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世界を動かす

——王都、左翼系新聞社〈ラ・ブレンナール〉編集部。早朝。


輪転機が、低く唸っていた。


ゴウゥゥゥ……。


床が、かすかに震えている。インクの匂いが、部屋じゅうに満ちていた。刷り上がった新聞が、機械の口から次々と吐き出され、少年たちの手で、束ねられていく。


一面の、トップ見出し。


『平和を愛する市民、ガブリエル商会を包囲』


『服屋のふりした、死の商人か!?』


そして、紙面の端に、小さな囲み記事があった。


『本日正午、国民議会にて。ガブリエル商会代表・ガブリエル氏、参考人招致』


デスクで、カミーユ・デュランが、紫煙を吐いた。


「反響、相当出ますよ」


ゲラを抱えた同僚が、刷り上がりを覗き込む。


「……でも、少し、煽りすぎじゃないですかね」


「煽りすぎ?」


カミーユは、新聞を指の背で、ぱん、と弾いた。


「正義ってのはな。分かりやすくなきゃ、広がらないんだ」


「はあ」


「悪い魔女がいて、可哀想な被害者がいる。——とても面白い、物語だろ?」


彼は、子供のような笑顔で、そう言った。


同僚は、曖昧に笑って、それ以上は何も言わなかった。


この新聞社で、カミーユに逆らう者はいない。彼の書いた記事は、売れる。売れる記事を書く男は、正しいのだ。それがこの業界の、唯一の掟だった。



◇ ◇ ◇



——ブレンナール、労組事務所。


バァン!


エティエンヌが、新聞を机に叩きつけた。


「世論は、動いた」


事務所には、数人の幹部がいた。ピエールも、アデルもいる。二人とも、あまり嬉しそうな顔をしていなかった。この一ヶ月、彼らの給金は一銭も入っていない。


「市民の感情のダムが、決壊したぞ」


エティエンヌの目は、爛々としていた。


「国民議会へのガブリエル招致も、決まったそうだ。——あの女、終わりだな」


彼は、嬉しそうに、部屋の隅を見た。


窓際に、一人の男が立っている。


ジャックだった。


「……」


彼は、返事をしなかった。


眼下の広場には、群衆が集まっている。


「戦争反対!」


「労働者革命を!」


その光景を、ジャックは、飽きもせずに見下ろしていた。


(やっとだ……)


彼の指が、窓枠を撫でる。


十年だ。


いや、正確には、もっと前からかもしれない。あの女が、地方の小さな屋敷から嫁いできて、初めて自分に頭を下げた日から。


あのとき、あの女は、確かに自分の下にいた。


自分が与える者で、あの女は与えられる者だった。それが、この世界の正しい順序だった。


それが、いつのまにか、逆さまになった。


(“正義”のギロチンで)


彼は、うっとりと、目を閉じた。


(あの高慢な女の首を——刎ねてやる)



◇ ◇ ◇



——国民議会への招集が決まった、その日。


私は、王宮を訪れていた。


通されたのは、いつもの応接室だった。この部屋には、何度も来ている。アメリを抱いて来たこともある。王太子妃殿下が、みずから紅茶を注いでくださったこともあった。


だが、その日の空気は、違っていた。


侍従の数が、少ない。人払いがされている。


「……あなたが、どれほど苦しい立場に立たされているかを思うと」


王太子妃が、沈痛な面持ちで言われた。


「心苦しいです」


「そのお気遣いに、感謝しております」


「何も、してやれることが、できなくて、すまない」


王太子殿下は、目を伏せられた。


「最近は、王室が政治に介入することを、国民が、嫌がる」


「はい」


私は、静かに答えた。


「——オルライン革命も、ありましたしね」


言った瞬間、部屋の空気が、わずかに硬くなった。


西方の大国で起きた革命は、数百年続いたオルライン王家の血を、根こそぎ断ち切った。王も、妃も、子どもたちも。


その事実は、この大陸のあらゆる王族を、戦慄させていた。


(……この方々も、怖いのだ)


私は、思った。


門の外で石を投げる人々と、この部屋の椅子に座っている方々と。恐怖という一点において、まったく同じものを抱えている。


だからこそ、この方々は、私を庇えない。


庇えば、次に吊るされるのは、自分たちだから。


「しかし」


王太子殿下が、顔を上げられた。


「国民議会で、君は、何を語るつもりだ?」


「私たちは、あなたが何を語るのか」


王太子妃も、身を乗り出された。


「事前に、知っておけば……助けられるかも、しれません」


私は、一瞬だけ、視線を伏せた。


——ここが、分かれ目だ。


黙って議会に立つこともできる。あるいは、当たり障りのない弁明の筋書きを話して、この方々を安心させることもできる。


けれど、それでは、届かない。


私がやろうとしていることは、この方々の助けが、どうしても要る。


「……お話し、します」


私は、顔を上げた。


そして、静かに、語った。


議会で、私が何を認めるつもりか。何を突きつけるつもりか。そして、この国に何を選ばせるつもりか。


——語り終えたとき。


お二人の顔から、血の気が、引いていた。


「ば、バカな……」


王太子殿下が、椅子から腰を浮かされた。


「そんな事を言えば、君は——!」


「はい」


私は、頷いた。


「私は、たぶん、殺されます」


「分かっているなら、なぜ!」


「殿下」


私は、まっすぐに、その目を見た。


「今、この国で、その言葉を口にできる人間は、誰もおりません。貴族の方々は、既得権益がある。議員の方々は、票がある。王室には、革命の記憶がある」


「……」


「みなさま、失うものが、多すぎるのです」


私は、微笑んだ。


「その点、私は、ちょうどいい」


「ちょうどいい、とは」


「もう、失いかけていますから」


商会も。信用も。この脚も。そして、あの陽気な男の命も。


「——それに」


私は、杖の握りを、そっと撫でた。


「私にはもう、失うのが怖いものが、一つしか残っておりません」


その一つを守るためになら、私は、何でも差し出せる。


——王太子殿下は、長いあいだ、私を見つめておられた。


そして、何もおっしゃらなかった。


けれど、私が退出する間際。


殿下は、ただ一言、こう仰った。


「……正午だ、と聞いている」


「はい」


「私も、議場にいる」


私は、深く、頭を下げた。



◇ ◇ ◇



——そして。


ガブリエルが国民議会に立つ日が、やってきた。


ガブリエルハウスの玄関前に、車が待っていた。


朝の空気は、張りつめて、冷たかった。門の外の群衆は、今日はいない。みな、議事堂の前へ移動したのだろう。


杖をついて立つ私の背中を、仲間たちが、見つめている。


ミランダが、一歩、前に出た。


「行くんだね」


「はい」


彼女は、私の顔を、しばらく覗き込んだ。


そして、目を細めた。


「……良い目だ」


「え?」


「あんたにも、見えたようだね」


ミランダは、自分のダイヤモンドの義眼を、指でこつんと叩いた。


「——真実って、やつが」


「はい」


私は、微笑んだ。


「お義母様の、おかげです」


「馬鹿をお言い」


彼女は、ふん、と鼻を鳴らした。


「あたしは、何も教えちゃいない。あんたが、目を開けてただけさ」


「……ガブリエル」


マリアが、唇を噛みしめていた。


彼女は、何か言おうとして、何度か口を開いて、そのたびに、やめた。


「行ってくるわ、マリア」


私は、その手を取った。


「——いつかのあなたの勇気を、頂戴」


「……!」


——あの日。


娼婦だった過去を新聞に書き立てられ、記者たちが刃のような質問を浴びせてきたあの日。マリアは、たった一人で、あの黒いドレスを纏ってランウェイに立った。


そして、こう言ったのだ。


『この手は、嘘をつかない』


「……馬鹿野郎」


マリアの目が、みるみる潤んだ。


「あたしなんか、あんたに比べれば。——何の、辛い目にも、合っちゃいないよ」


「そんなことないわ」


私は、笑った。


「私は今日、あなたの真似をするだけよ」


乳母車の中で、アメリが、私のほうへ小さく手を伸ばした。


私は、痛む脚を折って、かがみ込んだ。


その、小さな小指に、自分の小指を絡める。


「すぐ、戻るわ」


爪ほどの大きさの、柔らかな指。


「——約束」


「時間だ」


背後から、マルコスの声がした。


「議会では、私が、答弁のサポートをしよう」


「ありがとう、マルコス」


私は、立ち上がった。


車に乗り込む。扉が、閉まる。


——ガタン。


窓の外で、みんなが、こちらを見ていた。ミランダも、マリアも、エレナも。


私は、その顔を、一人ずつ、目に焼きつけた。


——この日。


私は、世界を、動かすことになる。

業火編完結です。次回は10月10日より議会編がスタートです。

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