第3話 また会いましたね、部長
二週間後の土曜日、汐乃は会場の扉を開けたところで引き返しかけた。
入口に最も近い席に、橘がいた。
今回は八人だけの交流会だ。逃げ場が少ないという意味でも、前回より規模が小さかった。
橘も汐乃を見た。手元のペンを置き、ほんの少しだけ天井へ目を向けた。
見上げても、原因を書いた紙は貼っていない。
「お席へどうぞ」
受付の男性に促され、汐乃は橘から最も遠い椅子へ向かった。
「あ、そちらはお荷物のお席です」
鞄を置くために用意された椅子だった。汐乃は会釈して、指定された中央のテーブルに座った。
橘は何も言わなかった。
それが余計に腹立たしい。笑われたほうが言い返せる。
この二週間、会社では何も変わらなかった。
資料は修正した。現場向けと責任者向けで説明順を分け、訪問先の担当者からは、社内で相談しやすいと言ってもらえた。橘は報告を読んで「次もこの形式で」と言った。
婚活の話は、一度も出なかった。
だから今日の再会にも、対応の準備がない。
最初は四人ずつの雑談だった。汐乃と橘は別のテーブルになったが、休憩前の席替えで同じ組に入った。
「先ほども目が合ってましたけど、お知り合いですか」
向かいの男性に聞かれ、汐乃は笑顔を作った。
「前に、別の会で」
「そうなんですね。じゃあ、少し安心しますね」
「ええ」
返事に力を入れすぎた。
隣の女性が「緊張しますもんね」とうなずいた。汐乃も同意した。緊張の種類だけは、説明できなかった。
「皆さん、お休みは何をされていますか」
司会の問いに、汐乃は散歩と答えた。橘は読書。そのあと、隣の女性が最近パン作りを始めたと話した。
「でも、発酵に失敗して。すごく固くなったんです」
「温度管理は――」
橘が言いかけた。
汐乃は思わず彼を見た。橘はその視線を受け、一拍置いた。
「……難しそうですね」
「そうなんです。家族には、武器みたいだって言われました」
女性が笑い、テーブルの空気がほぐれた。
汐乃はカップへ口をつけた。いま彼が何を飲み込んだか、わかった気がした。
次に旅行の話題になると、汐乃は仕事の都合で長く休めないと言った。
「お仕事がお好きなんですね」
男性に聞かれ、「好きです」と答える前に、残業の量を説明しそうになった。
好きかどうかを聞かれている。
「はい。自分の考えたものが、お客様に伝わると嬉しいので」
橘がカップを置く音がした。
汐乃は彼を見なかった。会社で言ったことのない言葉を、隣で聞かれたのが落ち着かなかった。
料理の話に戻ると、男性の一人が、休日はまとめて作り置きをすると言った。
「平日は帰ると何もしたくないので」
「保存容器、増えませんか」
橘が聞いた。
汐乃は反射的に彼を見た。冷蔵庫の整理方法を勧めるのかと思ったが、彼は「私も、蓋だけ残ります」と続けた。
男性が笑い、パン作りの女性も、うちは容器が余ると言った。
「交換できたらいいですね」
「合うかどうかが問題ですね」
短いやり取りで、テーブルの人たちが同じ話題へ入った。
汐乃は自分も何か言おうとして、手元のカードを伏せた。好きな料理を聞くより先に、自分の話をしてもいい。
「私は、作り置きしたのに、その日に別のものが食べたくなります」
「あ、わかります」
隣の男性がうなずいた。
「カレーを作ったのに、帰りにカレーを食べてしまったことがあります」
「それは、しばらくカレーですね」
汐乃も笑った。
会の終わりに連絡先の交換時間が設けられた。汐乃はパン作りの女性とおすすめの喫茶店を教え合ったが、男性と次の約束はできなかった。
橘も一人で会場を出た。
汐乃は少し間を空けて外へ出る。二週間前と同じ並びで駅へ向かうのは避けたい。
その配慮は、角を一つ曲がったところで無駄になった。
大粒の雨が、歩道に黒い点を作り始めた。
*
「折り畳み傘は」
商店の軒先で、橘に聞かれた。
「あります。会社に」
「それは、今はないということですね」
「部長は」
「自宅です」
汐乃は雨を見た。すぐに止みそうにはなかった。
斜め向かいに、古い喫茶店の看板が出ている。木製の扉には、白い文字で「喫茶つむぎ」とあった。入口の小さな屋根の下に、二人なら立てそうだった。
「あそこに入ります。私は」
汐乃が言うと、橘は自分の靴先を見た。
「私も、コーヒーを飲みます」
別々の目的が偶然一致した、という言い方だった。
道路を渡るだけで、肩が濡れた。扉を押すと、カウンターの向こうから年配の女性がタオルを差し出してくれた。
「急に降りましたね。窓側、空いていますよ」
汐乃は四人掛けの席に座った。橘は一度ほかの席へ視線をやり、混み合っている店内を確かめてから向かいに座る。
「相席ですね」
「そうですね」
わざわざ言い合う必要のない確認だった。
店内には豆を挽く音と、低いラジオの声が流れていた。窓の外で、傘を開いた人が肩を寄せて歩いていく。
汐乃はメニューの端にあるプリンの写真を見つけた。
金属の型を逆さにした、角の丸い台形。上には、ほろ苦そうなカラメルが光っている。
「コーヒーとプリンを」
「コーヒーをお願いします」
橘の注文を聞きながら、汐乃はバッグからハンカチを出した。湿った髪の先を押さえると、急に疲れが出てきた。
「二回続けて会うとは思いませんでした」
「私もです」
「静岡市内に、ほかの会場もありますよね」
「同じことを考えて選んだ結果でしょう」
「少人数なら話せると思いました」
「私もです」
汐乃は口を閉じた。
コーヒーが運ばれてきた。橘は店の女性へ礼を言い、カップの取っ手を右へ向けた。会社でも資料を机の端にそろえる人だ。ここでは、ただ几帳面な客に見える。
店の女性は、濡れた上着を置くための籠も持ってきてくれた。汐乃は礼を言い、橘と重ならないように自分の上着を端へ置いた。まだ、同じ席にいることが少し不思議だった。
「今日の会、どうでしたか」
汐乃が聞くと、橘は少し考えた。
「前回よりは、相手の話を聞けたと思います」
「パンの温度管理を言わなかったからですか」
橘の手が止まった。
「聞こえていましたか」
「同じテーブルでした」
「そうでしたね」
やがて運ばれてきたプリンは、写真より少し小さかった。スプーンを入れると、期待した抵抗があった。
汐乃はひと口食べ、それから言った。
「いま、聞いてもいいですか」
「何を」
「部長は、どうして結婚したいんですか」
橘はすぐに答えなかった。雨の音が、窓の外で強くなる。
「母に言われたからだけではありません。帰ったときに、誰かがいる暮らしもいいと思ったので」
思っていたより、短くて普通の答えだった。
汐乃はプリンに視線を落とした。
「白石さんは」
「一人でも暮らせます。でも、一人で暮らせることと、誰かと暮らしたくないことは、違うので」
口にすると、何を探して会場へ来たのかが少しわかった。
橘はうなずいた。珍しく、その答えに意見を足さなかった。
汐乃は雨を見ながら、もう一つの言葉を迷った。
会社で言えば反論になる。今なら、婚活の感想として聞いてもらえるかもしれない。自分だってうまくいかなかったのに、というためらいもある。
「何か、言いたそうですね」
橘に指摘され、汐乃はスプーンを置いた。
「言ったら、怒りますか」
「内容によります」
「そういうところです」
橘が眉を動かした。
汐乃は冷め始めたコーヒーをひと口飲んだ。雨はまだ、止みそうになかった。




