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エレナ・ヴォーン

「あの、もし——」


女が振り返った。


黒いドレスの裾が、石畳の上で静かに揺れた。


「はい?」


綺麗な人だった。一瞬、次の言葉が出なくなった。


──どうする? なんて声をかける!?


でも、足は止まっていない。もう目が合ってしまった。


──ええい、とにかく話せ。


「突然、失礼します。私はガブリエルと申します」


「……」


「もしかして、あなたも私と同じなのではないかと思い、お声がけさせていただきました」


女が、きょとんとした顔をした。それから自分の喪服に目を落とし、顔を上げた。


「ああ……あなたも、夫を亡くしたの!?」


「は、はい。左様でございます」


──私の場合、亡くなったわけじゃなくて離縁したんだけどもね。


女は私を、しばらく静かに観察した。


「ふーん」


「……で、私になんのようかしら ガブリエルさん」


「はい。あの、私この地でお店を出させていただきたいのですが、夫を亡くした女には土地家屋を貸すことができないと言われて、途方に暮れていまして」


少し離れたところで、ナタリーがこちらを見ているのがわかった。私は手を振って、顎で合図した。


──先に帰ってて。


ナタリーが目を丸くしながら、それでも頷いた。


女は少し考えてから、来た道を振り返った。


「ついてらして」




◇ ◇ ◇




塀のない解放的な庭に、窓の大きな洋館が建っていた。


「へー、洋品店を」


「はい」


来客用の小さなテーブルに案内され、私は椅子に腰を下ろした。


「帽子、靴、日傘なんかを扱った店をやりたいんです」


「ふふ」


女が立ち上がった。


「お茶を入れたらゆっくり聞かせていただくわ。それまで部屋を見てらして」


「はい」


一人になった部屋を、私はゆっくり見回した。


広い部屋だった。そして——絵だらけだった。壁という壁に、大小さまざまな絵が掛かっている。油絵、水彩、版画。テーマも画風もばらばらだが、一枚一枚がきちんと光の下に置かれている。まるでギャラリーのようだ。


奥の壁に、二人が並んだ絵があった。喪服の女と、年上の男。穏やかな顔をした男だった。


──あの人と、亡くなった旦那さんかしら。


「主人のコレクションなの」


振り返ると、お茶のセットを持った女が立っていた。


「もう亡くなって十年になるわね」


「……十年間も、喪服を?」


「ええ」


テーブルにカップが並べられる。向かい合わせに座ると、女は窓の外を一度見てから私に顔を戻した。


「変に思われるかもしれないけれど」


「いいえ」


「これが私にとって、夫への最後の敬意なの。そして——私のアイデンティティ」


声に、芯がある。


「彼との思い出を大切にしながら生きることが、私の生き方なのよ」


「とても美しいことだと思います」


私は言った。本当にそう思ったから言った。


「信念を持ち続けるって、簡単じゃありませんから」


「……ありがとう、ガブリエル」


女が、少し照れたような顔をした。




この未亡人の名は、エレナ・ヴォーンといった。


ガブリエルより三歳年上の彼女は、若くして都市貴族である夫を亡くした。二人の間に子供はなく、夫には親も兄弟もなかったため、夫の財産は全てエレナが相続した。しかし女性である彼女には爵位の相続も貴族院への投票権も認められず、土地家屋の売却も許されなかった。身分の上では貴族夫人でありながら、貴族としての権利を何一つ行使できない立場——それがエレナ・ヴォーンという人だった。


「あの、再婚は考えなかったのですか?」


「考えてるわよ」


あっさりと言われて、私は少し面食らった。


「でもね、この喪服を脱がせてくれる男性は十年間現れなかったわ。つまり私は——」


エレナが肩をすくめた。


「簡単じゃなくってよ?」


思わず、笑ってしまった。


「なーに笑うなんて失礼ね」


「いえ。エレナさん、とってもチャーミングだから」


「……っ」


今度はエレナが気まずそうな顔をした。それがまた可笑しくて、私はもう一度笑いそうになるのをこらえた。


「じゃ、じゃあ」


エレナが居住まいを正した。


「あなたのことも、しっかり教えなさいよ。お互いのことを知れて、条件が合うなら——」


広い部屋を、視線がゆっくり巡った。


「この部屋を、貸してあげるわ」


「!」


「元々ここは、アートギャラリーにする予定だったのよ。でも私だけじゃ、十分な絵を集められなくて」


エレナが壁の絵を眺めた。


「だったら、貴方の商品と一緒に絵も展示できたら素敵じゃないかしら。帽子や靴が並んでいて、その隣に絵が飾られている。お客様がどちらも楽しめるような場所になれば——」


頭の中で、その部屋が見えた。


自然光の下に並んだ帽子。壁の絵と、帽子台の色が呼応している。靴が床に整列して、日傘が光を受けている。貴族の奥方が絵を眺めながら、気づけば帽子に手を伸ばしている。


「す、素敵です!」


「でしょ?」


エレナが、初めて子供みたいな顔をして笑った。


しばらく二人で話した。商品のこと、展示のこと、家賃のこと。話すほどに、この人と組める気がしてきた。


夜の帳が、窓の外に降り始めていた。


「実は私、離縁してまして」


「……え?」


エレナの目が、少し開いた。


これが、後にガブリエルと長く働くことになるエレナ・ヴォーンとの出会いであった。

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