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嫌いな上司と、婚活パーティーで会いました  作者: 雨宮 弦


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7/12

第7話 その服で行くんですか

「その服で行くんですか」


 土曜の午後、清水駅前の待ち合わせ場所で、汐乃は挨拶より先に言った。


 橘は自分の濃紺のシャツを見た。


「試着しやすいものを、と思って」


「いえ、今日じゃなくて。次の交流会も、その服の予定でした?」


「まずいですか」


「まずくはありません。ただ、土曜日の臨時会議みたいです」


 橘は通り沿いのガラスへ目を向けた。映った姿を確かめてから「会議はしません」と言う。


 そういうことではない。


 汐乃は笑いそうになるのを堪え、事前に調べておいた店へ向かった。


 店員に用途を聞かれ、橘は「休日に人と会う服を」と答えた。婚活とまで言わなかったことに、汐乃は少しほっとした。


「普段は、どんな色を着られますか」


「紺か、白か、グレーです」


「では、このあたりはいかがでしょう」


 店員が薄い緑のシャツを広げた。


 橘は一度眉を動かしたが、すぐには断らなかった。


「どう合わせるんですか」


「下を今の濃い色にすると、着やすいですよ。襟の形も違うので、お顔の印象が柔らかくなります」


 汐乃は少し離れ、二人の話を聞いていた。


 橘が店員の手元へ目を向ける。素材の説明になっても遮らず、わからなかった言葉を聞き直した。


 会社でも、その間をくれればいいのにと思う。けれど、今ここでできていることまで、わざわざ減点したくはなかった。


 色の候補をもう一枚出されると、橘は汐乃へ顔を向けた。


「どちらがいいと思いますか」


「着てから見たいです」


「印象だけでも」


「部長、私も、わからないことはあります」


 橘は一度口を閉じ、それからうなずいた。


「そうですね。両方、試してみます」


 店員に声をかけ、サイズを確かめている。その様子を見て、汐乃は自分がいつも、仕事では同じことを求められていると思った。


 見ていないものについて、先に答える。言い切ったことを、あとから直す。それが嫌で準備を重ねるが、知らないことまでなくすのは無理だ。


 橘が試着室へ入ると、店員が汐乃へ話しかけた。


「お好みは、お二人で近いですか」


「まだ、よくわからなくて」


「では、気に入ったところをお伝えするといいですよ。似合うかどうかだけでなくて」


 汐乃はうなずいた。


 役割や関係を聞かれなかったことに、少し助けられた気がした。


 カーテンの向こうで、ハンガーの触れる音がした。橘が「こちらは、少し肩が動かしにくいですね」と言い、店員が別のサイズを持ってくる。


 自分の着心地も、言っている。


 汐乃は店員へ、生成りの上着のほうが彼の顔色に合う気がすると伝えた。


「その理由なら、ご本人もわかりやすいですね」


 言われて、汐乃は少し照れた。


 店員が新しいサイズを渡すと、橘は礼を言った。汐乃は候補の服を戻し、着た本人の答えを待った。


 試着室のカーテンが開いた。


 薄い緑のシャツに、生成りの軽い上着。袖が長かったので、店員が折り方を教えている。


「いかがですか」


 橘に聞かれ、汐乃は返事を一拍遅らせた。


「……似合います」


「間がありましたね」


「いつもと違うので」


「悪いほうに?」


「いいほうです。わざわざ聞き直さなくても」


 店員が穏やかに笑った。


 橘は鏡へ向き直り、袖の折り目を直した。


「これなら、持っている服にも合わせられそうですね」


 会計を待つあいだ、汐乃は店先のブラウスを見ていた。


 明るい黄色。好きだと思ったが、自分には目立ちすぎる気もする。


「試さないんですか」


 後ろから橘に聞かれた。


「今日は部長の服を選ぶ日なので」


「私の買い物は終わりました」


「でも」


「待つのは構いません。着るかどうかは、君が決めれば」


 汐乃はもう一度ブラウスへ目を戻した。


 結局、試着だけした。買いはしなかったが、自分が考えていたほど不自然な色ではなかった。


     *


 店を出る前に、橘は古い服をどう処分するか、店員に尋ねた。すぐに全部入れ替えるつもりはなく、今の服と合わせられるものを残したいという。


 汐乃はその考えをいいと思った。婚活のために別人の格好を用意しても、毎日続けられなければ疲れる。


「買ったもの、ちゃんと着てくださいね」


「はい。君も、あの黄色を」


「私は、買ってません」


「そうでした」


 橘の小さな勘違いに、汐乃は笑った。


 約束の一時間を少し過ぎた。


「お礼に、コーヒーを」


「買い物の助言は、写真の分とお互いさまです」


「では、別会計でコーヒーを」


 言い方を変えただけの提案に、汐乃は笑ってうなずいた。


 つむぎまでは少し歩く。その日は通りの近くにある、別の喫茶店へ入った。


 窓際の席でメニューを開くと、橘がナポリタンを見つけた。


「お昼、まだだったんですか」


「軽くは食べました」


「軽く」


「パンを二個」


「それなら食べたうちに入ると思います」


「思ったより、軽かったので」


 汐乃も小腹が空いていたが、プリンを見つけたので話が変わった。ところが注文すると、店員が申し訳なさそうに首を下げた。


「プリン、本日は残り一つなんです」


 汐乃は橘を見た。


「部長は、ナポリタンですよね」


「ええ。プリンも、と思っていました」


「……そうでしたか」


 先にどうぞ、と言おうとした。自分のほうが頼み慣れているから譲るべきだ、という妙な理屈まで浮かんだ。


 橘が先に口を開いた。


「半分にしませんか」


「いいんですか」


「私も食べたいので。小皿を一枚いただけますか」


 店員は笑顔でうなずいた。


 汐乃はメニューを閉じた。全部譲ってもらうより、欲しいと言ってもらったほうが気が楽だった。


 先に来たナポリタンの匂いが、テーブルへ広がった。橘は紙エプロンを受け取り、少し困った顔で首の後ろへ手を回した。


「新しい服でなくてよかったですね」


「着て帰らなくて正解でした」


 汐乃は笑い、コーヒーの湯気を指で避けた。


 プリンが届くと、橘はスプーンを垂直に入れた。だが皿の上で半分に切ろうとすると、カラメルの上を滑った。


「部長、押さえます?」


「いえ。これくらい」


「崩れてます」


「見ればわかります」


 二度目でようやく分かれたプリンは、片方が少し大きかった。橘は大きいほうを小皿へ移し、汐乃の前へ置いた。


「均等じゃないです」


「玉ねぎの量を調整するほどの精度は求めません」


「プリンの話です」


「味は同じです」


 汐乃はそれ以上言わず、食べた。


 固さはちょうどよかった。口の中で卵とカラメルの味が重なる。向かいでは、橘が残りの半分へスプーンを入れている。


「おいしいですね」


「ええ」


 今まで、同じ席で同じものを食べたことはなかった。会社の弁当なら何度も見ているが、あれはそれぞれの昼食でしかない。


 汐乃は小皿に残ったカラメルをすくった。


 半分だと、少し足りない。


「何ですか」


 顔を上げると、橘がこちらを見ていた。


「何も」


「ずいぶん真剣に食べるんですね」


「半分しかないので」


 橘は笑って、自分の皿へ目を戻した。汐乃は、もうひと口を小さくすくった。


 もう少し食べたいと言えば、彼は自分の皿を差し出すだろうか。そう思って、やめた。それはずるい。


「次は、売り切れる前に来ます」


「二つあるといいですね」


「はい。一人一つ」


「了解しました」


 妙に律儀な返事だった。


 店を出ると、日が傾いていた。橘が紙袋を持ち直す。買った服の色が、薄い紙越しに少し透けていた。


「今日はありがとうございました」


「今度の会、うまくいくといいですね」


「君の予定も」


 汐乃はうなずいた。


 そうだ。この時間は、お互いが別の誰かとうまく話せるようになるためのものだ。


 駅へ向かう道で、そう確認しておいた。プリンが半分だったからか、帰り道は思ったより早く終わった。

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