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嫌いな上司と、婚活パーティーで会いました  作者: 雨宮 弦


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9/12

第9話 うまくいった日の反省会

 金曜日の夕方、汐乃はいつもより早くパソコンを閉じた。


 翌日は瀬戸との食事だった。初めて会うわけではないのに、何を着ていくかが決まらない。店を調べ直し、あまり気負いすぎないほうがいいと思うたび、別の服が気になった。


 鞄を持ち上げると、スマートフォンが振動した。


『本日、少しだけ時間はありますか。写真の掲載後について、報告できれば』


 橘からだった。


 業務報告のような文面を読んで、汐乃は笑った。自分にも報告したいことがあった。


『三十分なら。つむぎでどうですか』


『承知しました』


 三十分と決めてから、明日の準備があるので延長はできない、と書こうとしてやめた。理由を言わずに断っていい協定だ。三十分なら三十分でいい。


 つむぎの店内には、雨の日とは違う夕方の光が入っていた。汐乃が先に着き、窓側に座る。


 橘は十分後に来た。


「遅くなりました」


「時間どおりです」


「君が先にいたので」


「私が早かっただけです」


 彼はうなずき、上着を椅子の背へ掛けた。買ったばかりの服ではなく、会社から来たシャツ姿だった。


 店の女性が注文を取りにくる。


「私はホットコーヒーを」


 汐乃が言うと、橘はメニューも見ずに続けた。


「アイスコーヒーをお願いします」


 店の女性は二人分を繰り返し、カウンターへ戻った。


「それで、報告は」


「君からどうぞ」


 汐乃はバッグを膝から下ろした。


「次の食事が決まりました」


「そうですか」


 橘は少しだけ背筋を伸ばした。


「おめでとうございます」


「まだ、そういう段階では」


「それでも、よかったですね」


 汐乃はカップの置かれる場所を空けた。


「ちゃんと話せたんです。仕事のことも、休日のことも。私が質問を探しているあいだに、向こうが聞いてくれて」


「話しやすい方でしたか」


「はい。古い建物を見るのが好きだそうで、喫茶店で床を見てしまうって」


 名前は出さなかった。瀬戸から、ほかの人に話す許可をもらっていない。彼が話した細かい仕事の内容も、汐乃の中に留めておいた。


「私の話も、急がずに聞いてくれました。いいですよね、ああいうの」


 橘は水のグラスを持ち上げた。


「ええ」


 飲み物が届いた。橘の前に背の高いグラス、汐乃の前に白いカップが置かれる。


 橘は一瞬グラスを見てから、ストローの袋を開けた。


「部長のほうは?」


「私も、もう一度会う約束をしました」


「よかったじゃないですか」


 汐乃は思わず体を乗り出した。


「質問してから意見を言いました?」


「その前に、相手の話が終わるまで待ちました」


「進歩ですね」


「講評、ありがとうございます」


 彼の声がいつもより少し乾いて聞こえ、汐乃は笑いながら姿勢を戻した。


「どんなお話を?」


「読んだ本について。私が途中で読むのをやめた小説を、その方は最後まで読んでいて」


「結末を教えてもらったんですか」


「いえ。そこにたどり着くまでが好きなので、自分で読んでほしいと言われました」


 汐乃はその言い方を、いいと思った。


 相手に合わせて結末を教えるのではなく、自分の好きなところを話す。橘も、それを聞いてもう一度会いたいと思ったのだ。


「読み直すんですか」


「週末に」


「真面目ですね」


「会話の続きができるので」


 橘がストローへ口をつけた。


「白石さんは、何の話をしているときが楽しかったんですか」


「床です」


「……床」


「さっきの、喫茶店の床の話」


「ああ」


 真面目に聞き直すので、汐乃は笑ってしまった。


「好きな話をしてくれると、こちらも楽しくなるんです」


 橘はうなずき、グラスについた水滴を指で払った。


 汐乃は自分の明日の服装へ意識を戻した。会話の続きができる。瀬戸と会う楽しみも、同じなのかもしれない。


「食事のとき、聞きたいことが多くなったらどうしたらいいでしょう」


「まず、聞きたいことを一つずつ」


「当たり前です」


「君は、一つの答えに次の三つを準備しそうなので」


 否定できず、汐乃はカップへ逃げた。


「部長も、本の感想を報告書みたいにまとめないでくださいね」


「必要な部分だけにします」


「そういうところです」


「うまくいった話も、反省会でするんですね」


 汐乃が言うと、橘は少し考えた。


「悪かったところを探すだけでは、続きませんから」


「会社の会議でも、言ってください」


「そうですね」


 いつものように言い返されると思っていたので、少し驚いた。


「使いやすくなった資料なら、どこがよかったかも伝えるべきです。次に残すために」


「そうなんです。全部直されると、どこはそのままでいいのか、わからなくなるので」


 話が仕事へ寄りかけたことに気づき、汐乃は言葉を止めた。橘も気づいたように、水を飲む。


「今日の、よかったことを一つ挙げるなら」


「宿題ですか」


「いえ。私が考えていたので」


 汐乃は少し考えた。


「相手の話が途切れたとき、焦って次の質問をしなかったことです。待ってみたら、続きがありました」


「相手が、考えていた?」


「はい。思い出そうとしていただけでした」


 前なら、その間を、退屈になったしるしだと思っただろう。自分が何かを言わなければ、相手が離れてしまう。そんな焦りが、いつもあった。


「部長は?」


「わからない本を、わからないと言えたことです」


「知ってるふり、するんですか」


「少し。内容より評判だけ知っているときもあります」


「仕事以外でも、準備してるんですね」


「君もでしょう」


 汐乃は笑った。否定できなかった。


 評価される場だと思うほど、よく見せようとする。それを少しやめると、話が続いた。一度できたことを、明日も思い出せればいい。


「明日、うまく話せない時間があっても、今日できたことまで、なかったことにしなくていいと思います」


 橘が言った。


「……それ、助かります」


「そうですか」


「私、次に失敗すると、前の成功も偶然だったと思うので」


 汐乃は自分の膝へ目を落とした。仕事の失敗でも同じだった。昨日までできていたことを、今日の一つの間違いで全部信じられなくなる。


 橘は、そんなことはない、とすぐには言わなかった。


「準備をしたことと、当日の結果は、別々に残しておけばいいのかもしれませんね」


「部長も?」


「はい。私にも、必要だと思います」


 二人で笑ったあと、汐乃は時計を見た。あと十分。


 以前なら、短い時間で何が話せるのかと思っただろう。今日は三十分でも、報告しておきたいことが十分にあった。


「私、明日は相手を知るだけじゃなくて、自分のことも話してみます」


「仕事を続けたいことも?」


「はい。でも、いきなり確認事項にはしないように」


 橘はうなずいた。


「望んでいることを話すのは、確認事項とは違うでしょう」


「そうですね」


 汐乃はその言葉を持ち帰ることにした。


     *


 店を出る前に、橘がグラスの氷を見た。


「少し、冷えました」


「今日は暖かかったですけど、夜はまだ冷えますね」


「そうですね」


 汐乃は明日の店の地図を確認しながら返した。


 彼がコーヒーを頼むときはいつもホットだったことも、今日はメニューを見ていなかったことも、そのときは思い出さなかった。


 時間になって席を立つとき、橘は引き留めなかった。短い約束を、そのまま終えられることにも、汐乃は少し安心した。


 会計を済ませ、入口で別れる。


「明日、楽しんできてください」


「部長も。あ、本は読み終わってからですよ」


「わかっています」


 汐乃は笑って、駅へ向かった。


 帰宅後、食事に着ていく服は、服を選びに行った日に試着したものとは別の、手持ちの淡いベージュのブラウスに決めた。新しいものを着れば、うまく話せるわけではない。


 鏡の前で一度笑ってみる。撮影のときほど肩に力は入らなかった。


 明日、楽しんできてください。


 その言葉のおかげで、試験を受けに行くような気持ちが少し薄れた。


 汐乃は予定表を閉じ、読みかけの本を枕元へ置いた。今夜は条件表を開かずに眠れそうだった。

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