第8話 減点方式をやめてみる
次の日曜日、汐乃は会場の受付へ並ぶ前に、スマートフォンのメモを閉じた。
結婚の条件を並べた表には、勤務地、転勤、家事、子どもについての考え方が入っている。大事な項目なのは変わらない。ただ、最初の五分で全部を埋める必要はない。
今日の目標は、カードに書いてあることから一つ、話を広げる。
それだけにした。
交流会は、港の見えるビルの一室で開かれた。窓の向こうに海が見え、停泊している船の白い屋根が光っている。
三人目の相手は、瀬戸健吾と名乗った。
建築関係の仕事をしている、三十四歳。趣味欄に「古い建物を見る」と書いてあった。
「見るだけですか」
「入れるなら、入ります。喫茶店だと、長居できるので」
「コーヒーが好きなんですか」
「もちろん。でも、床ばかり見てるときもあります」
汐乃は思わず彼の顔を見た。瀬戸は恥ずかしそうに笑った。
「店によって、板の減り方が違うのが面白くて。よく人が通るところだけ色が変わってたり」
「仕事の調査みたいですね」
「半分くらいは。休みなのに仕事の話になってしまいますね」
「私もあります。機械を見ると、あれを点検するとき大変だろうな、とか」
「何のお仕事ですか」
メーカーで営業企画をしていると話すと、瀬戸はうなずいた。
「売り方を考えるお仕事?」
「それもですけど、現場の人が使いやすい提案にする仕事、でしょうか」
いつもの説明より曖昧だった。けれど、瀬戸はわかったふりで流さなかった。
「実際に使う人の話を聞くんですか」
「はい。この前も、説明資料を誰に見せるかで揉めて」
「社内で?」
「……はい。上司と」
言いかけて、汐乃は橘の顔を思い出した。ここで上司の不満を話し続けたら、相手は困るだろう。
「それで、二通り作ることにしたんです。現場の担当者と、費用を判断する責任者で、説明の順番を変えて」
「それ、いいですね。建築でも、お施主さんと実際に使う人が別のことがあって」
瀬戸は、事務所を改装したときの話をした。見栄えを気にしていた責任者と、毎日資料を運ぶ社員では、机に求めるものが違ったという。
汐乃は質問を忘れて聞いた。
机の大きさを決めるのに、社員が実際に歩くところを見た。通りにくい理由が、図面ではわからなかった。そんな具体的な話が、楽しかった。
瀬戸は、設計の仕事を始めたころ、自分がいいと思う形を先に見せてしまっていたという。
「使う人が欲しいのは、そこじゃないと言われて。図面はきれいなのに、物が置けないとか」
「それ、資料でもあります。整ってるのに、見たい数字がない」
「見せる相手を、想像だけで決めてしまうんですね」
「はい」
汐乃はうなずいた。
ここで「だから私は現場へ行くようにした」と、自分の成果へ話を持っていきかけた。でも、彼の話の先を聞きたかった。
「今は、どうしてるんですか」
「最初に、困ってる場面を一つ教えてもらいます。全部を一度に聞くと、僕も整理できなくなるので」
「一つずつ、ですか」
「はい。それを見てから、ほかの話も」
汐乃はカードの角を撫でた。自分は、結婚後の暮らしを最初に全部聞いておこうとした。相手のことを何も知らないうちに、大きな答えを求めすぎていたのかもしれない。
「白石さんは、休日も仕事のことを考えますか」
「考えることはあります。でも、何も考えずに歩きたい日も」
「そういうときは、どこを?」
「海の近くか、店の多い道です。疲れたら、喫茶店へ入れるので」
「準備がいいですね」
「歩く距離より、お茶の時間が長くなることもあります」
瀬戸が笑った。汐乃も、つられずに、自分で笑っていた。
「それなら、無理なく一緒に歩けそうです」
その言い方を聞いて、汐乃は彼と歩く場面を初めて想像した。会う前に用意した条件とは別のところから、次の時間が浮かんできた。
移動のベルが鳴ったとき、汐乃は自分のカードを見て驚いた。勤務時間も転勤も聞いていない。
「ありがとうございました」
瀬戸が立ち上がった。
「こちらこそ。あの、さっきのお店、どのあたりですか」
「この近くの商店街です。名前、あとで書きましょうか」
「お願いします」
次の人が席に来る前に、瀬戸は店名を短くメモして渡してくれた。
汐乃はカードの余白へ貼るように、その紙を重ねた。
*
休憩時間、ほかの参加者と話しているときも、汐乃は少しずつ相手の言葉を待つようにした。
うまくいった会話ばかりではない。
好きな本を聞いて、読んだことのない作品が出てきた。普段なら有名な作品へ話題を戻すところで、「どういうところが好きなんですか」と聞いたら、相手は少し考え、自分でも説明しづらいと笑った。
二人で言葉を探した。
条件表に書き込める情報は少ない。でも、話す速度や、わからないと言える人かどうかは、前よりよく見えた。
最後の自由交流で、瀬戸が汐乃のところへ来た。
「さっき、途中になったので」
彼は一度窓へ目を向けた。
「このあたり、よく歩かれるんですか」
「時々です。決まった目的地はないんですけど」
「それ、いいですね。僕も、近道のつもりで一本入って、遠回りになることが多くて」
「わかります。気づいたら、知らない通りに出ています」
「ええ。駅へ戻るつもりが、港に出たりして」
汐乃は笑った。
歩くのが好きだと言って、初めて、同じ休日の景色を想像できた気がした。
「もしよかったら、今度、食事に行きませんか」
瀬戸は慌てず、汐乃の返事を待った。
「はい。行きたいです」
声が思ったより素直に出た。
連絡先を交換し、帰りのエレベーターで別れた。外へ出るころには、彼からメッセージが届いていた。今日話した店は食事もできることと、苦手な食材を教えてほしいという内容だった。
汐乃は立ち止まり、画面を読んだ。
日時を決める前に、相手が食べられるものを聞いてくれる。それは条件表のどこにもなかったが、嬉しかった。
返事を送ったあと、別の連絡先を開きかけた。
橘修悟。
今日の報告をしたい、と思ったところで、指を止める。いきなり相手の名前や仕事を伝える必要はない。協定で決めたことだ。
汐乃は「今日は、相手の話を最後まで聞けました」とだけ書いた。
返事は少しして届いた。
『それはよかったです。私も、質問を先にしました』
読書の交流会は昨日だったはずだ。
『解決策は?』
『求められませんでした』
『なら、出さなくて正解ですね』
『はい』
汐乃は小さく笑い、スマートフォンをしまった。
帰りに、汐乃は夕食の買い物をした。
いつもなら、会がうまくいかなかった日は、何か甘いものを買って帰った。今日は、甘いものを食べたいかどうかを考えてから、買わなかった。
代わりに、好きな野菜を選ぶ。
レジを待つあいだ、瀬戸が教えてくれた店の名前をもう一度見た。小さな紙一枚が、予定のない来週へつながっていた。
その夜、予定表に瀬戸との食事を入れた。翌週の土曜、午後六時。店の名前を書き、予約の確認も済ませる。
予定の文字を一度読み直す。自分から会いたいと言ったことが、少し照れくさく、嬉しかった。
条件表はまだ閉じたままだった。
寝る前、瀬戸から、店の予約が取れたと連絡が来た。添えられた「楽しみにしています」の一文を読んで、汐乃も同じ言葉を返した。
送ってから、少しだけ緊張した。




