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怪物の恐怖

——ガブリエルハウス、早朝。


外から、声が響いていた。


「人殺し!」


「出て行け!」


門の外に集まる人数は、日ごとに増えている。朝の五時前から来ている者もいた。彼らには、仕事はないのだろうか。それとも、これが今の彼らの仕事なのだろうか。


私は、鏡の前に座っていた。


そこに映る女の顔を、じっと見つめる。


目の下に、影がある。頬が、少しこけた。この一ヶ月で、三度も服を詰め直した。


——目を、閉じるんじゃない。


昨夜のミランダの声が、耳の奥に残っている。


「……見ているわ」


私は、鏡の中の自分に言った。


「でも……」


見ている。ずっと見ている。それなのに、何も見えてこない。


朝食のトレイを持って、マリアが入ってきた。


その手が、震えている。カップと受け皿が、かちゃかちゃと鳴った。


「……ガブリエル。新聞、見たか」


「ええ。同じことが、書いてあったわ」


「酷えもんだ」


マリアは、トレイを置いて、こぶしを握った。


「“ガブリエル商会が、ハイラントを挑発した”。“戦争を招いた、元凶”だってさ」


「……」


「なんでなんだよ」


彼女の声が、震えた。


「爆弾を落としたのは、ハイラントじゃねえか。トーマスを殺したのも、奴らなのに」


「……」


「なんで、あんたが石を投げられなきゃならねえんだ! くそっ……!」


マリアは、荒く息をついて、窓のほうを睨みつけた。


私は、じっと、その様子を見ていた。


外から、また声が届く。


「中立国家を、脅かすな!」


——中立。


私は、その言葉を、頭の中で転がした。


(そもそも、国民が、殺されてるのよ)


(ベルリアの国土にある、ベルリアの工場が焼かれて、ベルリアの人間が死んだ。それを、中立と呼べるの?)


そして、その次に、奇妙なことに気づいた。


(……誰も、“ハイラント”という名前を、口にしない)


新聞にも、ほとんど出てこない。デモの板にも書かれていない。糾弾されているのは、いつでも、私だ。


爆弾を投げた側ではなく、爆弾を落とされた側が。


なぜだ。


(考えて)


私は、鏡から目を離した。


(何かが……すり替わっている)



◇ ◇ ◇



——ドンッ!!


外壁に、何かが、投げつけられた。


窓ガラスが、びりびりと震える。部屋の空気そのものが、殴られたように揺れた。


「ひっ……!」


マリアが、身をすくめる。


——次の瞬間。


「オギャアアア——!!」


ベビーベッドから、悲鳴が上がった。


「アメリ!」


私は、杖を放り出して、駆け寄った。脚に痛みが走ったが、どうでもよかった。


「大丈夫よ、アメリ。怖くない、怖くないからね」


抱き上げる。


だが、この子は、泣き止まなかった。


顔を真っ赤にして、口を大きく開けて、全身をよじって泣く。腕の中で、驚くほどの力で暴れる。


「アメリ、大丈夫。ママがいるから」


——パシッ。


小さな手が、私の頬を、打った。


「……っ」


痛くはなかった。生後半年の子の手だ。痛いはずがない。


それなのに、その一発は、妙に、深いところまで届いた。


アメリは、さらに私の胸を叩き、襟を掴んで引っ張った。


「ウワァァァ!」


「アメリ! ママを、叩いちゃ、だめだ!」


マリアが、慌てて手を伸ばす。


私は、それを、目で止めた。


そして、優しく、けれどしっかりと、アメリの両腕を押さえた。


——その、瞳を、覗き込む。


真っ赤に泣き腫らした、その目の中に。


(……ない)


憎しみは、なかった。


怒りも、悪意も、なかった。


そこにあったのは、ただ一つ。


(——怖い、だけだ)


「……ああ、そうか」


私は、呟いていた。


「マリア。——この子は、私を憎んで、叩いてるんじゃ、ないわ」


「え……?」


「ただ——怖いのよ。外の“大きな音”が、怖くて、たまらないだけ」



◇ ◇ ◇



私は、アメリの背中を、ゆっくりと叩きながら、考えていた。


(この子には、その音の正体が、分からない)


誰が、何のために、何を投げたのか。この子には、まったく理解できない。


(そして、遠すぎて、叩くことも、できない)


門の外にいる誰かを、この子は殴りに行けない。行きたくても、行けない。


(——行き場のない恐怖が)


私は、腕の中の重みを、確かめた。


(いちばん近くて、いちばん安全な、私に向かったのね)


母親は、絶対に、殴り返してこないから。


——その、瞬間。


腕の中のアメリの顔と、窓の外の光景が。


私の頭の中で、ぴたりと、重なった。


「……」


私は、はっとして、顔を上げた。


そして、窓のほうへ、歩いた。


カーテンの隙間から、下を見下ろす。


——門の外。


そこにいるのは、私が思っていたような、悪魔ではなかった。


板を掲げているのは、痩せた男だった。声を張り上げているのは、腕に子どもを抱えた女だった。その隣で、まだ若い青年が、顔を真っ赤にして叫んでいる。


(……同じ、だわ)


私は、呟いた。


「彼らも……アメリと、同じ」


(ハイラントという“怪物”が、怖い)


海の向こうで、街を焼き、国をひとつ飲み込んで、こちらへ手を伸ばしてきている、巨大な何か。


(——でも、怪物に石を投げれば、殺されるかもしれない)


だから、投げられない。


投げられないのに、恐怖だけは、身体の中に溜まり続ける。


(だから、恐怖の矛先を——“安全な身内”に、すり替えた)


私は、階下の群衆を、静かに見下ろした。


「私を叩けば、怪物を、刺激せずに済む」


——そう。私は、絶対に、殴り返してこない。


「私を悪者にすれば、“正義”という顔をしたまま、恐怖を、発散できる」


だから、誰も、ハイラントの名を口にしないのだ。


口にした瞬間、自分がその怪物と向き合わなければならなくなるから。


(……彼らの怒りは)


私は、目を細めた。


(正義なんかじゃ、ない)


(——ただの、恐怖だ)



◇ ◇ ◇



そこまで思い至って。


私は、ふと、自分の胸に、手を当てた。


——待って。


トーマスが死んだ夜。あの病室で、私は何を思った?


『誰かが、これを、やった』


『——その顔を、見つけてやる』


私は、目を閉じた。


(……私も、同じじゃない)


私も、憎むための顔を、探していたのだ。

誰でもよかった。誰か一人を憎んでいれば、あの夜の途方もない喪失に、耐えられる気がしたから。


——けれど、違う。


顔を一つ見つけて、それを吊るしても、何も終わらない。


彼らが私を吊るしても、ハイラントの牙は止まらない。私が誰かを憎んでも、トーマスは帰ってこない。


私たちは、みんな、同じ穴を掘っている。


怖いから、掘っている。


腕の中で、アメリが、しゃくり上げながら、少しずつ静かになっていく。


その小さな背中を撫でながら、私は、窓の外を見つめた。


——ならば。


彼らを黙らせる必要は、ない。


彼らを説得する必要も、ない。


私がやるべきことは、たった一つだ。


この人たちの恐怖を、私という安全な的から、引き剥がして——本物の怪物のほうへ、向け直してやること。


それができるのは、この国で、たぶん、私しかいない。


なぜなら私は、この国でただ一人、恐怖に狙われながら、それをまっすぐ見つめ続けた女だから。


私の目に、光が戻った。


(——だったら、私は)


胸の底で、あの炭が、赤く、赤く、燃え上がっていく。


(この国じゅうの恐怖を——ぜんぶ、私が引き受けて)


(本当の敵のところまで、運んでやる)

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よし、やっとやな。
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