↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
104/109

逆襲のジャック

——ブレンナール工場、会議室。


ジャックの笑みが、まだ、空気に残っていた。


ヴィンセントが、一歩、踏み出した。


「……今の言葉。取り消せ」


「どの言葉です?」


ジャックは、肩をすくめた。


「“圧死”の、ところ?」


——次の瞬間。


ヴィンセントの姿が、消えたように見えた。


椅子が倒れる音。壁に何かが叩きつけられる、鈍い音。気づいたときには、ジャックの足が、床から浮いていた。


「トーマスの死を」


ヴィンセントの、太い腕。その先で、ジャックの襟が、締め上げられている。


「面白半分で、弄ぶな……!」


ジャックの顔が、みるみる赤くなった。爪先が、宙を掻く。両手でヴィンセントの手首を掴むが、その腕は、鉄の棒のように動かない。


「離して、おやり!」


ロザリーが、叫んだ。


——どさり。


ジャックが、床に落ちた。


激しく咳き込む。喉を押さえ、四つん這いになって、ひゅうひゅうと空気を吸い込む。


「……面白半分、じゃない……!」


咳の合間から、声が漏れた。


「……ッ、面白半分などでは、ないんだ……!」


彼が、顔を上げた。


——その目を見て、ロザリーは、思わず一歩、退いた。


「私は」


血走った目が、大きく見開かれている。


「——これほど、胸のすく思いは、初めてだ!」



◇ ◇ ◇



ジャックは、ゆっくりと立ち上がった。


「貴様らのせいで」


その声は、震えていた。怒りではない。もっと粘つく、何か別のもので。


「私は、妻を失い、家を失い。——名も、誇りも、奪われたんだ!」


——記憶が、順不同で、噴き出してくる。


酒場の奥の部屋。逃げようとする自分の肩を押さえつけて、ロザリーの手下たちが、次から次へと酒を注いだ夜。「男爵様、まだまだこれからでしょう」と笑いながら、賽子を握らされた夜。借用書の束を目の前に積み上げられて、指が震えて署名できなかった、あの朝。


そのあと。


——そのあとの数年を、彼は、いちばんよく覚えている。


屋敷を出て、初めて借りた四畳の部屋。壁の薄さ。隣人の咳。石鹸を買う金がなくて、水だけで洗った襟の、黄ばみ。


そして、職を探して回った、あの日々。


かつて自分の領地だった町で、かつて自分に頭を下げていた男たちの店を、一軒ずつ訪ねて回った。ある者は憐れみ、ある者は追い払い、そしてほとんどの者が、彼の背中に向かって笑った。


最後に、彼を雇った場所が。


——よりにもよって、自分が捨てた女の、工場だった。


「……確かに」


ロザリーが、戸惑いながら言った。


「私たちは、あんたに、酷いことをした」


彼女の声には、後ろめたさがあった。ロザリーは、そういう女だ。過去の自分の所業から、目を逸らしはしない。


「だが」


ジャックが、遮った。


「最も、許せないのは」


彼は、二人を指さした。


「お前らが、ガブリエルに迎合し、その下に、降ったことだ!」


「……はあ?」


ロザリーが、眉をひそめた。


「ガブリエルは、あんたにも、職を与えたじゃないか」


そう。彼女には、それが理解できない。


かつて敵同士だった者たちが、今は同じ工場で飯を食っている。ロザリーにとって、それは救いだった。だから、ジャックにとってもそうだと、彼女は思っていた。


「——それが」


ジャックは、静かに言った。


「屈辱なんだよ」



◇ ◇ ◇



彼は、乱れた襟を、丁寧に整えはじめた。


指先で、皺を伸ばす。ボタンを確かめる。まるで、これから舞踏会にでも向かうかのように。


その仕草を見て、ロザリーは、ぞわりとしたものを感じた。


——ああ。


この男は、まだ。


自分を、貴族だと思っている。


「元妻に雇われ、頭を下げ、命令を聞き、金を受け取る日々」


ジャックは、朗々と語りはじめた。会議室の誰にというより、もっと大きな、見えない客席に向かって語るように。


「貴族だった私が。資本家の慈悲で、生き延びる人生だ」


——毎朝、彼は工場の門をくぐる。


作業着の若者たちが、彼を追い越していく。事務室で、伝票の数を数える。数が合わないと、若いトーマスに「おいジャック、またズレてるぞ」と、名前を呼び捨てにされる。


「すみません」と、頭を下げる。


その頭の中で、彼は毎回、こう考えていた。


——お前たちは、知らないのだ。


私が、どういう血筋の人間か。私の父が、祖父が、この地方で、どれほどの土地を治めていたか。


お前たちのような、字も読めない、名もない連中に、私が。


「……それで、復讐かい」


ロザリーが言った。


「ああ」


ジャックは、はっきりと頷いた。


「私は、決めていた。今は伏して、機を待とうと」


彼は、ゆっくりと、窓のほうへ歩いた。


「いつか必ず。貴様らに——“正義の名”で、刃が振るわれる、その日まで」


ロザリーとヴィンセントは、言葉を失った。


——何年だ。


この男は、何年、あの笑顔の下でそれを煮詰めていたのか。


「……それで、組合に近づいたのかい」


「会社が傾き、世間が敵に回る場所を」


ジャックは、窓の外を見たまま言った。


「私は、知っていたのさ」


「……」


「工員たちが不満を溜めている場所。誰かが火を点けるのを待っている場所。——私はただ、そこに、油を運んでやっただけだ」


ロザリーの中で、何かが切れた。


「そのために」


彼女は、机を回り込んだ。


「ブレンナールの従業員と、その家族を、路頭に迷わせるのか」


「……」


「あんた、分かってんのかい。ここが止まれば、この町の何千人が飯を食えなくなる。子供もだよ。ガキが、飯を食えなくなるんだ」


「……」


「トーマスは!」


彼女の声が、裏返った。


「トーマスは、そんな未来のために、死んだんじゃない!」


——ジャックは、振り返らなかった。


「死者の意思など」


窓ガラスに映る彼の顔は、ひどく穏やかだった。


「生きている者が、解釈するためにある」


「……外道が」


ヴィンセントが、拳を握った。


「いいや」


ジャックが、微笑む。


「私はただ——正しい側に、立つだけだ」


——彼が、そう言い終えた、そのとき。



◇ ◇ ◇



ノックも、なかった。


扉が、乱暴に開かれた。


「感情的だな」


入ってきたのは、痩せた男だった。


高級ではないが、きちんと手入れされた背広。書類を挟んだ革の鞄。眼鏡の奥の目には、疲労と、そして異様な光がある。


「……あんたが、労組の委員長かい」


ロザリーが言った。


「ブレンナール繊維労働組合、委員長」


男は、名乗った。


「——エティエンヌ・マロー」


彼は、部屋を見回した。そして、机の上の書類、壁の掛け時計、革張りの椅子。そういったものを一つずつ視線でなぞって、かすかに、口の端を曲げた。


(——なるほど。これが、経営陣の部屋か)


彼が見ているのは、部屋ではなかった。


彼が見ているのは、「資本家の部屋」という、頭の中の絵だった。


「労働者が、資本家の横暴によって、死んだ」


エティエンヌは、抑揚なく言った。


「——これは、争議ではない。社会問題だ」


「ふざけんな……ッ!」


ヴィンセントが、前に出ようとする。


ロザリーが、腕でそれを制した。


——落ち着け、と、目で言う。


そして彼女は、この痩せた男を、まっすぐに見た。


「あんた」


「なにか」


「本気で、組合員の生活を、考えているのかい?」


エティエンヌの眉が、わずかに動いた。


「工場が止まれば、何千人もの工員と、その家族が、路頭に迷う」


ロザリーは、一歩、詰め寄った。


「彼らの生活を守るために、組合ってのは、あるんじゃないのかい!?」


——ロザリーは、知っていた。


飢えるということが、どういうことか。


十二の歳から、彼女は、生きるためだけに生きてきた。パンを盗み、殴られ、身を売る一歩手前まで行き、そこから這い上がって、人を脅す側に回った。飢えは、思想では埋まらない。飢えは、パンでしか埋まらない。


だから、彼女には、この男が信じられなかった。


「生活?」


エティエンヌは、冷ややかに言った。


「我々が求めているのは——社会の、変革だ」


その声には、一片の後ろめたさもなかった。


工場の外では、いつのまにか、労働者たちが集まりはじめていた。


窓ガラス越しに、その声が、低く、うねるように響いてくる。


「中立国ベルリアを、戦争に加担させた」


エティエンヌは、その音を背に、告げた。


「君たち経営陣に、責任は、取らせる」


そして、彼は、恍惚とすら言える表情で、こう続けたのだ。


「——真に、自由で平等な社会を、作るために」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
活動家は面倒くさいですからね。話が通じないので。ジャックはそもそも、自分が悪いのが分かってない。生きる資格がないなぁ。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。