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俺達の工場

——布が焼けた匂いを、なんと言えばいいのだろう。


木が焼ける匂いとも、油の焼ける匂いとも違う。甘くて、そして、ひどく厭わしい。何千反という反物を抱えていたその工場は、夜通し燃えて、朝が近づいてもまだ、地面が熱を持っていた。


ベルリア、ブレンナール。ガブリエル商会、縫製工場跡。


空が、ようやくうっすらと明るみはじめていた。夜明け前の、ものの色を奪う灰青の光の中で、崩れ落ちた鉄骨が、黒い骨のような影を落としている。


消防隊は、深夜のうちに一度、退いていた。火勢が強すぎて、これ以上は危ないと。誰もが正しい判断だと言った。


だから、瓦礫の山を掘っている男は、一人しかいなかった。


ヴィンセントである。


上着はとうに脱ぎ捨てていた。シャツは煤で真っ黒になり、手のひらは、いつ切ったのかも分からない傷だらけだった。血が滲んでも、痛みは感じない。彼はただ、瓦礫を掴んでは、放り、掴んでは、放っていた。


——喋らない男だった。


昔から、そうだ。言うべきことは、いつも相方が全部言ってくれた。彼が黙っていても、あの男が、勝手に喋って、勝手に笑って、その場を回してくれた。だからヴィンセントは、口を開く必要がなかった。


伸びた影が、朝の光に、細く尾を引いている。


「——どこだ! トーマス!」


自分の声が、こんなに大きく出るものかと、彼は思った。


——と。


瓦礫の向こうから、かすかな声がした。


「……ヴィンセント……?」


心臓が、一度、跳ねた。


「トーマス!」


彼は駆け寄り、大きなトタン板に手をかけた。まだ熱を持っていて、手のひらが焼ける。構わずに、力任せに、それをどかす。


——現れたのは、トーマスの顔だった。


煤で汚れてはいたが、確かに、あの間の抜けた、人の良さそうな顔だった。


「へへ……派手に、ぶっとんじまった」


その軽口を聞いた瞬間、ヴィンセントは、全身から力が抜けそうになった。


「今、出す!」


胸の上に乗ったコンクリート片に、手をかける。


——だが、びくとも、しない。


「……姉さん、来てねえっすか?」


「……向こうだ。無事だ」


「……なら、良かった」


トーマスが、ふう、と息を吐いた。


ヴィンセントは、答えながら、瓦礫の縁に指を差し込んでいた。爪が割れる。構わない。


「なあ、ヴィンセント」


「なんだ! 喋るな!」


「お前、姉さんのことが……好きか?」


——なんだ、それは。


「だ、から、喋るなと……」


こんな時に。この男は、いつだって、そうだ。人の都合など、お構いなしに、口を開く。


ヴィンセントは、腹の底に力を込めた。


「う……」


肩の筋が、悲鳴を上げる。腰が、軋む。


「だあっ!」


——ごろん、と。


大きな破片が、脇へ転がっていった。


「はっ……はっ……」


肩で、息をする。汗が、顎から滴って、灰の上に落ちた。


「……姉さんが、何だって……」


そう言いながら、彼は、顔を上げた。



◇ ◇ ◇



——ヴィンセントの、動きが、止まった。


コンクリートの下から現れたものを。彼は、しばらく、うまく理解することができなかった。


理解を、拒んだ、と言ったほうが正しいかもしれない。


人の身体というものは、こんなふうになるのか。


——ああ。


だから、この男は。


だから、こいつは、さっきから、あんなに、どうでもいい話ばかり。


「……トーマス……」


やっと出た声は、自分のものとは思えないほど、掠れていた。


「……だから、聞いてるんだ」


トーマスの口の端から、黒い血が、つう、と伝い落ちた。


「姉さんのことが、好きか、って」


——ああ。


ヴィンセントは、崩れるように、その場にしゃがみ込んだ。


膝が、灰にめり込む。


こいつは、知っていたのだ。とっくに。自分がどうなっているかも、これから何が起きるかも。


その上で。


助けようとする相棒が、絶望して手を止めてしまわないように、ずっと、くだらない話をして、笑ってみせていたのだ。


ヴィンセントは、口を開いた。


「……ああ」


生まれてから四十年近く、一度も口にしたことのない言葉が、あっさりと、出てきた。


「好きだ」


「そうか」


トーマスが、笑った。


「——俺も、好きだ」


血に濡れた手が、持ち上がる。


ヴィンセントは、その手を、ぐっと、握った。


冷たかった。夏だというのに、氷のように、冷たかった。


「……ああ、でも、そうだ」


ふと、思い出したように、トーマスが言った。


「俺、姉さんが、二人できたんだ」


「……」


「ロザリー姉さんと」


とろん、と、目の焦点が、緩んでいく。


「——ガブリエル……姉さん」


かつて、その女から店を取り上げ、家を取り上げ、路頭に迷わせようとした男が。今、その女を、姉と呼んでいる。


「二人を、頼むぜ……兄弟」


「……分かった」


「工場も……続けて、くれ……」


「……分かった」


ヴィンセントの声は、まったく震えていなかった。


震えていたのは、握った手のほうだった。どちらの手が震えているのか、もう、分からなかった。


トーマスが、ふと、横を向いた。


その先には——朝日を浴びはじめた、焼け落ちた工場が、あった。


黒い骨組みの向こうから、光が差している。


「俺……達の……工……場……」


その瞳に、光が、映っていた。


——やがて、瞳は、何も映さなくなった。



◇ ◇ ◇



ヴィンセントは、長いあいだ、その手を離さなかった。


言葉を、探した。


いつも、こういう時に喋るのは、こいつの役目だった。場を締めるのも、誰かを送るのも、湿っぽくなった空気を笑いに変えるのも、全部、こいつがやってくれた。


——これからは。


俺が、喋らなければ、ならないのか。


朝日が、二つの影を、長く長く、地面に伸ばしていた。



◇ ◇ ◇



——白い、天井。


私はそれを、じっと見つめていた。


消毒薬の匂いが、鼻の奥に、ずっと残っている。痛み止めのせいで、頭の芯に薄い膜がかかったようで、音が少し遠い。右脚は、包帯で固められて、自分のものではないみたいに重い。


「……最後に、ヴィンセントに、託したそうだ」


エドリックの声がした。


彼は、電報の紙片を持ったまま、それを読み上げるのに、少し時間をかけていた。


「——ロザリーと、ガブリエル。二人の姉さんを、頼む、と」


天井の、染みを見る。


——姉さん、と。


あの人が、私をそう呼ぶようになったのは、いつからだったろう。


最初は「会長」だった。それから「ガブリエルさん」になって、いつのまにか、酔っ払うと「ガブリエル姉さん」になっていた。ロザリーが「あんた、図々しいよ」と小突いて、それを本人が「へへっ」と笑って躱していた。


あの、間の抜けた笑い方を。


私は、もう二度と、聞くことができない。


「……ばかだね」


ベッドの脇で、ロザリーが呟いた。


包帯の巻かれた自分の腕を、彼女は、じっと見つめている。あの夜、燃える工場からアメリを抱えて走り抜けたときに負った傷だ。


「最後まで……人に、気ぃ使って……」


目頭を、押さえる。


私は、天井を見ていた。


見ていなければ、ならなかった。


——首を、動かせば。ロザリーの顔が、目に入る。ニッキーの顔が、エドリックの顔が、目に入る。


そうしたら、私は、終わりだ。


一度でも堤が切れたら、私はもう、二度と、起き上がれなくなる。それがはっきりと分かっていた。


だから私は、天井の染みだけを、見ていた。


——それに。


もう一つ、私を凍りつかせている考えが、あった。


あの工場は。あの町は。あの仕事は。


私が、決めたものだ。


エドリックが軍服の話を持ちかけたとき、私は迷った。「ファッションを売る会社が、戦争の服を作っていいのか」と、ニッキーにこぼしもした。


それでも、私は、やると決めた。それが夫の戦いを支える道だと信じて。


その結果、あの人は、死んだ。


「うぁ……」


ニッキーの腕の中で、アメリが、身をよじった。


やがて、細い声を上げて、泣きはじめる。


「!」


慣れない手つきで、ニッキーがおろおろとあやす。


「ニッキー。——アメリを、抱かせて」


そっと、腕に受け取る。


小さな体は、驚くほど熱かった。生きているものは、こんなに熱いのか、と思った。


けれど、アメリは、泣き止まない。


顔を真っ赤にして、小さな手を握りしめて、天井に向かって、ただ泣いている。


——その様子を、ロザリーが、見ていた。


自分が、火の中を抱いて走った、その子を。


「……トーマス」


ロザリーの顔が、ぐしゃりと、崩れた。


「トーマスぅうう——!!」


顔を覆って、彼女は、床にへたり込んだ。エドリックが、慌てて肩を支える。ニッキーは、唇を噛んで、下を向いていた。


病室が、一人の女の号泣で、いっぱいになる。


——その中で。


私は、泣かなかった。


泣けなかったのではない。泣かない、と決めたのだ。


腕の中で泣き続けるアメリを抱きしめながら、私は、中空の一点を睨みつけていた。


胸の底で、何かが、じり、と音を立てて、赤く焼けはじめていた。


それは、悲しみではなかった。


もっと、静かで、もっと、質の悪いものだった。


——誰かが、これを、やった。


私の商会の人間を、殺した誰かが、この世界のどこかで、今日も普通に飯を食っている。


(……その顔を、見つけてやる)


私は、まだ、それが誰なのかを知らなかった。


そして——本当に恐ろしいのは、爆弾を仕掛けた男ではないということも。まだ、知らなかった。

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冷静に追い詰めてやれ。
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