逆襲のジャック
——ブレンナール工場、会議室。
ジャックの笑みが、まだ、空気に残っていた。
ヴィンセントが、一歩、踏み出した。
「……今の言葉。取り消せ」
「どの言葉です?」
ジャックは、肩をすくめた。
「“圧死”の、ところ?」
——次の瞬間。
ヴィンセントの姿が、消えたように見えた。
椅子が倒れる音。壁に何かが叩きつけられる、鈍い音。気づいたときには、ジャックの足が、床から浮いていた。
「トーマスの死を」
ヴィンセントの、太い腕。その先で、ジャックの襟が、締め上げられている。
「面白半分で、弄ぶな……!」
ジャックの顔が、みるみる赤くなった。爪先が、宙を掻く。両手でヴィンセントの手首を掴むが、その腕は、鉄の棒のように動かない。
「離して、おやり!」
ロザリーが、叫んだ。
——どさり。
ジャックが、床に落ちた。
激しく咳き込む。喉を押さえ、四つん這いになって、ひゅうひゅうと空気を吸い込む。
「……面白半分、じゃない……!」
咳の合間から、声が漏れた。
「……ッ、面白半分などでは、ないんだ……!」
彼が、顔を上げた。
——その目を見て、ロザリーは、思わず一歩、退いた。
「私は」
血走った目が、大きく見開かれている。
「——これほど、胸のすく思いは、初めてだ!」
◇ ◇ ◇
ジャックは、ゆっくりと立ち上がった。
「貴様らのせいで」
その声は、震えていた。怒りではない。もっと粘つく、何か別のもので。
「私は、妻を失い、家を失い。——名も、誇りも、奪われたんだ!」
——記憶が、順不同で、噴き出してくる。
酒場の奥の部屋。逃げようとする自分の肩を押さえつけて、ロザリーの手下たちが、次から次へと酒を注いだ夜。「男爵様、まだまだこれからでしょう」と笑いながら、賽子を握らされた夜。借用書の束を目の前に積み上げられて、指が震えて署名できなかった、あの朝。
そのあと。
——そのあとの数年を、彼は、いちばんよく覚えている。
屋敷を出て、初めて借りた四畳の部屋。壁の薄さ。隣人の咳。石鹸を買う金がなくて、水だけで洗った襟の、黄ばみ。
そして、職を探して回った、あの日々。
かつて自分の領地だった町で、かつて自分に頭を下げていた男たちの店を、一軒ずつ訪ねて回った。ある者は憐れみ、ある者は追い払い、そしてほとんどの者が、彼の背中に向かって笑った。
最後に、彼を雇った場所が。
——よりにもよって、自分が捨てた女の、工場だった。
「……確かに」
ロザリーが、戸惑いながら言った。
「私たちは、あんたに、酷いことをした」
彼女の声には、後ろめたさがあった。ロザリーは、そういう女だ。過去の自分の所業から、目を逸らしはしない。
「だが」
ジャックが、遮った。
「最も、許せないのは」
彼は、二人を指さした。
「お前らが、ガブリエルに迎合し、その下に、降ったことだ!」
「……はあ?」
ロザリーが、眉をひそめた。
「ガブリエルは、あんたにも、職を与えたじゃないか」
そう。彼女には、それが理解できない。
かつて敵同士だった者たちが、今は同じ工場で飯を食っている。ロザリーにとって、それは救いだった。だから、ジャックにとってもそうだと、彼女は思っていた。
「——それが」
ジャックは、静かに言った。
「屈辱なんだよ」
◇ ◇ ◇
彼は、乱れた襟を、丁寧に整えはじめた。
指先で、皺を伸ばす。ボタンを確かめる。まるで、これから舞踏会にでも向かうかのように。
その仕草を見て、ロザリーは、ぞわりとしたものを感じた。
——ああ。
この男は、まだ。
自分を、貴族だと思っている。
「元妻に雇われ、頭を下げ、命令を聞き、金を受け取る日々」
ジャックは、朗々と語りはじめた。会議室の誰にというより、もっと大きな、見えない客席に向かって語るように。
「貴族だった私が。資本家の慈悲で、生き延びる人生だ」
——毎朝、彼は工場の門をくぐる。
作業着の若者たちが、彼を追い越していく。事務室で、伝票の数を数える。数が合わないと、若いトーマスに「おいジャック、またズレてるぞ」と、名前を呼び捨てにされる。
「すみません」と、頭を下げる。
その頭の中で、彼は毎回、こう考えていた。
——お前たちは、知らないのだ。
私が、どういう血筋の人間か。私の父が、祖父が、この地方で、どれほどの土地を治めていたか。
お前たちのような、字も読めない、名もない連中に、私が。
「……それで、復讐かい」
ロザリーが言った。
「ああ」
ジャックは、はっきりと頷いた。
「私は、決めていた。今は伏して、機を待とうと」
彼は、ゆっくりと、窓のほうへ歩いた。
「いつか必ず。貴様らに——“正義の名”で、刃が振るわれる、その日まで」
ロザリーとヴィンセントは、言葉を失った。
——何年だ。
この男は、何年、あの笑顔の下でそれを煮詰めていたのか。
「……それで、組合に近づいたのかい」
「会社が傾き、世間が敵に回る場所を」
ジャックは、窓の外を見たまま言った。
「私は、知っていたのさ」
「……」
「工員たちが不満を溜めている場所。誰かが火を点けるのを待っている場所。——私はただ、そこに、油を運んでやっただけだ」
ロザリーの中で、何かが切れた。
「そのために」
彼女は、机を回り込んだ。
「ブレンナールの従業員と、その家族を、路頭に迷わせるのか」
「……」
「あんた、分かってんのかい。ここが止まれば、この町の何千人が飯を食えなくなる。子供もだよ。ガキが、飯を食えなくなるんだ」
「……」
「トーマスは!」
彼女の声が、裏返った。
「トーマスは、そんな未来のために、死んだんじゃない!」
——ジャックは、振り返らなかった。
「死者の意思など」
窓ガラスに映る彼の顔は、ひどく穏やかだった。
「生きている者が、解釈するためにある」
「……外道が」
ヴィンセントが、拳を握った。
「いいや」
ジャックが、微笑む。
「私はただ——正しい側に、立つだけだ」
——彼が、そう言い終えた、そのとき。
◇ ◇ ◇
ノックも、なかった。
扉が、乱暴に開かれた。
「感情的だな」
入ってきたのは、痩せた男だった。
高級ではないが、きちんと手入れされた背広。書類を挟んだ革の鞄。眼鏡の奥の目には、疲労と、そして異様な光がある。
「……あんたが、労組の委員長かい」
ロザリーが言った。
「ブレンナール繊維労働組合、委員長」
男は、名乗った。
「——エティエンヌ・マロー」
彼は、部屋を見回した。そして、机の上の書類、壁の掛け時計、革張りの椅子。そういったものを一つずつ視線でなぞって、かすかに、口の端を曲げた。
(——なるほど。これが、経営陣の部屋か)
彼が見ているのは、部屋ではなかった。
彼が見ているのは、「資本家の部屋」という、頭の中の絵だった。
「労働者が、資本家の横暴によって、死んだ」
エティエンヌは、抑揚なく言った。
「——これは、争議ではない。社会問題だ」
「ふざけんな……ッ!」
ヴィンセントが、前に出ようとする。
ロザリーが、腕でそれを制した。
——落ち着け、と、目で言う。
そして彼女は、この痩せた男を、まっすぐに見た。
「あんた」
「なにか」
「本気で、組合員の生活を、考えているのかい?」
エティエンヌの眉が、わずかに動いた。
「工場が止まれば、何千人もの工員と、その家族が、路頭に迷う」
ロザリーは、一歩、詰め寄った。
「彼らの生活を守るために、組合ってのは、あるんじゃないのかい!?」
——ロザリーは、知っていた。
飢えるということが、どういうことか。
十二の歳から、彼女は、生きるためだけに生きてきた。パンを盗み、殴られ、身を売る一歩手前まで行き、そこから這い上がって、人を脅す側に回った。飢えは、思想では埋まらない。飢えは、パンでしか埋まらない。
だから、彼女には、この男が信じられなかった。
「生活?」
エティエンヌは、冷ややかに言った。
「我々が求めているのは——社会の、変革だ」
その声には、一片の後ろめたさもなかった。
工場の外では、いつのまにか、労働者たちが集まりはじめていた。
窓ガラス越しに、その声が、低く、うねるように響いてくる。
「中立国ベルリアを、戦争に加担させた」
エティエンヌは、その音を背に、告げた。
「君たち経営陣に、責任は、取らせる」
そして、彼は、恍惚とすら言える表情で、こう続けたのだ。
「——真に、自由で平等な社会を、作るために」




