第6話 プロフィール写真は嘘をつかない
スタジオの受付で、汐乃は小さな段差につまずきかけた。
隣で順番を待っていた女性が、椅子を少し引いて通り道を空けてくれた。
「大丈夫ですか」
「はい。すみません」
「こちら、床の色が似ていますよね」
落ち着いた声だった。短い髪を耳へかけ、その女性は受付の係員に呼ばれて立ち上がった。
「佐伯芙美様、こちらへどうぞ」
汐乃は会釈して見送った。自分の名前も、さっき受付で呼ばれている。こういう場所では、思っているより簡単に、誰かに顔を覚えられるのかもしれなかった。
スマートフォンへ、橘から「予定どおり到着します」と届いた。汐乃は「先に撮影しています」と返した。
助言するだけの立場ではない。自分の写真も、あとで彼に見られる。そう思うと、鏡を確認する回数が増えた。
受付の鏡で前髪を直し、直しすぎたのでまた戻す。
係員に呼ばれたとき、ようやく鏡から離れられて、ほっとした。
カメラマンに「肩の力を抜いて」と言われるのは、これで四回目だった。
汐乃は肩を下げた。口角を上げる。顎は少し引く。
「はい、そのまま。自然な感じで」
自然な感じを指示どおりに作ることの難しさを、誰か説明してほしい。
婚活サービスが借りた小さな撮影スタジオには、白い背景と木製の椅子が置かれていた。窓に見えるものは照明を当てた板で、本当の窓は廊下側に一つだけだった。
きれいに写るための工夫は、十分にある。
それなのに汐乃は、証明写真を大きく撮られているような気分だった。
「最近、楽しかったことはありますか」
カメラマンに聞かれ、汐乃は考えた。
企画書が訪問先で好評だった。喫茶店のプリンがおいしかった。上司と結んだ協定が、予想以上に細かくなった。
最後の一つは、説明すると長い。
「プリンを食べました」
「いいですね。どんなプリンでした?」
「固いやつです。すごく」
カメラマンが小さく笑ったので、汐乃もつられて笑った。
そのときシャッターが鳴った。
*
撮影を終え、選定用の画面を見ていると、隣のブースから橘が出てきた。
淡い青のシャツを着ている。グレーのジャケットもない。会社で見るより少し若く見えたが、本人の姿勢は会議前と変わらない。
「終わりましたか」
「はい。そちらは」
「笑ってと言われました」
「笑ったんですか」
「そのつもりです」
汐乃は彼の画面を見せてもらった。
確かに、口の端が上がっている。だが目が、難しい決裁書を読んでいる。
「部長、これだと、何かを承認していただくみたいです」
「何を」
「交際を」
「目的には合っていますね」
「雰囲気の問題です」
橘は隣の椅子へ座り、自分の写真を見た。
「君の写真も、見せてください」
汐乃は頬の角度がよく見える一枚を開いた。髪の流れが整い、背筋も伸びている。
「これなら、ちゃんとして見えますよね」
「ちゃんとは、しています」
返事の間が気に入らなかった。
「ほかに何か」
「どの写真も、面接の受け答えを待っているようです」
汐乃は画面を自分へ戻した。
確かに、話しかけられたら「御社の志望理由は」と言いそうな姿勢だった。
「初めて会う人が見るんですよ。だらしなく見えたら」
「だらしなく写っているものは、ないでしょう」
橘が画面の端を指した。
「これは?」
最後から三枚目。プリンの説明をしていたときの写真だった。
口を開けて笑っている。目が少し細くなり、肩も左右で高さが違う。
「これ、笑いすぎです」
「これくらい笑うでしょう。君は」
「会社では笑ってないと思いますけど」
「小野寺くんが、図の矢印を全部逆にしていたとき」
「笑い事じゃなかったんです」
「笑っていましたよ。直すのを手伝いながら」
覚えていなかった。
小野寺が慌てて「全部、逆方向に進んでますね」と言い、汐乃も笑った。あれを部長に見られていたのか。
汐乃は写真を拡大した。完璧ではないが、自分の顔だとすぐわかる。
「私は、こっちのほうが話しやすそうだと思います」
橘が言った。
汐乃はしばらく黙ってから、カメラマンを呼んだ。
「この写真にします」
写真の掲載先と、画像をほかへ使わないことも確認した。カメラマンが一つずつ説明してくれて、汐乃はようやく、誰に何を見せるのかを自分で選べた気がした。
橘はまだ自分の写真を選んでいた。
「そちらも、笑った写真にしてください」
「いま見せたもの以外は、ほとんど変わりません」
「撮り直せませんか」
カメラマンに相談すると、次の予約までの五分なら、と言ってもらえた。橘は礼を言い、もう一度椅子へ座る。
汐乃は少し離れて待った。
「では、好きな食べ物を教えてください」
カメラマンが聞いた。
「ナポリタンです」
「喫茶店の?」
「はい。鉄板でなくてもいいんですが、玉ねぎが少し焦げていると」
汐乃は思わず顔を上げた。
あの端正な文字で修正指示を書く人が、ナポリタンの玉ねぎにこだわっている。
橘がこちらを見た。
「何か」
「いえ。卵とか、トリュフとか、お好きなのかと」
「なぜですか」
「印象です」
「私の食費を、勝手に高くしないでください」
汐乃が吹き出すと、橘の表情も緩んだ。
シャッターが鳴った。
撮り直した一枚には、さっきより目元の柔らかい橘がいた。
汐乃はその写真を指した。
「これなら、話しかけられそうです」
「先ほどの写真は、話しかけられませんでしたか」
「用件を先にまとめないと」
「それは……改善します」
冗談のつもりだったのに、少し真面目な返事が戻った。汐乃は言葉を探し、やがて「写真は、よくなりました」とだけ伝えた。
*
スタジオを出ると、日差しが強かった。
汐乃は送られてきた画像をスマートフォンで確認した。自分の笑顔を大きな画面で見るのは、まだ慣れない。
橘が歩道の端に立ち、汐乃が操作を終えるのを待っている。
「写真が必要なのは、別のサービスですか」
「いえ、プロフィールの任意欄に使おうと思って。会う前に少しでもわかってもらえたら」
「そうですか」
橘はそれ以上聞かなかった。
誰と会う予定か、どの会へ行くのか。答える用意はあったが、聞かれないと、自分で話すかどうかを選べた。
「部長は、次の予定あります?」
「来週、読書をテーマにした交流会へ」
「それなら、本の話ができますね」
「解決しなくていい話題ですから」
「感想を訂正しないでくださいね」
「気をつけます」
汐乃は笑った。
先週なら、あの人の写真を選ぶために休日を使うなど考えもしなかった。今日も楽しい用事とまでは言い切れないが、無駄だったとは思わない。
交差点で分かれる前に、橘が自分のシャツの袖を見た。
「写真以外も、変えたほうがいいでしょうか」
「何をですか」
「服です。いつも同じだと言われたことがあって」
汐乃は彼の全身を見た。整ってはいる。だが、少し色を変えた会社帰りと言われれば、そのとおりだった。
「意見を聞きたいなら、ちゃんと選びますけど」
「お願いできますか。店員さんの説明を、一人で聞くと途中でわからなくなるので」
「わからなくなるんですか」
「素材の名前が増えたあたりで」
汐乃はそれを聞いて、初めて、部長にも説明についていけない場があるのだと知った。
「じゃあ、次の休み、一時間だけ」
橘がうなずいた。
帰りの電車で、汐乃は自分の写真をもう一度開いた。
人の笑顔を選ぶより、自分の笑顔を信じるほうが少し難しい。けれど、あの上司が言った「これくらい笑うでしょう」は、思ったよりも長く耳に残っていた。




