束の間の家族
——爆発から、数日が過ぎた。
ロザリーとヴィンセントは、トーマスの葬儀のために、ブレンナールへ戻っていった。
出立の朝、ロザリーは私の手を握って、「あんたは休んでな」とだけ言った。彼女の手のひらは、火傷の痕でざらついていた。私は「ええ」と答えた。それ以外に、言えることがなかった。
病室の朝は、静かだった。
カーテン越しの光が、床に淡い四角を落としている。誰かが廊下を通るたび、床板がかすかに鳴る。窓の外では、名前も知らない鳥が、律儀に同じ節を繰り返していた。
ベッドの脇には、一本の杖が、立てかけられている。
看護師が「そろそろ慣らしていきましょう」と言って、置いていったものだ。黒檀の、飾り気のない杖。まだ一度も、握っていない。
ベビーベッドの中で、アメリが、小さく手足をばたつかせた。
「……起きてるな」
見守っていたニッキーが、小声で呟く。
私は、そっと目を開けた。
「……おはよう」
「おはよう」
ニッキーが、少し驚いたように、微笑んだ。
「よく眠れた?」
「ええ……珍しく」
嘘だった。
明け方まで、天井を見ていた。目を閉じると、瓦礫と炎の匂いが戻ってくる。それでも、彼にそれを言うつもりはなかった。
「うー」
アメリが、機嫌のいい声を上げる。
ニッキーが、ぎこちなく、その子を抱き上げた。両腕を妙に突っ張って、まるで割れ物を運ぶ人のような持ち方をする。
「えっと……こう、か?」
「首。もう少し、支えてあげて」
「あ。——ああ、なるほど」
アメリの小さな手が、ふいに、彼の指を掴んだ。
きゅ、と。
「……掴んだ」
ニッキーが、固まった。
彼の顔から、表情が抜け落ちている。何十人もの部下を動かし、砲撃の中で物資を守り抜いた男が、生後数ヶ月の娘に指を一本握られただけで、身動きが取れなくなっていた。
「離さないでしょ?」
私は、微笑んだ。
「……離せないな、これは」
三人を、あたたかな沈黙が包む。
——それは。アメリが生まれてから初めての、“家族だけの時間”だった。
考えてみれば、私たちは、まだ一度も、三人きりで朝を迎えたことがなかったのだ。あの子が生まれたときも、ニッキーは戦地にいた。私が生死の境をさまよったときも、彼は間に合うか間に合わないかの瀬戸際にいた。
こんな、なんでもない朝が。
私たちには、なかった。
◇ ◇ ◇
「……この子は、どんな子になるんだろうな」
アメリをあやしながら、ニッキーが言った。
「さあ。あなたに似るか、私に似るか」
「君に似たら、相当、手強いな」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」彼は、真顔で頷いた。「世界一の褒め言葉だ」
アメリが、むにゃっと、笑うような顔をした。
私たちは、二人でそれを覗き込んで、しばらく黙っていた。
「……できれば、この子には」
ニッキーが、ぽつりと言った。
「戦争のない世界で、生きてほしい」
「そう……ね」
私は、視線を落とした。
——ならば、あなたはどうして、行くのですか。
喉元まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。飲み込んで、そして、その苦さに、自分で驚いた。
こんなことを、思ってはいけない。
彼は、逃げなかっただけだ。同じ年頃の男たちが、次々と戦地へ送られていく国で、彼だけが商会の椅子に座っていることを、彼自身が許せなかっただけだ。私は、そういう人だと知って、この人を選んだ。
「……トーマスの分まで」
私は、話を変えた。
「ちゃんと、生きてほしいな」
「ああ」ニッキーが、静かに頷く。「——そうだな」
彼は、あの陽気な男と、そう何度も顔を合わせたわけではない。それでも、その名を口にするときの声は、確かに重かった。
アメリが、突然、火がついたように泣きはじめた。
「ふふ。オムツを、変えなきゃ」
「え、えっと……どうすれば」
「大丈夫。少しずつ、覚えていけばいいのよ」
ベッドの上に寝かせて、私は、彼にやり方を教えた。
ニッキーは、真剣そのものの顔で、オムツ布を広げた。そして、しばらく、それを睨んで動かなくなった。四隅を順番に持ち上げては、首を捻っている。
「……これは、どちらが上だ?」
「ふふっ」
「笑うな。真面目にやってるんだ」
「ごめんなさい。——でも、あなた、補給隊にいたんでしょう」
「布の畳み方は、教わらなかった」
私は、声を上げて笑った。
久しぶりに笑ったせいで、脇腹が痛んだ。それでも、笑い続けた。ニッキーも、つられて笑った。アメリだけが、まだ不機嫌に泣いていた。
——その日。
ニッキーは、戦地へと、戻っていった。
駅までは、見送れなかった。私の脚が、まだそれを許さなかったからだ。
病室の扉の前で、彼は一度、振り返った。
「行ってくる」
「ええ」
「……必ず、帰る」
「ええ」
私は、ちゃんと笑えていたと思う。
扉が閉まって、廊下を遠ざかっていく足音を、私は最後まで数えていた。
◇ ◇ ◇
夜が来た。
アメリは、ベビーベッドで、すやすやと眠っている。看護師の見回りも終わって、廊下から音が消えた。
私は、目を、開けていた。
——静か、すぎた。
昼のあいだは、いい。人が来て、書類が届き、誰かが何かを尋ねてくる。答えているうちに、時間が過ぎる。
けれど夜になると、それが全部、退いていく。
退いたあとに残るのは、私、一人だ。
天井の暗がりに、この数ヶ月が、順番に浮かんでは消えた。
湖のほとりで、石を三度跳ねさせたロザリー。エドリックの焼いた肉。ヴィンセントの太い指を握ったアメリ。「へへっ」と笑って、乳母車を押していたトーマス。
——姉さん。
(……やめて)
私は、ぎり、と、歯を食いしばった。
顎が痛くなるほど、食いしばった。
——やめて。今、それを思い出したら、私は。
がばっと。
私は、身を起こした。
胸が、苦しい。息が浅くなって、指先が痺れている。私は、寝衣の胸元を、強く握り込んだ。
(——壊れるな)
自分に、言い聞かせる。
(私には、守らなければいけない商会がある)
ガブリエル商会。カートライト商会ベルリア支社。合わせて、何千人。その家族まで含めれば、何万人。その暮らしが、私の判子一つの上に乗っている。
(守らなければならない、家がある)
ミランダが。マリアが。エレナが。マルコスが。ロザリーが、ヴィンセントが。
私が倒れたら、あの人たちはどうなる。
(——この子が、いる)
私は、ベビーベッドを見た。
小さな胸が、規則正しく上下している。
この子は、父親を戦地に出したまま、母親まで潰れるところを見なければならないのか。
(壊れちゃ、いけない)
(倒れちゃ、いけない)
(泣いちゃ、いけない)
——経営者として。妻として。母として。
(私は、強くあらねば、ならない)
暗い病室の中で、私の目だけが、ぎらぎらと光っていた。
それは、もう、あの帽子屋の女主人の目ではなかったと思う。
弱さを持っていてはいけない。迷いを見せてはいけない。誰の前でも、微塵も揺らいではいけない。そう決めることでしか、私はこの夜を越えられなかった。
——けれど。
その、瞬間だった。
『姉さん……』
耳の奥で、あの声がした。
間の抜けた、人の良さそうな、あの声が。
「——……っ」
私は、口と鼻を、両手で覆った。
だめだ。
だめ、だめ、だめ。
指の隙間から、熱いものが溢れた。喉が、ひゅ、と鳴った。押さえつけても、押さえつけても、肩が勝手に跳ねた。
「……っ、あ……」
——ずるい。
こんなの、ずるいわ、トーマス。
あなたは、最後の最後まで、人の心配ばかりして。ヴィンセントに、私たちのことを頼んで。工場を続けてくれ、なんて言い残して。
そんなことを言われたら、私は。
もう、投げ出せないじゃない。
「ねえ」
私は、暗闇に向かって、囁いた。
「——そうでしょ? トーマス」
答えは、なかった。
私は、ベッドの上で、小さくうずくまった。ずいぶん長いあいだ、そうしていた。
——泣くのは、今夜だけにする。
明日からは、二度と泣かない。強くなる。誰にも負けない女になる。
そう、心に決めた。
(……それが、どれほど恐ろしい決意なのか)
このときの私は、まだ、分かっていなかった。
業火編はこの話で完結です。次回よりガブリエルにとって、人生最大クラスの試練の一つが訪れます。題して「闘争編」。心して書きます。応援、コメントよろしくお願いします。コミックスも12巻まで発売中。桃月はち先生の圧倒的な画力で描くガブリエルをぜひお願いします。




