第4話 あなた、人の話を聞いていません
「部長、相手の話を聞いているようで、全然聞いていません」
言ってから、もう少し柔らかく始めればよかったと汐乃は思った。
橘はコーヒーカップを受け皿へ戻した。
「聞いています」
「途中までは。でも、最後まで聞く前に対策を考えています」
「困っていると言われたら、対策を考えませんか」
「困ったね、と言ってほしいときもあります」
橘は窓を見た。向かいの店の庇から、雨水が細い滝になって落ちている。
「それで解決しますか」
「解決することを、頼まれましたか」
彼の視線が戻った。
汐乃はテーブルの上で指をそろえた。会議ではない。勝ち負けを決める必要もない。なのに、言い返されると思うと先に言葉を並べたくなる。
「前の会でも、女性が職場の話をしていたとき、部長は分担表を作れとおっしゃってました」
「聞いていたんですか」
「コーヒーを取りに行ったら聞こえました。途中からですけど」
「では、その前はわかりませんね」
「……はい」
そこは認めるしかなかった。
橘はカップの縁を見つめた。
「相手が助言を求めていたと思ったんですが」
「確かめてからでも、遅くなかったと思います」
汐乃の言葉に、橘はすぐには答えなかった。
店の女性が水を注ぎ足していく。汐乃は礼を言い、グラスを手元へ寄せた。水滴でできた丸い跡を、紙ナプキンで拭いた。
「白石さんも、相手の話を聞いているようには見えませんでした」
今度は汐乃の手が止まった。
「私ですか」
「ええ。相手が映画の話をしていたのに、勤務地を聞いていましたね」
「それは、結婚を考える場なので」
「必要な質問でしょう。ただ、答えを聞くたびに次の項目を探しているように見えました」
汐乃はグラスから手を離した。
映画の男性が、カードの角を押さえたことを思い出した。
「君こそ、相手を最初から採点しているだろう」
急に敬語が外れた言い方に、頬が熱くなった。
「してません」
「本当に?」
「条件が合わなければ、お互いに困るじゃないですか」
「条件を聞くことと、その人を知ることは、同じではないでしょう」
「部長に言われたくありません」
声が少し大きくなった。隣の席から視線を感じ、汐乃は背を丸めた。
嫌いな上司と喫茶店で言い合っている。せっかくのプリンも食べ終えてしまった。どこをどうすれば、この土曜日を取り戻せるのだろう。
橘が視線を伏せた。
「言い方がきつかったですね」
「……私も、全然聞いていない、は言いすぎました」
謝ると、まだ残っていた怒りが、手の置き場所を失ったように落ち着かなくなった。
橘は背もたれに体を預けた。
「私も、条件のことばかり聞いたのは、理由があるんです」
汐乃は言ってから、説明して何になるのだろうと思った。以前の相手を悪く言うために話したくはなかった。
橘は先を促さず、待った。
「前に付き合っていた人と、働き方の話ができませんでした。相手が話してくれなかったというだけではなくて、私も、聞くのを避けていました」
「答えを聞くのが、怖かった?」
「はい。いい関係だと思っていたので、変わるのが嫌で」
汐乃は指先で、スプーンについた水滴を拭いた。
将来のことを考えていると言われて、安心していた。どこで暮らすか、仕事はどうするか。具体的なことを聞かずに、同じ未来を考えていると思い込んだ。
「だから今度は、最初から聞いておこうと思ったんです」
「それは、必要なことでしょう」
「でも、聞いてばかりいました」
橘はうなずいた。
「相手の人を知りたいというより、違う答えが出ないか確かめていたのかもしれません」
言ってしまうと、胸の中が少し痛んだ。自分を守るために用意した表が、相手を遠ざけるものにもなっていた。
橘はしばらく黙ってから、言った。
「私の言い方では、そこまで考えていたことを、全部否定されたように聞こえますね」
「少し」
「それは、すみません」
汐乃は首を振りかけ、やめた。嫌だったことを、なかったことにしなくてもいい。
「ありがとうございます。でも、指摘されたことは、考えます」
橘は小さくうなずき、それから自分のカップへ目を落とした。
「聞いていないと言われたことは、あります」
「仕事で?」
「私生活で」
汐乃は聞き返さず、待った。
橘が自分から話し直すかどうかを、初めて意識した。
「以前、付き合っていた人に。疲れたと言われると、仕事を減らす方法を考えていました。今日はよく頑張ったね、と言ってほしかったらしいです」
「らしい、ですか」
「そのときは、よくわからなかったので」
彼は水を飲んだ。
「一緒に考えることが、役に立つことだと思っていました」
汐乃にも、その気持ちはわかった。相手が困っていたら、何かできることを探す。それを間違いだと言い切ることはできない。
ただ、探している間に相手の声が届かなくなるのなら、困る。
「先に聞けばいいんじゃないですか。考えてほしいか、聞いてほしいか」
「毎回?」
「毎回じゃなくても。わからないときだけ」
「なるほど」
橘はポケットから小さな手帳を出しかけ、途中でやめた。
「メモしようとしました?」
「いけませんか」
「いえ。研修みたいだと思って」
「講師がプリンを食べていましたが」
「受講料です」
「自分で払っていますね」
汐乃は不意に笑ってしまった。
橘の口元もわずかに動いた。笑ったかどうかは、そのくらいでは判断できなかった。
汐乃はテーブルの上へ視線を戻した。
「私も、条件を聞く前に、相手の話を最後まで聞きます」
「聞かなくていいということではありませんよ」
「わかってます」
「……今のも、先回りですね」
橘が自分で言ったので、汐乃は今度は少しゆっくり笑った。
汐乃は最後に、使ったスプーンを皿へ戻した。
「この話、会社へは持っていかないでくださいね」
「評価には、関係ありません」
「はい。聞けて、安心しました」
橘はその返事を、軽く流さなかった。
「立場の違いは、ここへ来てもなくなりませんからね」
汐乃はうなずいた。仕事と私生活を分けたいと思うことと、分けられる仕組みがあることは違う。今はまだ、その難しさを、自分の言葉にはできなかった。
雨脚が弱まっていた。窓ガラスについた水滴の向こうで、道行く人の傘が閉じられ始めている。
橘は伝票へ手を伸ばし、汐乃を見る。
「別々で、いいですか」
「はい」
勝手にまとめて払われるより、そのほうがありがたかった。
会計を済ませて外へ出ると、濡れた歩道に店の灯りが映っていた。
「次は、質問してから意見を言います」
橘が言った。
「私は、カードに書いてない話も聞きます」
それでも、二週間前の帰り道とは少し違った。
「今日の反省会は、それで終わりですね」
「反省会だったんですか」
「ほかに呼び方があります?」
「いえ。非常に適切です」
駅へ向かう途中、汐乃は信号待ちで自分のスマートフォンを見た。仕事用とは別に、私用の連絡先を交換しておいたほうがいいだろうか。
言う前に、橘が足を止めた。
「今日、教わった店の名前を送ってもらえますか。コーヒーが好きなので」
「つむぎ、です」
「覚えました」
「……私も覚えました」
結局、連絡先は交換しなかった。
橘が改札を通ったあと、汐乃はまだ小さく光る店の看板を振り返った。次にプリンを食べるときは、落ち着いて味わいたい。
あの上司と反省会をする予定など、もちろんない。
そう思ったのに、今日より静かな食卓は少し物足りないような気もした。




