杖の音
——退院の日が来た。
病院の廊下は、やけに長かった。
杖の先を突く。右脚に、そろそろと体重をかける。そして、また杖を突く。
一歩ごとに、腿の付け根の奥で、太い針を通されるような痛みが走った。歩くというより、痛みを一つずつ確かめながら、前へ移動しているような感覚だった。
ギプスは、外れている。
けれど、それは「治った」という意味ではなかった。
「無理をしなければ、歩けます」
背中越しに、医師の声がした。
「ただ……以前のようには」
「……そう」
私は、足元を見た。
——以前のように。
以前の私は、ブレンナールの坂道を、荷物を抱えて駆け上がっていた。徹夜明けに工房から店まで走って、それでも笑っていられた。あの日の私は、この身体が永久に続くものだと、疑いもしていなかった。
それが、たった一夜で、なくなった。
(……返して、なんて言わないわ)
私は、杖の握りを、確かめるように握り直した。
(その代わり、ちゃんと使ってやるから)
玄関ホールでは、エレナが待っていた。
「お帰りなさい、ガブリエル」
「迎えに来てくれて、ありがと」
彼女は、私の顔を見て、それから、視線を落とした。杖のところで、その視線が、止まる。
「足、こんな事に、なるなんて……」
「杖という足が、一本増えただけよ」
私は、こつん、と、それで床を叩いてみせた。
「——大したこと、ないわ」
「……軽い言い方するね」
エレナが、苦い顔をした。
彼女は、私の親友だ。だから、こういうとき、私が何をしているのかを、ちゃんと見抜いてしまう。
「そう思わないと、前を向けないから」
私は、静かに微笑んだ。
エレナは、何か言いかけて、やめた。代わりに、乳母車の中のアメリの毛布を、意味もなく直した。
◇ ◇ ◇
汽車の座席に腰を下ろすと、脚の痛みが、少しだけ引いた。
「コツ」
床を突いた杖の音が、車内の喧騒に紛れて消える。
——この音が。
これから、私の足音になるのだ。
昔、王都へ上る汽車の窓から見た麦畑の美しさを、ニッキーの家族に話したことがあった。ずいぶん前のことのような気がするが、まだ一年半ほどしか経っていない。
同じ窓から、同じ景色を見る。
麦は、変わらず金色に波打っていた。
けれど、その手前の駅で、私は、見慣れないものをいくつも見た。
真新しい掲示板。そこに貼られた、大きな紙。
『戒厳令、継続』
『戦時国債、発行』
黒い制服の男たちが、改札の脇に立って、乗客の荷物を検めている。以前は、いなかった。
停車のたびに、若い男たちが乗り込んでくる。彼らは一様に、妙に張り切った顔をしていた。そして、その隣で、母親らしい年配の女が、ずっと黙って窓の外を見ていた。
車内の会話の断片が、耳に入る。
戦況。徴用。物価。息子。
「……世界が、変わったのね」
私は、呟いた。
——私の身体と同じように。
この国の空気もまた、たった数ヶ月で、元には戻れないところまで来ていた。
そして、私には、まだ分かっていなかった。
その変化が、こちらへ牙を剥くのに、あと数日もかからないということが。
◇ ◇ ◇
——王都、ガブリエル商会、執務室。
久しぶりに座った自分の椅子は、少しだけ、他人のもののような感じがした。
机の上には、書簡の山が積まれている。
見舞い状。祝いの言葉。取引先からの照会。そのどれもが、丁寧で、当たり障りがなかった。
その山の中から、エレナが、一通を選んで差し出した。
「……ブレンナール工場の、労働組合からよ」
「労働組合?」
うちに、そんなものが、あっただろうか。
正確には、あることは知っていた。半年ほど前、トーマスが「福利厚生だの有給だの言い出す連中がいる」と、こぼしていた。私は、待遇を改善しなさいと指示を出し、それで済んだものと思っていた。
封を切る。
そして、私の指が、止まった。
『ガブリエル商会は、中立政策に反し、戦争に加担した』
一行目から、そう書かれていた。
私は、二度、読み返した。
「……何、これ」
「労働組合が、工場の停止を要求しているの」
エレナの声は、淡々としていた。淡々と読み上げなければ、感情が抑えられないのだと分かった。
「私たちが、従業員を、他国の戦争行為に従事させたせいで」
「……」
「——トーマスが、死んだ、と」
杖を握る手に、力がこもった。
握りの木が、みしり、と鳴る。
「……!!」
——トーマスが。
あの男の名前が、そこに書いてあった。
私が、名前を呼ぶことすら、まだ怖くて避けている、その名前が。
見も知らぬ誰かの手で、印刷された文字にされて、私を刺すための刃として、この紙の上に置かれている。
(……あなた達)
胸の奥の炭が、ぱち、と、爆ぜた。
(あの人の何を、知っているというの)
◇ ◇ ◇
——同じ頃。ブレンナール、ガブリエル商会、縫製工場。
いつもなら、朝から白い煙を吐いているはずの煙突が、ぴたりと、止まっていた。
工場の中は、静かだった。何百台というミシンが、一台も動いていない。糸の匂いと、機械油の匂いだけが、いつもと同じように残っている。
「ストライキ、だって!」
会議室で、ロザリーが声を荒げた。
葬儀を終えて戻った彼女の顔には、まだ疲れが濃く残っている。喪服から着替える暇もなく、そのまま工場に駆けつけてきたのだ。
その隣で、ヴィンセントが、一人の男を問い詰めていた。
「生産が、完全に止まっている」
低い声だった。
「どういうことだ。——現場は、お前に任せていたはずだろう?」
ヴィンセントは、この数日で、ずいぶん喋るようになっていた。喋らなければならなくなった、と言うべきかもしれない。
「ジャック!」
——ぷかり、と。
煙が、上がった。
椅子に浅く腰かけた男が、タバコをふかしていた。かつて、ヴィエール地方の一領主として、ガブリエルを娶り、賭博と女に溺れ、彼女を捨てた男。今は、ガブリエル商会の一事務員として、伝票を数えている男。
ジャック・バルサンである。
「これはこれは」
彼は、二人を見上げて、ゆっくりと言った。
「お二人とも。——随分と、遅いご帰還で」
その目には、光がなかった。
驚きも、怯えも、後ろめたさもない。ただ、空洞のような、虚ろな目。
「しかし、残念でしたねえ」
彼は、灰皿でタバコを揉み消しながら、続けた。
「——トーマスさんは」
ロザリーの眉が、動いた。
ジャックは、机に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。そして、少しだけ首を傾げて、こう言った。
「コンクリートブロックに潰されて、圧死、でしたっけ」
「……」
「一体、どれほどの、苦痛だったんでしょうねえ」
会議室の空気が、凍った。
ロザリーの顔から、血の気が引いていく。ヴィンセントの拳が、音を立てて握られる。
ジャックは、その二人の顔を、味わうように、ゆっくりと見比べた。
そして、笑った。
「——ねえ?」
その笑みは、この数年、彼が誰にも見せてこなかったものだった。
禿げ上がった頭を下げ、伝票の数を間違えては謝り、若い工員にまで小突かれて、それでもへらへらと笑っていた男の——本当の顔だった。




