体の奥のほうへ、落ちていく。下腹の、ずっと奥。もう何年も、忘れていた場所。痛みなのか、甘さなのか、自分でも区別のつかない疼きが、そこから、じわりと滲んで、広がった。


「……っ」


私は、両腕で、自分の体を抱きしめた。


——だめだ。なんか私、ダメだ。


こんな感覚、いつ以来だろう。いいえ。こんなにはっきりとは、結婚していた頃ですら、覚えがない。あの人に抱かれても、私はいつも、どこか冷めていた。


『僕は、まだまだこれからの男です。いつか必ず、あなたに相応しい男に、なってみせます』


床に片膝をついた、あのまっすぐな目。世界中を回ったって、あなたより素敵な人はいない、と言い切った、あの声。


「〜〜〜〜っ!」


私は、毛布を頭からかぶって、芋虫みたいに、丸くなった。


だめだ。思い出すたびに、頭のてっぺんから、つま先まで、おかしくなってしまう。


——落ち着きなさい、ガブリエル。あなたは、女の幸せなんて、とっくに捨てたんでしょう。仕事に、人生の全部を賭けるって、自分の口で、はっきり言ったんでしょう。


何度言い聞かせても、頬の熱は、いっこうに、引いてくれなかった。




どれくらい、そうしていただろう。


ようやく火照りが落ち着いた頃には、喉が、からからに渇いていた。


「……お水でも、飲もう」


木のコップを片手に、私は、暗い廊下へ出た。家の中は、しんと静まり返っている。みんな、もう寝静まったのだろう。


廊下の先から、小さな声が漏れ聞こえたのは、そのときだった。


「ん……」


「……?」


足を、止める。空耳ではない。確かに、誰かの、押し殺したような吐息。


そっと、曲がり角から、その先を覗き——。


私は、固まった。


月明かりの差し込む廊下の隅で、シャルロッテと、ソフィーが、唇を、重ねていた。


からん、と。


手から、木のコップが、転がり落ちた。


「ガ、ガブリエルさん……!」


ソフィーが、弾かれたように、飛びのく。


「あ……あんたたち、何やってるのよ!」


「す、すみません……!」シャルロッテが、真っ赤になって、俯いた。「ぼ、僕ら、実は……」


「こ、ここは、寮よ!」


ろくに頭も回らないまま、私は、上ずった声で、叫んでいた。


「もう少し、節度を……っ、節度を持ってちょうだい!」




そのあと、私は、室内の井戸のポンプを、キコキコと、必要以上の力で漕いでいた。汲んだ水を、コップに、なみなみと。


——もう。なんなのよ、いったい。


どっちを向いても、これだ。あっちでも、こっちでも。




◇ ◇ ◇




朝が、来た。


貴族街に、ちゅんちゅんと、小鳥の声が降りてくる。カーテンの隙間が、白み始めていた。


——結局、一睡も、できなかった。


寝台に座ったまま、私は、重たいまぶたを、指で擦った。だめだ。こんなもの、一人で抱えていたら、頭がどうにかなってしまう。


——ちょっと早いけど。エレナに、相談しよう。


こういうとき、頼れるのは、あの人しかいない。三つ年上で、酸いも甘いも噛み分けた、私の相棒。きっと、豪快に笑い飛ばして、気の利いた知恵を、貸してくれる。


私は、まだ薄暗いうちに家を出て、貴族街の店——二号店へと、足を向けた。エレナの自宅でもある、あの絵だらけの洋館へ。


門をくぐろうとした、ちょうどそのとき。


がちゃ、と、玄関の扉が、開いた。


私は、とっさに、生け垣の陰へ、身を隠した。


——こんな朝早くに、誰?


出てきたのは、男だった。


ぼさぼさの髪を、めずらしく撫でつけて。見覚えのある、あの、所在なげな背格好。


——マルコ……!?


どうして。なんで、マルコが、こんな時間に、エレナの家から。


続いて、エレナが、扉から出てきた。寝間着の上に、肩掛けを一枚だけ羽織って。


そして。


つま先立ちになったエレナが、マルコの頬に、そっと手を添えて——その唇に、口づけた。


「——っ!」


声が、出なかった。


私は、生け垣の陰で、ただ、絶句していた。


……あの。あの、鈍感な、二人が。「あっちも何も思っちゃいないわ」って、エレナ自身が言った、あの二人が。


私が、こっそり胸の内で、「なんて鈍感な二人かしら」なんて、したり顔で笑っていた、まさにその裏で——。


——いつのまに。いつのまに、こんな。


名残惜しそうに身を離したマルコが、照れくさそうに、何かをぼそぼそ言って、朝靄の中へ帰っていく。エレナは、扉のところに立ったまま、その背中を、いつまでも、見送っていた。


私は、隠れたまま、その一部始終を——見届けて、しまった。




マルコの姿が、朝靄に溶けて消えてから、たっぷり、数十秒。


私は、生け垣からのそりと出て、玄関へずかずか歩み寄ると、その扉を、ガンガンと、叩いた。


「エレナ! エレナ、いるんでしょ!?」


ややあって、扉が、開く。


「あら、ガブリエル」


出てきたエレナは——なんというか、つやつや、していた。肌が、内側から、淡く光っているみたいに。


「今日は、ずいぶん早いのね」


「…………」


「あら、なあに」エレナが、私の顔を覗き込んで、眉をひそめた。「寝れなかったの? ひどいクマよ」


——どの口が、それを言うのよ。


恋の季節は、どうやら、私のまわりだけを、こんなにも盛大に、賑わせているらしかった。ミシェルとナタリー。シャルロッテとソフィー。そして——エレナと、マルコ。


その渦の、ど真ん中で。たった一人、寝不足のクマだらけで、間抜けに突っ立っているのが——この、私。


『女の幸せ、忘れちゃダメだよ』


ミランダの声が、また、耳の奥で、こだまする。


ねえ、エレナ。——私も。私も、その季節に、足を踏み入れて、いいの、かしら。


胸の奥でくすぶるその問いを抱えたまま、私は、つやつやのエレナに招かれて、彼女の家の扉を、くぐった。

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