不買運動
——王都、商店街。朝。
その日、ガブリエル商会の店舗の前には、異様な空気が漂っていた。
シャッターを開けに来た店員が、まず、それに気づいた。
壁一面に、紙が貼られている。
『不買運動』
『戦争商人を許すな』
『トーマスを返せ!』
糊が乾いて、紙の端が朝露で波打っていた。誰が、いつ貼ったのかは分からない。ただ、その量から言って、一人や二人の仕業ではなかった。
出勤してきた店員たちは、無言でそれを剥がした。
——三日後には、剥がすのをやめた。
剥がしても、翌朝には、また貼られていたからだ。
道の反対側で、足を止めた市民が、囁き合う。
「……ここか」
「戦争で、儲けてる店らしいぜ」
「あら、私、去年ここでコート買ったわ」
「よしなさいよ。あんた、そんなの着て歩いてたら、何を言われるか」
店内。
かつては、開店前から婦人たちが列を作っていたフロアに、今日も、客はいなかった。
磨き上げられたガラスケース。整然と並んだ商品。天井から吊るされた新作のドレス。そのすべてが、誰にも見られないまま、そこにある。
若い店員が、意味もなくカウンターを拭いていた。
拭いても、汚れていない。
拭くことしか、することがなかった。
——左翼系新聞『ラ・ブレンナール』の見出しは、日ごとに大きくなっていった。
『中立国ベルリアにおける、戦争加担——ガブリエル商会の、責任』
労働組合による糾弾をきっかけに、不買運動は、一気に燃え広がっていった。
そして、燃料を注ぎ続けていたのが、この新聞である。
◇ ◇ ◇
『ラ・ブレンナール』編集部。
輪転機の唸りが、床から伝わってくる。
カミーユ・デュランは、刷り上がったばかりの紙面を、満足げに眺めていた。インクの匂いを、深く吸い込む。
「すごい反響だぞ、カミーユ」
同僚が、通りすがりに肩を叩いた。
「街が、動いてる」
「そうだろう」
カミーユは、椅子の背にもたれた。
「革命は、剣じゃない。——ペンで、起こすものさ」
彼は、二十八歳だった。
地方の小さな町の、パン屋の次男に生まれた。学校の成績は良かったが、進む先はなかった。街の名士の子弟が、大した頭も持たないまま高等教育を受け、そのまま良い職に就いていくのを、彼はずっと見ていた。
だから、彼はペンを選んだ。
言葉なら、生まれは問われない。
そして、彼は自分の才能を、正しく理解していた。彼には、人の心を掴む見出しを一分で思いつく才能がある。
(——この国で、新しい革命を、見せてやる)
彼は、そう信じていた。
自分が書いているのが「事実」なのか「物語」なのか。その区別を、彼はもう、しなくなっていた。
◇ ◇ ◇
街角では、人々がプラカードを掲げていた。
「悪徳商会を、許すな!」
「労働者のための、革命を!」
そこには、工員も、主婦も、学生もいた。誰もが少し高揚した顔で、少し声を張り上げて、歩いていた。
彼らは、楽しそうだった。
——それが、いちばん、恐ろしいことだった。
◇ ◇ ◇
——ガブリエル商会、執務室。
窓の外から、怒号が、かすかに聞こえてくる。
厚いガラス越しなので、言葉までは分からない。ただ、うねるような低い音として、それは絶えず部屋に入り込んでいた。
杖をついて、私は、窓辺に立っていた。
「……思ったより、深刻ね」
そこへ、扉が乱暴に開いた。
「ガブリエル、大変だ!」
マルコスだった。ネクタイが曲がっている。この几帳面な男が、そんな姿で人前に出るのは、初めて見た。
◇ ◇ ◇
会議室の机には、帳簿と報告書が積み上げられた。
「銀行が……融資を、引き上げる?」
私は、その一行を、二度読んだ。
「ああ」
マルコスが、苦々しげに頷く。
「“社会的安定性に、欠ける”——そう言われた」
「社会的、安定性」
「支店長が、そう読み上げたんだ。紙を見ながらな。目は、一度も合わせなかった」
彼は、拳を机に置いた。
「今まで、散々、利子を払ってきたってのに」
——三年前。
私が最初に大きな融資を受けたとき、あの銀行の応接室で出された紅茶を、私はまだ覚えている。当時の私はまだ小さな商会の女主人で、それでも彼らは、丁寧に扱ってくれた。
金は、こちらが強いときにだけ、優しい顔をする。
「……エレナ。売上は?」
「三割減」
エレナが、短く答えた。
「今週だけで、よ」
「今週だけで」
「王都の一号店が、いちばん酷い。地方店は、まだ持ちこたえてる。——でも、時間の問題だと思う」
「労働組合は、何を考えてるんだ」
マルコスが、吐き捨てた。
「こんなことをすれば、自分たちの職も、消えるかもしれないのに」
「今、ロザリーたちが、必死で交渉してる」
エレナが、書類をめくる。
「大幅な賃上げと引き換えだけど……生産は、戻るかもしれない」
「生産だけ戻って、どうする」
マルコスが、首を振った。
「——売れなきゃ、在庫が、積み上がるだけだ」
沈黙が、落ちた。
三人とも、それ以上の言葉を持っていなかった。
私は、しばらく、考えた。
数字を見る。地図を思い浮かべる。うちの倉庫にある在庫と、これから上がってくる生産量と、それを吐き出せる先を、頭の中で並べる。
——考えている間だけは、怖くなかった。
「……国内が落ち着くまで」
私は、顔を上げた。
「国外販売に、軸足を移しましょう」
「「!」」
「戦争のない、カタリナ王国。それに、グラナス帝国。——あちらへの輸出を、増やすの」
「アルビオン向けは?」
エレナが、問う。
私は、少しだけ、間を置いた。
「……一旦、止めるわ」
夫の国だ。義父の国だ。そして、この騒動の火種になった国でもある。
「ベルリアが、この世界と、どう向き合うか。——それが決まるまでは」
◇ ◇ ◇
——地図を、広げてみる。
ベルリア。アルビオン。ハイラント。そして、西方のオルライン。
その、オルライン王国に。
数ヶ月前から、赤い印が、灯っている。
ハイラントとアルビオンが戦争に突入したのと、ほぼ時を同じくして。オルライン王国では、社会主義革命が起きていた。
数百年続いた王家は、一夜にして、地上から消えた。
——戦争は、前線だけを歪ませるのではない。
物価が上がり、若者が徴られ、パンの列が伸びる。その後方で、人々の不満は、ゆっくりと発酵していく。そして、ある日、それは思想という名前を与えられて、爆発する。
資本家打倒。労働者の解放。
その言葉は、国境も、検問も、あっさりと越えて、拡散していった。
ベルリアも、例外では、なかった。
——そして、ガブリエル商会は。
その思想が「敵」を必要としたとき、ちょうど目の前に置かれていた、最も分かりやすい象徴だった。
◇ ◇ ◇
——ガブリエルハウス。
夜だった。
かつて貴族の屋敷だったこの家は、静かすぎる。天井が高すぎて、自分の足音がやけに響く。
私は、居間の長椅子で、アメリを抱いていた。
この子は、最近よく笑うようになった。抱き上げると、私の襟元を掴んで、じっと顔を覗き込んでくる。
(……このまま不買運動が続けば)
私は、その小さな顔を見ながら、考えていた。
(うちの商会だけじゃ、済まない)
カートライト商会ベルリア支社。あれは、ニッキーが私に託した会社だ。彼が命がけで祖国を守っている間、預かってくれと、頭を下げて頼まれた会社だ。
それを、私が、沈めようとしている。
(ニッキー……)
私は、目を閉じた。
(私は、どうすれば——)
「おやおや、まあまあ」
背後から、声がした。
「ずいぶん、情けない顔をした母親が、いるねえ」
「……お義母様」
ミランダだった。
いつからそこにいたのか、分からなかった。この人は、いつもそうだ。気配がなく、そして、来てほしくない瞬間に限って、必ずいる。
彼女は、部屋を横切って、私の正面の椅子に、どすんと腰を下ろした。
そして、ダイヤモンドの義眼を、まっすぐにこちらへ向けた。
「で?」
「……はい」
「うちの可愛い坊主で」
ミランダは、そこで、一度言葉を切った。
「あんたにとっては、弟みたいなもんだった、トーマスの死を」
「……」
「このまま、好き勝手に、利用されているつもりかい?」




