第2話 職場では言わないでください
「少し」
橘が答えたのと同時に、汐乃は「仕事で」と言った。
少しどころではない。平日はほぼ毎日、資料の修正箇所を交換している。
「そうなんですね。では、普段とは違うお話を楽しんでください」
進行役が離れると、テーブルに残された二枚のカードが急に大きく見えた。橘の趣味欄には「読書、料理」。汐乃は二つ目を読んで、思わず顔を上げた。
「何ですか」
「いえ。料理をされるんですね」
「食べないと生きていけないので」
「それはそうですけど」
楽しい会話まで、何段階あるのだろう。
隣の席から、旅行先の食べ物について弾む声が聞こえた。こちらは生存に必要な栄養の話である。
橘が身をかがめ、声を落とした。
「今日のことは、会社では」
「言わないでください。お願いします」
言い終えてから、頼み方が切実すぎたと思った。橘は一度目を伏せ、うなずいた。
「わかりました。私のことも」
「もちろんです」
汐乃は呼吸を整えた。片方だけが秘密を握っているわけではない。その事実で、ようやく少し落ち着いた。
「部長も、こういう会に参加されるんですね」
「参加してはいけませんか」
「そういう意味ではありません」
「母に、休日まで会社へ行くなと言われまして」
「休日も行ってるんですか」
「行かない日もあります」
「そちらが例外みたいな言い方です」
橘はカップへ手を伸ばし、飲み物が入っていないことに気づいて戻した。汐乃は見なかったふりをした。
「白石さんは」
「自分で申し込みました」
「それは、私もです。母が代理で申し込んだわけでは」
「そこまで聞いてません」
橘の眉間に見慣れた皺が寄った。汐乃も思わず姿勢を正す。その瞬間、会場に軽いベルの音が響いた。
「男性の皆さま、お席のご移動をお願いします」
もう五分だ。
二人はカードを交換し直した。汐乃の「休日の過ごし方」の欄を、橘が一瞬見た。
「読書をされるんですね」
「時々」
「どういう――」
後ろに次の参加者が立っていた。橘は言いかけた口を閉じ、席を離れた。
残された汐乃は、自分のカードを持ち直した。
いま本の話をされても困る。だが、もっと早くそれを聞いてくれればよかったのに、とも思った。
*
三人目の男性は、物流会社に勤めていると話した。カードの趣味欄には映画鑑賞とあったが、汐乃は先に勤務欄を見てしまった。
「転勤は多いんですか」
「今のところは静岡県内です」
「将来は、ほかの地域も?」
「可能性はあります。白石さんは、転勤は難しいですか」
汐乃は一瞬迷った。
「仕事を続けたいので」
「なるほど。僕もできれば続けてほしいと思っています」
「家事は普段、ご自分で?」
男性の指が、カードの角で止まった。
「ええ、一人暮らしなので。それより、映画はご覧になりますか」
「たまに。残業は多いんでしょうか」
聞いたあとで、話題を戻してしまったことに気づいた。
相手は笑って、月末は忙しいと答えた。そのあと汐乃にも勤務時間を尋ねてくれたが、五分の終わりまで、互いの休日の話は出なかった。
次の男性とは散歩の話になった。
「目的がないと、なかなか歩けなくて」と言われて、汐乃は反射的に「健康のためにも歩いたほうが」と返しそうになった。飲み込んだせいで返事が遅れ、男性は別の話題を探し始めた。
難しい。
聞くことを用意してくるだけでは、会話にはならないらしい。
休憩時間、汐乃は飲み物の台へ立った。コーヒーを注いでいると、衝立の向こうから橘の声が届いた。
「職場の方との分担を、一度表にされてはどうでしょう」
隣の区画で、まだ会話を続けているようだった。
「そうですね。でも、なかなか言いづらくて」
「担当が曖昧なままだと、同じことが続きます」
「はい……」
「上司の方に相談する際も、業務量を数字にすると」
汐乃はミルクの容器を握ったまま止まった。
ここでもか。
相手の女性は、帰りの電車で甘いものを食べると少し元気になる、と話し始めた。橘はそこでようやく黙った。
盗み聞きをするつもりではなかった。汐乃はコーヒーを持って席へ戻ったが、相手の女性がどんな顔をしていたかは見えなかった。
少なくとも、会話の終わりが自然に軽くなったようには聞こえなかった。
*
最終カードを書く前に、もう一度自由に話す時間があった。
汐乃は映画の男性に、自分が聞いてばかりだったことを謝ろうとした。けれど彼は、別の女性と楽しそうに話していた。二人のカードに共通の作品があったらしい。
割り込む理由はない。
汐乃は席で水を飲み、カードを眺めた。
いい人はいた。嫌なことを言った人はいない。なのに「もう少し話したい」と思うための材料を、自分が集め損ねた気がした。
最終カードを出す前に、隣の緑のブラウスの女性が、小さく笑って言った。
「私、趣味の話になると、しゃべりすぎちゃって」
「そうなんですか」
「相手の方、途中で何か言いたそうだったのに。あとから気づいて」
汐乃は、自分が質問を続けた五分を思い出した。会話の相手は、カードの空欄を埋めるために座っていたわけではない。
「私は、聞きたいことばかり聞いてしまいました」
「難しいですね」
「はい」
転勤がある。月末が忙しい。一人暮らしで、家事は自分でする。
答えは思い出せる。でも、映画の男性がどんな場面で笑ったかは、よく覚えていない。
聞いたつもりで、聞いていなかったのかもしれない。
汐乃は自由交流の終了前に、その男性が一人になったところで声をかけた。
「先ほどは、私の質問ばかりになってしまって、すみません」
「いえ。大事なことですもんね」
「でも、映画のお話、途中でした」
「ああ。あれは、また機会があったら」
彼は穏やかに答えた。それ以上を求めるのは違うとわかり、汐乃は礼を言って席へ戻った。
結果は、小さな封筒に入って渡された。
お相手の番号欄は空白だった。
廊下へ出ると、少し離れたところに橘が立っていた。同じ封筒を片手に、上着を着ている。
目が合った。
汐乃は何も聞かず、軽く会釈した。
「駅は、そちらですか」
橘が階段を示した。
「はい」
「では」
二人で歩くことになったわけではない。行く方向が同じだけだ。汐乃はそう考え、半歩離れて階段を下りた。
踊り場で、橘が言った。
「今日の約束は、結果にかかわらず有効です」
「はい。私も言いません」
何の結果かは、聞かなかった。
ホテルの外はよく晴れていた。汐乃は昼前より重くなった鞄を肩に掛け直す。
「月曜の資料ですが」
橘が口を開いた。
汐乃は足を止めた。
「今ですか」
「……月曜日に」
「お願いします」
彼が黙ってうなずいたので、汐乃は少しだけ肩の力を抜いた。
駅前の交差点で別れるとき、彼の封筒の口から白いカードがのぞいた。
印刷された番号欄に、手書きの数字はなかった。
汐乃は見てしまったことを顔に出さないよう、信号へ目を向けた。ほっとしたのではない。安心するようなことでもない。
ただ、自分だけが今日をうまく終えられなかったわけではないと知って、足が少し動かしやすくなった。
帰宅してワンピースを脱いだあと、汐乃は次の会を検索した。
大人数でなければ、もう少し落ち着いて話せるかもしれない。
画面には二週間後の少人数交流会が出ていた。
申込ボタンの上で、指が止まる。
まさか、また会うことはないだろう。
汐乃は自分にそう言い聞かせて、ボタンを押した。




