第7話 その服で行くんですか
「その服で行くんですか」
土曜の午後、清水駅前の待ち合わせ場所で、汐乃は挨拶より先に言った。
橘は自分の濃紺のシャツを見た。
「試着しやすいものを、と思って」
「いえ、今日じゃなくて。次の交流会も、その服の予定でした?」
「まずいですか」
「まずくはありません。ただ、土曜日の臨時会議みたいです」
橘は通り沿いのガラスへ目を向けた。映った姿を確かめてから「会議はしません」と言う。
そういうことではない。
汐乃は笑いそうになるのを堪え、事前に調べておいた店へ向かった。
店員に用途を聞かれ、橘は「休日に人と会う服を」と答えた。婚活とまで言わなかったことに、汐乃は少しほっとした。
「普段は、どんな色を着られますか」
「紺か、白か、グレーです」
「では、このあたりはいかがでしょう」
店員が薄い緑のシャツを広げた。
橘は一度眉を動かしたが、すぐには断らなかった。
「どう合わせるんですか」
「下を今の濃い色にすると、着やすいですよ。襟の形も違うので、お顔の印象が柔らかくなります」
汐乃は少し離れ、二人の話を聞いていた。
橘が店員の手元へ目を向ける。素材の説明になっても遮らず、わからなかった言葉を聞き直した。
会社でも、その間をくれればいいのにと思う。けれど、今ここでできていることまで、わざわざ減点したくはなかった。
色の候補をもう一枚出されると、橘は汐乃へ顔を向けた。
「どちらがいいと思いますか」
「着てから見たいです」
「印象だけでも」
「部長、私も、わからないことはあります」
橘は一度口を閉じ、それからうなずいた。
「そうですね。両方、試してみます」
店員に声をかけ、サイズを確かめている。その様子を見て、汐乃は自分がいつも、仕事では同じことを求められていると思った。
見ていないものについて、先に答える。言い切ったことを、あとから直す。それが嫌で準備を重ねるが、知らないことまでなくすのは無理だ。
橘が試着室へ入ると、店員が汐乃へ話しかけた。
「お好みは、お二人で近いですか」
「まだ、よくわからなくて」
「では、気に入ったところをお伝えするといいですよ。似合うかどうかだけでなくて」
汐乃はうなずいた。
役割や関係を聞かれなかったことに、少し助けられた気がした。
カーテンの向こうで、ハンガーの触れる音がした。橘が「こちらは、少し肩が動かしにくいですね」と言い、店員が別のサイズを持ってくる。
自分の着心地も、言っている。
汐乃は店員へ、生成りの上着のほうが彼の顔色に合う気がすると伝えた。
「その理由なら、ご本人もわかりやすいですね」
言われて、汐乃は少し照れた。
店員が新しいサイズを渡すと、橘は礼を言った。汐乃は候補の服を戻し、着た本人の答えを待った。
試着室のカーテンが開いた。
薄い緑のシャツに、生成りの軽い上着。袖が長かったので、店員が折り方を教えている。
「いかがですか」
橘に聞かれ、汐乃は返事を一拍遅らせた。
「……似合います」
「間がありましたね」
「いつもと違うので」
「悪いほうに?」
「いいほうです。わざわざ聞き直さなくても」
店員が穏やかに笑った。
橘は鏡へ向き直り、袖の折り目を直した。
「これなら、持っている服にも合わせられそうですね」
会計を待つあいだ、汐乃は店先のブラウスを見ていた。
明るい黄色。好きだと思ったが、自分には目立ちすぎる気もする。
「試さないんですか」
後ろから橘に聞かれた。
「今日は部長の服を選ぶ日なので」
「私の買い物は終わりました」
「でも」
「待つのは構いません。着るかどうかは、君が決めれば」
汐乃はもう一度ブラウスへ目を戻した。
結局、試着だけした。買いはしなかったが、自分が考えていたほど不自然な色ではなかった。
*
店を出る前に、橘は古い服をどう処分するか、店員に尋ねた。すぐに全部入れ替えるつもりはなく、今の服と合わせられるものを残したいという。
汐乃はその考えをいいと思った。婚活のために別人の格好を用意しても、毎日続けられなければ疲れる。
「買ったもの、ちゃんと着てくださいね」
「はい。君も、あの黄色を」
「私は、買ってません」
「そうでした」
橘の小さな勘違いに、汐乃は笑った。
約束の一時間を少し過ぎた。
「お礼に、コーヒーを」
「買い物の助言は、写真の分とお互いさまです」
「では、別会計でコーヒーを」
言い方を変えただけの提案に、汐乃は笑ってうなずいた。
つむぎまでは少し歩く。その日は通りの近くにある、別の喫茶店へ入った。
窓際の席でメニューを開くと、橘がナポリタンを見つけた。
「お昼、まだだったんですか」
「軽くは食べました」
「軽く」
「パンを二個」
「それなら食べたうちに入ると思います」
「思ったより、軽かったので」
汐乃も小腹が空いていたが、プリンを見つけたので話が変わった。ところが注文すると、店員が申し訳なさそうに首を下げた。
「プリン、本日は残り一つなんです」
汐乃は橘を見た。
「部長は、ナポリタンですよね」
「ええ。プリンも、と思っていました」
「……そうでしたか」
先にどうぞ、と言おうとした。自分のほうが頼み慣れているから譲るべきだ、という妙な理屈まで浮かんだ。
橘が先に口を開いた。
「半分にしませんか」
「いいんですか」
「私も食べたいので。小皿を一枚いただけますか」
店員は笑顔でうなずいた。
汐乃はメニューを閉じた。全部譲ってもらうより、欲しいと言ってもらったほうが気が楽だった。
先に来たナポリタンの匂いが、テーブルへ広がった。橘は紙エプロンを受け取り、少し困った顔で首の後ろへ手を回した。
「新しい服でなくてよかったですね」
「着て帰らなくて正解でした」
汐乃は笑い、コーヒーの湯気を指で避けた。
プリンが届くと、橘はスプーンを垂直に入れた。だが皿の上で半分に切ろうとすると、カラメルの上を滑った。
「部長、押さえます?」
「いえ。これくらい」
「崩れてます」
「見ればわかります」
二度目でようやく分かれたプリンは、片方が少し大きかった。橘は大きいほうを小皿へ移し、汐乃の前へ置いた。
「均等じゃないです」
「玉ねぎの量を調整するほどの精度は求めません」
「プリンの話です」
「味は同じです」
汐乃はそれ以上言わず、食べた。
固さはちょうどよかった。口の中で卵とカラメルの味が重なる。向かいでは、橘が残りの半分へスプーンを入れている。
「おいしいですね」
「ええ」
今まで、同じ席で同じものを食べたことはなかった。会社の弁当なら何度も見ているが、あれはそれぞれの昼食でしかない。
汐乃は小皿に残ったカラメルをすくった。
半分だと、少し足りない。
「何ですか」
顔を上げると、橘がこちらを見ていた。
「何も」
「ずいぶん真剣に食べるんですね」
「半分しかないので」
橘は笑って、自分の皿へ目を戻した。汐乃は、もうひと口を小さくすくった。
もう少し食べたいと言えば、彼は自分の皿を差し出すだろうか。そう思って、やめた。それはずるい。
「次は、売り切れる前に来ます」
「二つあるといいですね」
「はい。一人一つ」
「了解しました」
妙に律儀な返事だった。
店を出ると、日が傾いていた。橘が紙袋を持ち直す。買った服の色が、薄い紙越しに少し透けていた。
「今日はありがとうございました」
「今度の会、うまくいくといいですね」
「君の予定も」
汐乃はうなずいた。
そうだ。この時間は、お互いが別の誰かとうまく話せるようになるためのものだ。
駅へ向かう道で、そう確認しておいた。プリンが半分だったからか、帰り道は思ったより早く終わった。




