第5話 婚活協定、成立
月曜日の朝、橘は点検サービスの進捗表を配りながら言った。
「金曜の訪問結果を踏まえて、今日は反省――」
汐乃は反射的に顔を上げた。
橘も、汐乃を見た。
「振り返りをします」
小野寺が、不思議そうに二人を見比べた。
「反省会でも、いいんじゃないですか」
「同じことです」
橘は平然と紙をそろえた。汐乃も何でもない顔で手帳を開いた。
変な言い直しのほうが目立つ。あとでそう伝えようとして、あとで話す手段がないことに気づいた。
仕事用の連絡ツールに「婚活」と打ち込むわけにはいかない。私用の連絡先を聞くために部長席へ行くのも、どうかと思う。
汐乃は議事録に「次回の確認方法」と書いた。議事録には不要な項目だったので、すぐ消した。
午後、給湯室で橘と鉢合わせた。
「朝の言い直し、不自然でした」
「君の反応も、かなり」
「先にそちらが」
そこで二人とも黙った。
廊下から小野寺の足音が近づいていた。
「コーヒー、追加しておきました」
彼は棚の瓶を示し、二人に会釈して出ていった。
汐乃はスプーンを握ったまま、橘へ視線を戻した。
「決めておきませんか。何を話していいか」
「会社以外で、ですね」
「はい」
橘はうなずいた。そのあと少しためらい、「連絡先を交換してもいいですか」と聞いた。
断る理由はなかった。土曜日に交換し損ねたものを、汐乃はようやくスマートフォンの画面に表示した。
登録名は、橘修悟。
汐乃は「部長」と足しそうになり、やめた。
*
水曜日の終業後、二人は喫茶つむぎの窓側の席にいた。
「今日はプリンは?」
店の女性に聞かれ、汐乃は思わず笑った。
「覚えてくださってたんですね」
「おいしそうに食べてくれたから」
橘は何も言わず、メニューを閉じた。汐乃はプリンとコーヒーを頼み、鞄から小さなノートを出した。
「本当に書くんですか」
「言った、言わないになるのが嫌なので」
「わかります」
「そこは即答なんですね」
ノートの上に「婚活協定」と書いてから、汐乃はペンを止めた。かなり大げさだ。横線で消そうとすると、橘が「わかりやすいです」と言った。
「第一条。職場では、相手の婚活について話さない」
「会社の人と私的に会うときも、含めましょう」
「そうですね」
同期会で話してしまっては意味がない。汐乃は書き足した。
「第二条。相手の同意なく、婚活相手の個人情報を共有しない」
「今日会った人の名前や勤め先を、当然のように話す必要はありませんね」
「写真を勝手に見せるのも」
「はい」
どちらも、自分がされたら困ることだった。
「第三条は、婚活相手を尊重する」
汐乃は書いてから、橘を見た。
「反省会だからといって、相手の悪口を言う場にしない、ということです」
「反省するのは、自分の行動ですね」
「部長の行動も指摘しますけど」
「私もです」
「そこは譲らないんですね」
プリンが運ばれてきた。汐乃はノートを脇へ寄せ、皿のための場所を空けた。
橘が少し声を低くした。
「最後に、断ってもいいことを、明記してください」
「アドバイスを?」
「この集まり自体を。君の上司が誘うのですから」
汐乃のペン先が止まった。
確かに、会社で部長から時間をくれと言われれば、予定をずらすこともある。今はそうでなくても、いつか負担になるかもしれない。
「反省会は、都合が合うときだけ。理由を言わずに断ってもいい」
「お願いします」
「返事を急かさない。仕事の用事を、私用の連絡先へ混ぜない」
「それも」
橘はうなずき、書かれた四項目を読んだ。
「私への助言も、無理のない範囲で」
「恋人のふりをして、とか言われても困ります」
「言いません」
「念のためです」
「私も、言われたら困ります」
「言いません」
同じやり取りをしてから、汐乃はプリンをもうひと口食べた。
プリンは、いつの間にか半分ほど減っていた。
「じゃあ、聞きたいことがあるんですが」
橘がスマートフォンを出した。
「プロフィールの写真、どちらがいいと思いますか」
見せられた二枚を、汐乃は順に確認した。
一枚目は無表情。二枚目も無表情だが、角度が少し違う。
「人事異動のお知らせに使うなら、どちらでも」
「婚活です」
「わかってるから困ってるんです」
橘は画面を自分に向け直した。真面目に見比べる顔が、画面の中の本人とよく似ていた。
見せられた画像は、橘本人のものだった。ほかの参加者の写真なら、勝手に見ていいとは思わない。
さっき書いたばかりの条項を、自分でも守ろうと思った。
「私も週末、撮り直しに行く予定です。婚活サービスの写真会に」
「予約できますか」
「空きはあるみたいですけど」
「では、別々に申し込んで、あとで選ぶのを手伝ってもらえませんか」
汐乃は日時を確認した。自分の撮影のあとなら、待ち時間も無駄にならない。
頼まれたからではなく、その時間なら付き合えると思って、汐乃は返事をした。
「一時間くらいなら」
「助かります」
手短な礼を聞き、汐乃は協定のページを撮影して送った。
橘から、すぐに「確認しました」と返ってきた。
あまりにも業務連絡らしくて、プリンを飲み込むのに時間がかかった。
ノートをしまう前に、汐乃はもう一度、最後の条項を指した。
「服選びでも何でも、頼まれたからといって、全部引き受けるわけではありません」
「もちろんです」
「私は、男の人の服に詳しいわけでもないので」
「詳しい人に代わってもらう、というのも助言ですね」
「店員さんです」
「はい」
橘が真顔で答えたので、汐乃は少し笑った。
「部長も、私の相談に答えがなかったら、そう言ってください」
「わかりました。自分で調べたほうが早いときも」
「それは、言い方を考えてください」
「言ってもらえて助かります」
協定の写真を二人のスマートフォンに保存した。汐乃は紙のノートを持ち帰り、橘は自分の画面を確認してから閉じた。
*
翌日の昼休み、彩乃が汐乃のトレーを見て首を傾げた。
「今日、デザートなし?」
「昨日食べた」
「どこで?」
「会社の外で」
「範囲、広いね」
汐乃はお茶を飲んだ。嘘はついていないが、何かを隠していることは伝わっている気がした。
彩乃は追及せず、自分の担当する新しい社内研修の話をした。週二回、開始前の準備で早く出社する必要があるらしい。
「引き受けたいけど、今の生活のままだと、ちょっときつくて」
「ほかの業務を減らしてもらえないの?」
「それを相談しようと思ってる。全部できますって言ったあとで苦しくなるの、もうやめたい」
汐乃はうなずいた。仕事を引き受けるとき、自分も断り方をあまり考えていない。
「いいと思う」
「汐乃もね」
急に向けられた言葉に、汐乃は顔を上げた。
「何が?」
「なんでも。一人で全部考えて、機嫌悪くならないで」
彩乃は笑い、最後の卵焼きを口へ運んだ。
汐乃は、スマートフォンに届いた写真会の予約報告を見ないまま、鞄を椅子の下へしまった。
部長がちゃんと予約できたか、気になっていた自分に気づく。
協定は、まだ一日目だった。




