真実の目
——ガブリエルハウス、夜。
暖炉には火が入っていたが、部屋は寒かった。
天井の高すぎる屋敷というのは、暖まらない。かつてここに住んでいた貴族は、この寒さをどうしていたのだろう。使用人に薪をくべさせ続けて、それを当たり前だと思っていたのだろうか。
ミランダは、正面の椅子に、腕を組んだまま座っている。
「……で?」
彼女は、もう一度、言った。
「あんたは、このまま、好き勝手に利用されてる、つもりかい」
私は、答えられなかった。
膝の上で組んだ自分の手を、見ていた。爪の形が、悪くなっている。ここしばらく、手入れをしていない。
「答えないってことは、図星だね」
「……」
——違う、と言いたかった。
けれど、口を開いても、言葉が出てこないのだ。この数日、ずっとそうだった。会議でも、書類の前でも、返答すべきことは分かっているのに、それを声にする力が、どこからも湧いてこない。
「……分からないんです」
やっと、それだけが出た。
「何がだい」
「正しいことを、してきたと。——思ってました」
私は、暖炉の火を見た。
「安い服を、誰にでも届けたかった。女が自分で稼げるようにしたかった。工場では、託児所も、診療所も作った。基金も続けた。——全部、良いことだと思ってやってきたんです」
「ああ。良いことさ」
「でも」
私は、首を振った。
「誰かが、死んで」
トーマス。
「誰かが、怒って」
工場の前で、板を掲げていた、うちの工員たち。
「誰かに、憎まれて」
私の店の壁に、毎晩、紙を貼りに来る、顔の見えない誰か。
「今は……何をしても、間違いだった気が、して」
「……」
「商会を守るのも。国に配慮するのも。家族を、守るのも」
言いながら、喉が詰まった。
「——全部、私が、欲張った結果なんじゃないかって」
杖を握る手が、小さく震えていた。
止めようとしても、止まらなかった。
「……正直に、言うと」
私は、うつむいた。
もう、この人には、隠しても仕方がない。
「もう。——何も、考えたくありません」
自分の声が、空っぽに響いた。
「誰かが、代わりに、決めてくれたら、いいって……」
◇ ◇ ◇
ミランダは、深く、ため息をついた。
「……やっと、本音が出たね」
私は、顔を上げた。
彼女は、怒っていなかった。呆れてもいなかった。ただ、少しだけ、疲れたような顔をしていた。
そして、自分の右目に——ダイヤモンドの義眼に、指を当てた。
「この目」
「……」
「どうして、こうなったか、知ってるかい」
「……聞いたことは、ありません」
聞けるはずが、なかった。
この人と出会って何年になるか。義理の母と呼び、ワインを飲み、商売の話をし、時には怒鳴られもした。それでも、この目のことだけは、誰も口にしなかった。
「天然痘だよ」
ミランダは、あっさりと言った。
「……」
「私が十九の頃だ。街に、流行ってね」
彼女は、暖炉の火に目をやった。
「あんた、疫病ってのを見たことがあるかい。ないだろうね。あれはね、戦争より静かで、戦争より公平だよ」
「公平……」
「金持ちも貧乏人も、同じ順番で死ぬ。——いや。金持ちのほうが少し遅く死ぬだけだ。医者を呼べるからね。だが、呼んだ医者にも、できることは何もありゃしない」
その口調は、淡々としていた。
「うちの通りは、八月の終わりに閉じられた。両端に柵が立って、役人が縄を張って、誰も出られなくなった。真夏だよ。窓を開けりゃ、通りの匂いが入ってくる」
「……」
「薬を売る奴が来た。三日分で、家一軒買えるような値をつけてね。買ったよ。効きゃしなかった」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
「気がついたら」
「……」
「あたしの周りにも、患った子どもが、七人いた」
私は、息を呑んだ。
「七人、ですか」
「近所のガキどもさ。親が先に死んだり、逃げたり、まあ、いろいろだ。誰も面倒を見る奴がいなくてね」
「……なぜ、お義母様が」
「なぜ?」
ミランダは、初めて、少しだけ笑った。
「そこにいたからさ」
「……」
「それだけだよ。誰かが名乗りを上げたわけでも、あたしが偉いわけでもない。ただ、あたしがそこにいて、他に立ってる大人がいなかった。それだけだ」
彼女は、指を折って数えるように、宙を見た。
「水を運んで、身体を拭いて、汚れ物を煮て、また水を運ぶ。夜になると誰かが呻く。行って、額を冷やす。戻って横になると、また別の子が呻く」
「……」
「そのうち、あたしの右目が、痛みだした」
私は、彼女の顔を見つめた。
「熱で、腫れてね。三日目には、もう、何も見えなくなってた」
「……」
「そのときに、何を思ったと思う?」
私は、首を振った。
「『目が潰れた』でも、『死ぬかもしれない』でもないんだ」
ミランダは、義眼を、こつん、と指の背で叩いた。
「——『片目でも、水は運べる』」
暖炉の薪が、ぱち、と鳴った。
「自分が生きるか死ぬかなんて、考えてる暇はなかったよ。頭にあったのは、たった一つだ」
彼女の声が、初めて、わずかに低くなった。
「“私が倒れたら、この子たちは死ぬ”」
「……」
「それだけ、だった」
私は、何も言えなかった。
「七人のうち、四人は死んだ」
ミランダは、あっさりと続けた。
「三人は生きた。生きたうちの一人が、今は王都で運送屋をやってる。去年、うちに菓子折りを持ってきたよ。中身は、たいして旨くもない焼き菓子だった」
その言い方があまりに素っ気なくて、私は、なぜだか泣きそうになった。
「……お義母様は」
私は、絞り出した。
「強い、方ですね」
「馬鹿をお言い」
ミランダは、鼻で笑った。
「強くなろうなんて、思っちゃいないよ」
そして、まっすぐに、私を見た。
「ただ——座り込む暇が、なかっただけさ」
◇ ◇ ◇
「今のあんたも、同じだよ」
ミランダは、ゆっくりと言った。
「正しくあろうとして、壊れかけてる」
「……」
「立派だよ。あんたは立派だ。だから、質が悪いんだ。あんたは自分に、一度も休みをやらない」
図星だった。
私は、あの夜——ニッキーを見送った夜に、決めたのだ。壊れちゃいけない。倒れちゃいけない。泣いちゃいけない。経営者として、妻として、母として、私は強くあらねばならない、と。
そう決めた瞬間から、私は、自分に一分の隙も許さなくなった。
「でもね、ガブリエル」
ミランダの声が、ふと、やわらいだ。
「折れて、いい」
「……え」
「泣いて、いいんだよ」
——その一言で。
こらえていたものが、あっさりと、決壊した。
視界が滲む。喉が鳴る。私は、両手で顔を覆った。
「ただし」
ミランダは、泣く私を、そのままにして、続けた。
「“投げ出す”のと、“休む”のは、違う」
「……っ」
「立てないなら、座りな。這えないなら、止まりな」
彼女の声は、静かだった。
「でも」
「……」
「目だけは、閉じるんじゃない」
私は、指の隙間から、彼女を見た。
「その地獄を、見続けるんだ」
「……なぜ」
「なぜ?」
ミランダは、椅子の背にもたれた。
「あたしはね、あの夏、目を閉じなかった。閉じる余裕もなかったが、閉じなかった。子どもが死ぬのも、隣の家が焼かれるのも、薬売りが人の足元を見るのも、全部、見た」
「……」
「そしたらね」
彼女は、少し、いたずらっぽい顔になった。
「ある日、見えるようになったのさ」
「……見える?」
「人間ってのが、何を怖がって、何をしでかす生き物なのか。——理屈じゃないよ。分かるようになるんだ」
私は、涙を拭った。
「するとある日、真実を見通す目が、手に入る」
ミランダは、自分のダイヤモンドの義眼を、指さした。
「な、真実の……目?」
「そうさ」
彼女は、にやりと笑った。
「ちなみに、なんでこれをダイヤにしたか、分かるかい」
「……いえ」
「どうせ、一生この顔で生きるんだ。だったら、いちばん高いもんを嵌めてやろうと思ってね」
私は、思わず、笑ってしまった。
泣きながら、笑った。
「もし、あんたもそれを、手に入れれば」
ミランダは、立ち上がった。
そして、私の頭に、ぽん、と手を置いた。
「あんたは——無敵に、なれる」




