↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
103/109

杖の音

——退院の日が来た。


病院の廊下は、やけに長かった。


杖の先を突く。右脚に、そろそろと体重をかける。そして、また杖を突く。


一歩ごとに、腿の付け根の奥で、太い針を通されるような痛みが走った。歩くというより、痛みを一つずつ確かめながら、前へ移動しているような感覚だった。


ギプスは、外れている。


けれど、それは「治った」という意味ではなかった。


「無理をしなければ、歩けます」


背中越しに、医師の声がした。


「ただ……以前のようには」


「……そう」


私は、足元を見た。


——以前のように。


以前の私は、ブレンナールの坂道を、荷物を抱えて駆け上がっていた。徹夜明けに工房から店まで走って、それでも笑っていられた。あの日の私は、この身体が永久に続くものだと、疑いもしていなかった。


それが、たった一夜で、なくなった。


(……返して、なんて言わないわ)


私は、杖の握りを、確かめるように握り直した。


(その代わり、ちゃんと使ってやるから)



玄関ホールでは、エレナが待っていた。


「お帰りなさい、ガブリエル」


「迎えに来てくれて、ありがと」


彼女は、私の顔を見て、それから、視線を落とした。杖のところで、その視線が、止まる。


「足、こんな事に、なるなんて……」


「杖という足が、一本増えただけよ」


私は、こつん、と、それで床を叩いてみせた。


「——大したこと、ないわ」


「……軽い言い方するね」


エレナが、苦い顔をした。


彼女は、私の親友だ。だから、こういうとき、私が何をしているのかを、ちゃんと見抜いてしまう。


「そう思わないと、前を向けないから」


私は、静かに微笑んだ。


エレナは、何か言いかけて、やめた。代わりに、乳母車の中のアメリの毛布を、意味もなく直した。



◇ ◇ ◇



汽車の座席に腰を下ろすと、脚の痛みが、少しだけ引いた。


「コツ」


床を突いた杖の音が、車内の喧騒に紛れて消える。


——この音が。


これから、私の足音になるのだ。


昔、王都へ上る汽車の窓から見た麦畑の美しさを、ニッキーの家族に話したことがあった。ずいぶん前のことのような気がするが、まだ一年半ほどしか経っていない。


同じ窓から、同じ景色を見る。


麦は、変わらず金色に波打っていた。


けれど、その手前の駅で、私は、見慣れないものをいくつも見た。


真新しい掲示板。そこに貼られた、大きな紙。


『戒厳令、継続』


『戦時国債、発行』


黒い制服の男たちが、改札の脇に立って、乗客の荷物を検めている。以前は、いなかった。


停車のたびに、若い男たちが乗り込んでくる。彼らは一様に、妙に張り切った顔をしていた。そして、その隣で、母親らしい年配の女が、ずっと黙って窓の外を見ていた。


車内の会話の断片が、耳に入る。


戦況。徴用。物価。息子。


「……世界が、変わったのね」


私は、呟いた。


——私の身体と同じように。


この国の空気もまた、たった数ヶ月で、元には戻れないところまで来ていた。


そして、私には、まだ分かっていなかった。


その変化が、こちらへ牙を剥くのに、あと数日もかからないということが。



◇ ◇ ◇



——王都、ガブリエル商会、執務室。


久しぶりに座った自分の椅子は、少しだけ、他人のもののような感じがした。


机の上には、書簡の山が積まれている。


見舞い状。祝いの言葉。取引先からの照会。そのどれもが、丁寧で、当たり障りがなかった。


その山の中から、エレナが、一通を選んで差し出した。


「……ブレンナール工場の、労働組合からよ」


「労働組合?」


うちに、そんなものが、あっただろうか。


正確には、あることは知っていた。半年ほど前、トーマスが「福利厚生だの有給だの言い出す連中がいる」と、こぼしていた。私は、待遇を改善しなさいと指示を出し、それで済んだものと思っていた。


封を切る。


そして、私の指が、止まった。


『ガブリエル商会は、中立政策に反し、戦争に加担した』


一行目から、そう書かれていた。


私は、二度、読み返した。


「……何、これ」


「労働組合が、工場の停止を要求しているの」


エレナの声は、淡々としていた。淡々と読み上げなければ、感情が抑えられないのだと分かった。


「私たちが、従業員を、他国の戦争行為に従事させたせいで」


「……」


「——トーマスが、死んだ、と」


杖を握る手に、力がこもった。


握りの木が、みしり、と鳴る。


「……!!」


——トーマスが。


あの男の名前が、そこに書いてあった。


私が、名前を呼ぶことすら、まだ怖くて避けている、その名前が。


見も知らぬ誰かの手で、印刷された文字にされて、私を刺すための刃として、この紙の上に置かれている。


(……あなた達)


胸の奥の炭が、ぱち、と、爆ぜた。


(あの人の何を、知っているというの)



◇ ◇ ◇



——同じ頃。ブレンナール、ガブリエル商会、縫製工場。


いつもなら、朝から白い煙を吐いているはずの煙突が、ぴたりと、止まっていた。


工場の中は、静かだった。何百台というミシンが、一台も動いていない。糸の匂いと、機械油の匂いだけが、いつもと同じように残っている。


「ストライキ、だって!」


会議室で、ロザリーが声を荒げた。


葬儀を終えて戻った彼女の顔には、まだ疲れが濃く残っている。喪服から着替える暇もなく、そのまま工場に駆けつけてきたのだ。


その隣で、ヴィンセントが、一人の男を問い詰めていた。


「生産が、完全に止まっている」


低い声だった。


「どういうことだ。——現場は、お前に任せていたはずだろう?」


ヴィンセントは、この数日で、ずいぶん喋るようになっていた。喋らなければならなくなった、と言うべきかもしれない。


「ジャック!」


——ぷかり、と。


煙が、上がった。


椅子に浅く腰かけた男が、タバコをふかしていた。かつて、ヴィエール地方の一領主として、ガブリエルを娶り、賭博と女に溺れ、彼女を捨てた男。今は、ガブリエル商会の一事務員として、伝票を数えている男。


ジャック・バルサンである。


「これはこれは」


彼は、二人を見上げて、ゆっくりと言った。


「お二人とも。——随分と、遅いご帰還で」


その目には、光がなかった。


驚きも、怯えも、後ろめたさもない。ただ、空洞のような、虚ろな目。


「しかし、残念でしたねえ」


彼は、灰皿でタバコを揉み消しながら、続けた。


「——トーマスさんは」


ロザリーの眉が、動いた。


ジャックは、机に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。そして、少しだけ首を傾げて、こう言った。


「コンクリートブロックに潰されて、圧死、でしたっけ」


「……」


「一体、どれほどの、苦痛だったんでしょうねえ」


会議室の空気が、凍った。


ロザリーの顔から、血の気が引いていく。ヴィンセントの拳が、音を立てて握られる。


ジャックは、その二人の顔を、味わうように、ゆっくりと見比べた。


そして、笑った。


「——ねえ?」


その笑みは、この数年、彼が誰にも見せてこなかったものだった。


禿げ上がった頭を下げ、伝票の数を間違えては謝り、若い工員にまで小突かれて、それでもへらへらと笑っていた男の——本当の顔だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ジャックのくせに生意気な。どうせ、また利用されているだけのくせに。こいつは絶対に、ぶっ飛ばせ!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。