第9話 うまくいった日の反省会
金曜日の夕方、汐乃はいつもより早くパソコンを閉じた。
翌日は瀬戸との食事だった。初めて会うわけではないのに、何を着ていくかが決まらない。店を調べ直し、あまり気負いすぎないほうがいいと思うたび、別の服が気になった。
鞄を持ち上げると、スマートフォンが振動した。
『本日、少しだけ時間はありますか。写真の掲載後について、報告できれば』
橘からだった。
業務報告のような文面を読んで、汐乃は笑った。自分にも報告したいことがあった。
『三十分なら。つむぎでどうですか』
『承知しました』
三十分と決めてから、明日の準備があるので延長はできない、と書こうとしてやめた。理由を言わずに断っていい協定だ。三十分なら三十分でいい。
つむぎの店内には、雨の日とは違う夕方の光が入っていた。汐乃が先に着き、窓側に座る。
橘は十分後に来た。
「遅くなりました」
「時間どおりです」
「君が先にいたので」
「私が早かっただけです」
彼はうなずき、上着を椅子の背へ掛けた。買ったばかりの服ではなく、会社から来たシャツ姿だった。
店の女性が注文を取りにくる。
「私はホットコーヒーを」
汐乃が言うと、橘はメニューも見ずに続けた。
「アイスコーヒーをお願いします」
店の女性は二人分を繰り返し、カウンターへ戻った。
「それで、報告は」
「君からどうぞ」
汐乃はバッグを膝から下ろした。
「次の食事が決まりました」
「そうですか」
橘は少しだけ背筋を伸ばした。
「おめでとうございます」
「まだ、そういう段階では」
「それでも、よかったですね」
汐乃はカップの置かれる場所を空けた。
「ちゃんと話せたんです。仕事のことも、休日のことも。私が質問を探しているあいだに、向こうが聞いてくれて」
「話しやすい方でしたか」
「はい。古い建物を見るのが好きだそうで、喫茶店で床を見てしまうって」
名前は出さなかった。瀬戸から、ほかの人に話す許可をもらっていない。彼が話した細かい仕事の内容も、汐乃の中に留めておいた。
「私の話も、急がずに聞いてくれました。いいですよね、ああいうの」
橘は水のグラスを持ち上げた。
「ええ」
飲み物が届いた。橘の前に背の高いグラス、汐乃の前に白いカップが置かれる。
橘は一瞬グラスを見てから、ストローの袋を開けた。
「部長のほうは?」
「私も、もう一度会う約束をしました」
「よかったじゃないですか」
汐乃は思わず体を乗り出した。
「質問してから意見を言いました?」
「その前に、相手の話が終わるまで待ちました」
「進歩ですね」
「講評、ありがとうございます」
彼の声がいつもより少し乾いて聞こえ、汐乃は笑いながら姿勢を戻した。
「どんなお話を?」
「読んだ本について。私が途中で読むのをやめた小説を、その方は最後まで読んでいて」
「結末を教えてもらったんですか」
「いえ。そこにたどり着くまでが好きなので、自分で読んでほしいと言われました」
汐乃はその言い方を、いいと思った。
相手に合わせて結末を教えるのではなく、自分の好きなところを話す。橘も、それを聞いてもう一度会いたいと思ったのだ。
「読み直すんですか」
「週末に」
「真面目ですね」
「会話の続きができるので」
橘がストローへ口をつけた。
「白石さんは、何の話をしているときが楽しかったんですか」
「床です」
「……床」
「さっきの、喫茶店の床の話」
「ああ」
真面目に聞き直すので、汐乃は笑ってしまった。
「好きな話をしてくれると、こちらも楽しくなるんです」
橘はうなずき、グラスについた水滴を指で払った。
汐乃は自分の明日の服装へ意識を戻した。会話の続きができる。瀬戸と会う楽しみも、同じなのかもしれない。
「食事のとき、聞きたいことが多くなったらどうしたらいいでしょう」
「まず、聞きたいことを一つずつ」
「当たり前です」
「君は、一つの答えに次の三つを準備しそうなので」
否定できず、汐乃はカップへ逃げた。
「部長も、本の感想を報告書みたいにまとめないでくださいね」
「必要な部分だけにします」
「そういうところです」
「うまくいった話も、反省会でするんですね」
汐乃が言うと、橘は少し考えた。
「悪かったところを探すだけでは、続きませんから」
「会社の会議でも、言ってください」
「そうですね」
いつものように言い返されると思っていたので、少し驚いた。
「使いやすくなった資料なら、どこがよかったかも伝えるべきです。次に残すために」
「そうなんです。全部直されると、どこはそのままでいいのか、わからなくなるので」
話が仕事へ寄りかけたことに気づき、汐乃は言葉を止めた。橘も気づいたように、水を飲む。
「今日の、よかったことを一つ挙げるなら」
「宿題ですか」
「いえ。私が考えていたので」
汐乃は少し考えた。
「相手の話が途切れたとき、焦って次の質問をしなかったことです。待ってみたら、続きがありました」
「相手が、考えていた?」
「はい。思い出そうとしていただけでした」
前なら、その間を、退屈になったしるしだと思っただろう。自分が何かを言わなければ、相手が離れてしまう。そんな焦りが、いつもあった。
「部長は?」
「わからない本を、わからないと言えたことです」
「知ってるふり、するんですか」
「少し。内容より評判だけ知っているときもあります」
「仕事以外でも、準備してるんですね」
「君もでしょう」
汐乃は笑った。否定できなかった。
評価される場だと思うほど、よく見せようとする。それを少しやめると、話が続いた。一度できたことを、明日も思い出せればいい。
「明日、うまく話せない時間があっても、今日できたことまで、なかったことにしなくていいと思います」
橘が言った。
「……それ、助かります」
「そうですか」
「私、次に失敗すると、前の成功も偶然だったと思うので」
汐乃は自分の膝へ目を落とした。仕事の失敗でも同じだった。昨日までできていたことを、今日の一つの間違いで全部信じられなくなる。
橘は、そんなことはない、とすぐには言わなかった。
「準備をしたことと、当日の結果は、別々に残しておけばいいのかもしれませんね」
「部長も?」
「はい。私にも、必要だと思います」
二人で笑ったあと、汐乃は時計を見た。あと十分。
以前なら、短い時間で何が話せるのかと思っただろう。今日は三十分でも、報告しておきたいことが十分にあった。
「私、明日は相手を知るだけじゃなくて、自分のことも話してみます」
「仕事を続けたいことも?」
「はい。でも、いきなり確認事項にはしないように」
橘はうなずいた。
「望んでいることを話すのは、確認事項とは違うでしょう」
「そうですね」
汐乃はその言葉を持ち帰ることにした。
*
店を出る前に、橘がグラスの氷を見た。
「少し、冷えました」
「今日は暖かかったですけど、夜はまだ冷えますね」
「そうですね」
汐乃は明日の店の地図を確認しながら返した。
彼がコーヒーを頼むときはいつもホットだったことも、今日はメニューを見ていなかったことも、そのときは思い出さなかった。
時間になって席を立つとき、橘は引き留めなかった。短い約束を、そのまま終えられることにも、汐乃は少し安心した。
会計を済ませ、入口で別れる。
「明日、楽しんできてください」
「部長も。あ、本は読み終わってからですよ」
「わかっています」
汐乃は笑って、駅へ向かった。
帰宅後、食事に着ていく服は、服を選びに行った日に試着したものとは別の、手持ちの淡いベージュのブラウスに決めた。新しいものを着れば、うまく話せるわけではない。
鏡の前で一度笑ってみる。撮影のときほど肩に力は入らなかった。
明日、楽しんできてください。
その言葉のおかげで、試験を受けに行くような気持ちが少し薄れた。
汐乃は予定表を閉じ、読みかけの本を枕元へ置いた。今夜は条件表を開かずに眠れそうだった。




