↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/10

第2話 職場では言わないでください

「少し」


 橘が答えたのと同時に、汐乃は「仕事で」と言った。


 少しどころではない。平日はほぼ毎日、資料の修正箇所を交換している。


「そうなんですね。では、普段とは違うお話を楽しんでください」


 進行役が離れると、テーブルに残された二枚のカードが急に大きく見えた。橘の趣味欄には「読書、料理」。汐乃は二つ目を読んで、思わず顔を上げた。


「何ですか」


「いえ。料理をされるんですね」


「食べないと生きていけないので」


「それはそうですけど」


 楽しい会話まで、何段階あるのだろう。


 隣の席から、旅行先の食べ物について弾む声が聞こえた。こちらは生存に必要な栄養の話である。


 橘が身をかがめ、声を落とした。


「今日のことは、会社では」


「言わないでください。お願いします」


 言い終えてから、頼み方が切実すぎたと思った。橘は一度目を伏せ、うなずいた。


「わかりました。私のことも」


「もちろんです」


 汐乃は呼吸を整えた。片方だけが秘密を握っているわけではない。その事実で、ようやく少し落ち着いた。


「部長も、こういう会に参加されるんですね」


「参加してはいけませんか」


「そういう意味ではありません」


「母に、休日まで会社へ行くなと言われまして」


「休日も行ってるんですか」


「行かない日もあります」


「そちらが例外みたいな言い方です」


 橘はカップへ手を伸ばし、飲み物が入っていないことに気づいて戻した。汐乃は見なかったふりをした。


「白石さんは」


「自分で申し込みました」


「それは、私もです。母が代理で申し込んだわけでは」


「そこまで聞いてません」


 橘の眉間に見慣れた皺が寄った。汐乃も思わず姿勢を正す。その瞬間、会場に軽いベルの音が響いた。


「男性の皆さま、お席のご移動をお願いします」


 もう五分だ。


 二人はカードを交換し直した。汐乃の「休日の過ごし方」の欄を、橘が一瞬見た。


「読書をされるんですね」


「時々」


「どういう――」


 後ろに次の参加者が立っていた。橘は言いかけた口を閉じ、席を離れた。


 残された汐乃は、自分のカードを持ち直した。


 いま本の話をされても困る。だが、もっと早くそれを聞いてくれればよかったのに、とも思った。


     *


 三人目の男性は、物流会社に勤めていると話した。カードの趣味欄には映画鑑賞とあったが、汐乃は先に勤務欄を見てしまった。


「転勤は多いんですか」


「今のところは静岡県内です」


「将来は、ほかの地域も?」


「可能性はあります。白石さんは、転勤は難しいですか」


 汐乃は一瞬迷った。


「仕事を続けたいので」


「なるほど。僕もできれば続けてほしいと思っています」


「家事は普段、ご自分で?」


 男性の指が、カードの角で止まった。


「ええ、一人暮らしなので。それより、映画はご覧になりますか」


「たまに。残業は多いんでしょうか」


 聞いたあとで、話題を戻してしまったことに気づいた。


 相手は笑って、月末は忙しいと答えた。そのあと汐乃にも勤務時間を尋ねてくれたが、五分の終わりまで、互いの休日の話は出なかった。


 次の男性とは散歩の話になった。


「目的がないと、なかなか歩けなくて」と言われて、汐乃は反射的に「健康のためにも歩いたほうが」と返しそうになった。飲み込んだせいで返事が遅れ、男性は別の話題を探し始めた。


 難しい。


 聞くことを用意してくるだけでは、会話にはならないらしい。


 休憩時間、汐乃は飲み物の台へ立った。コーヒーを注いでいると、衝立の向こうから橘の声が届いた。


「職場の方との分担を、一度表にされてはどうでしょう」


 隣の区画で、まだ会話を続けているようだった。


「そうですね。でも、なかなか言いづらくて」


「担当が曖昧なままだと、同じことが続きます」


「はい……」


「上司の方に相談する際も、業務量を数字にすると」


 汐乃はミルクの容器を握ったまま止まった。


 ここでもか。


 相手の女性は、帰りの電車で甘いものを食べると少し元気になる、と話し始めた。橘はそこでようやく黙った。


 盗み聞きをするつもりではなかった。汐乃はコーヒーを持って席へ戻ったが、相手の女性がどんな顔をしていたかは見えなかった。


 少なくとも、会話の終わりが自然に軽くなったようには聞こえなかった。


     *


 最終カードを書く前に、もう一度自由に話す時間があった。


 汐乃は映画の男性に、自分が聞いてばかりだったことを謝ろうとした。けれど彼は、別の女性と楽しそうに話していた。二人のカードに共通の作品があったらしい。


 割り込む理由はない。


 汐乃は席で水を飲み、カードを眺めた。


 いい人はいた。嫌なことを言った人はいない。なのに「もう少し話したい」と思うための材料を、自分が集め損ねた気がした。


 最終カードを出す前に、隣の緑のブラウスの女性が、小さく笑って言った。


「私、趣味の話になると、しゃべりすぎちゃって」


「そうなんですか」


「相手の方、途中で何か言いたそうだったのに。あとから気づいて」


 汐乃は、自分が質問を続けた五分を思い出した。会話の相手は、カードの空欄を埋めるために座っていたわけではない。


「私は、聞きたいことばかり聞いてしまいました」


「難しいですね」


「はい」


 転勤がある。月末が忙しい。一人暮らしで、家事は自分でする。


 答えは思い出せる。でも、映画の男性がどんな場面で笑ったかは、よく覚えていない。


 聞いたつもりで、聞いていなかったのかもしれない。


 汐乃は自由交流の終了前に、その男性が一人になったところで声をかけた。


「先ほどは、私の質問ばかりになってしまって、すみません」


「いえ。大事なことですもんね」


「でも、映画のお話、途中でした」


「ああ。あれは、また機会があったら」


 彼は穏やかに答えた。それ以上を求めるのは違うとわかり、汐乃は礼を言って席へ戻った。


 結果は、小さな封筒に入って渡された。


 お相手の番号欄は空白だった。


 廊下へ出ると、少し離れたところに橘が立っていた。同じ封筒を片手に、上着を着ている。


 目が合った。


 汐乃は何も聞かず、軽く会釈した。


「駅は、そちらですか」


 橘が階段を示した。


「はい」


「では」


 二人で歩くことになったわけではない。行く方向が同じだけだ。汐乃はそう考え、半歩離れて階段を下りた。


 踊り場で、橘が言った。


「今日の約束は、結果にかかわらず有効です」


「はい。私も言いません」


 何の結果かは、聞かなかった。


 ホテルの外はよく晴れていた。汐乃は昼前より重くなった鞄を肩に掛け直す。


「月曜の資料ですが」


 橘が口を開いた。


 汐乃は足を止めた。


「今ですか」


「……月曜日に」


「お願いします」


 彼が黙ってうなずいたので、汐乃は少しだけ肩の力を抜いた。


 駅前の交差点で別れるとき、彼の封筒の口から白いカードがのぞいた。


 印刷された番号欄に、手書きの数字はなかった。


 汐乃は見てしまったことを顔に出さないよう、信号へ目を向けた。ほっとしたのではない。安心するようなことでもない。


 ただ、自分だけが今日をうまく終えられなかったわけではないと知って、足が少し動かしやすくなった。


 帰宅してワンピースを脱いだあと、汐乃は次の会を検索した。


 大人数でなければ、もう少し落ち着いて話せるかもしれない。


 画面には二週間後の少人数交流会が出ていた。


 申込ボタンの上で、指が止まる。


 まさか、また会うことはないだろう。


 汐乃は自分にそう言い聞かせて、ボタンを押した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。