第1話 最悪の上司と、土曜日の会場で
「白石さん。この資料、誰に見せるつもりですか」
白石汐乃は、画面を切り替えようとした指を止めた。
金曜日、午前十時。静岡市清水区にある港南機工の第三会議室には、営業企画部の六人が集まっている。壁のモニターには、汐乃が三日かけてまとめた新しい点検サービスの提案資料が映っていた。
「取引先です」
「取引先の、誰ですか」
長机の向かいで、橘修悟がペンを持ち直した。
営業企画部部長、三十七歳。資料の間違いを見つけるのが早く、会議の終了時刻も守る。
「設備の点検を担当する方と、設備部門の責任者です」
「現場が知りたいことと、予算を決める人が知りたいことは違います。同じ資料では、どちらにも伝わりません」
「はい。ですから、最初に共通の課題を出して、そのあとで説明を分ける構成にしています。次のページを――」
「先に導入費用と効果を出してください。訪問先で二十分も説明の時間は取れません」
まだ二ページ目だった。
汐乃はパソコンの横に置いた進行メモを見た。説明は七分。そのあとに意見をもらうつもりで、冒頭にもそう伝えてある。
「費用の前に、現場で何が起きているかを共有したいんです。今のお客様は、点検のたびに機械を止める時間を――」
「結論からお願いします」
汐乃は、メモの端を親指で押さえた。
「……今から、その結論につながる理由を説明するところでした」
隣の席で、後輩の小野寺史登が、配ろうとしていた補足資料を机に戻した。
橘のペンが止まる。
止まるくらいなら、あと二分聞いてほしい。
「現場の担当者から、安くなると言われても作業が増えるなら困る、という声が出ています。費用だけを先に見せると、そこで話が終わります」
「作業が増えない根拠は」
「四ページに、現場への聞き取りをまとめました」
汐乃はページを送った。グラフと、その下に並べた三つのコメントが画面に現れる。
橘は資料へ視線を落とした。
「この聞き取りは使えます。ただ、費用の比較が六ページでは遅い。責任者向けには順番を変えてください」
「現場向けは、今の流れで進めてもいいですか」
「説明を短くできるなら」
何分に。どこまで短くすれば。
聞きたいことは残ったが、橘はもう次の議題を開いていた。
汐乃も口を閉じた。ここから質問を重ねれば、また結論を急かされる。それでも、聞かずに直せばあとで違うと言われる。
結局、進行メモの余白に「現場五分、責任者三分で再構成」と書いた。
会議は予定どおり、十一時に終わった。
*
「白石さん、これ、使います?」
会議室を出るところで、小野寺が補足資料を差し出した。先週一緒に訪問した工場の、点検手順をまとめたものだ。
「使う。ありがとう。さっき出してもらえばよかったね」
「いや、ちょっと、タイミングが」
小野寺は薄く笑って、資料から手を離した。
汐乃は受け取った紙に目を落とした。説明が短くなるよう、彼なりに図を作ってくれていた。
「次の打ち合わせでは、小野寺くんから説明してもらっていい?」
「わかりました」
その返事を聞いてから自席へ戻った。
橘の指摘には、直したほうがいいところもある。責任者が費用を先に知りたいのもわかる。けれど、理由を話す前に結論を求められると、準備したものを全部否定されたような気になる。
汐乃は、その言い方が嫌いだった。
昼休み、社員食堂の向かいの席に藤井彩乃がトレーを置いた。
「今日の会議、長引いた?」
「時間ぴったり」
「じゃあ、その顔は内容か」
同期というのは厄介だ。焼き魚の骨を取っているだけで、会議の出来まで見抜いてくる。
「部長に資料を直せって言われた」
「直すところ、なかった?」
「あった」
「そっか」
「でも、話も聞いてほしかった」
彩乃はうなずき、味噌汁をひと口飲んだ。
「それ、言えた?」
「今から説明するところでした、とは言った」
「ああ。白石主任の、丁寧だけど刺さるやつ」
「敬語は使ってる」
「敬語にすれば全部丸くなるなら、私も苦労しないよ」
言い返そうとして、汐乃はやめた。
小野寺が資料を戻したときの手つきを思い出す。あの場を話しにくくした一人には、自分も入っているのかもしれなかった。
「……次は、先に説明の時間を確保する」
「うん。それで明日は?」
汐乃の箸が止まる。
「声、大きい」
「まだ何も言ってないけど」
彩乃が声を落として笑った。
明日の婚活パーティーのことを、会社で知っているのは彼女だけだ。
「行くよ。もうお金も払ったし」
「何を着ていくの?」
「紺のワンピース」
「いいじゃん」
「その上に、いつものジャケット」
「会議の続き?」
汐乃は箸先で、ほぐした魚の身を寄せた。
「落ち着くんだよ」
「じゃあ、持っていけば。着るかどうかは明日決めて」
明日まで仕事のことを考えていたくはなかった。
会社を出たら、橘の指摘も、修正の履歴も、いったん閉じる。土曜日くらいは、誰にも説明を遮られずに過ごしたい。
まして、あの人と仕事以外で関わる用事など、一生なくていい。
*
土曜日の午後一時四十分。
清水駅から歩いて会場のホテルへ向かう途中、汐乃はショーウインドーで自分の姿を確認した。
紺のワンピース。小さなイヤリング。ジャケットは、家に置いてきた。
腕が心もとない。たった一枚脱いだだけなのに、名刺を忘れた出張のような気分だった。
横断歩道の手前で、スマートフォンを取り出す。申込画面には「休日を一緒に楽しめるお相手探し」とある。
一緒に楽しめる。
それを知るには、何を聞けばいいのだろう。
汐乃は昨夜作ったメモを開いた。
勤務地。転勤の可能性。家事の分担。結婚後の仕事について。
どれも大事だった。以前付き合っていた人とは、最後の項目をうまく話せなかった。「そのときになったら考えよう」と言われ、汐乃もそれ以上聞けずにいた。
そのときが来る前に、別れた。
今度は、聞くべきことを先延ばしにしたくない。
信号が青になった。汐乃はメモを閉じ、スマートフォンを鞄に戻した。
ホテルの二階には、小さな案内板が出ていた。
会場名の下に、婚活パーティーの文字がある。確認したのに、その前を一度通り過ぎた。
廊下の突き当たりで引き返す。
受付の女性と目が合った。
「ご参加の方ですか?」
「はい」
今の往復を、会場を探していただけだと思ってもらいたい。
本人確認を済ませると、八番の番号札とプロフィールカードを渡された。会場では名字ではなく、下の名前と番号を使うらしい。
「女性のお席は固定で、男性の方に順番に移動していただきます。お荷物は椅子の横の籠へどうぞ」
会場には、二人用の小さなテーブルが八つ並んでいた。テーブルの間は低い衝立で区切られ、奥には飲み物が用意されている。
汐乃は壁際の八番の席に座った。入口は衝立の向こうで見えない。人が入ってくるたび、受付の挨拶だけが聞こえた。
プロフィールカードに名前と年齢を書く。
白石汐乃、三十二歳。と書きかけ、名字は不要だったとペンを止める。
新しいカードをもらうほどではない。名字の部分を二本線で消したら、そこだけ妙に目立った。
最初からやり直したい。
まだ誰とも話していないのに。
気を取り直して、職業の欄に「メーカー勤務」、趣味の欄に「散歩」と記入する。好きな食べ物は、プリン。
柔らかいものではなく、スプーンを入れると少し抵抗のある固いプリンが好きだった。そこまで書くべきか迷っていると、隣の席から声をかけられた。
「これ、緊張しますね」
明るい緑色のブラウスを着た女性が、カードを手に苦笑していた。
「趣味って、急に聞かれると思いつかなくて」
「わかります。私も散歩としか」
「いいですね、散歩。私も好きです」
女性は自分のカードに何か書き足した。
「まずは、ちゃんと話せたらいいなと思って来ました」
「……そうですね」
汐乃は鞄の中のスマートフォンを思い出した。
聞くことばかり用意してきた。自分が何を話すかは、ほとんど考えていない。
カードの「休日の過ごし方」に、喫茶店で本を読む、と付け足す。毎週ではない。でも、好きな時間ではある。
「皆さま、お待たせいたしました」
前方に立った進行役の女性が、会場を見渡した。
「本日はお一人ずつ、五分間お話しいただきます。プロフィールカードを交換して、気軽に会話を楽しんでくださいね」
五分。
仕事なら、まだ二ページ目だ。
汐乃は余計なことを考えるのをやめ、カードをテーブルの中央にそろえた。
男性の参加者が、それぞれの席へ案内されていく。衝立越しに、椅子を引く音と短い挨拶が聞こえた。
八番の席にも、人が来た。
「失礼します」
聞き慣れた声だった。
嫌な予感より先に、背筋が伸びた。毎朝、職場で返事をするときの癖だった。
汐乃は顔を上げた。
白いシャツに、グレーのジャケット。ネクタイのない襟元。その上にある顔を見て、頭の中から用意してきた質問が全部消えた。
橘修悟が、椅子の背に手をかけていた。
「……白石さん」
汐乃の視線は、彼の胸元へ落ちた。
八番の番号札。
その下に、手書きで「しゅうご」。
知っている。名前は知っている。けれど、そこに平仮名で書いてあっていい名前ではない。
「……部長」
橘は椅子を引きかけた姿勢で止まった。
汐乃も、カードに手を置いたまま動けなかった。
月曜日に確認する予定の資料がある。昨日の修正指示への質問もある。だが今、それを口にしていいはずがない。
かといって、休日は何をされていますか、と聞くのもおかしい。
答えは目の前にある。
橘が先に視線を外した。入口のほうを見て、それから自分の番号札を確かめる。
汐乃も確かめたかった。会場ではなく、今朝からここまでのどこを間違えたのかを。
「お席、お間違いないですか?」
進行役の女性が、二人のテーブルへ歩み寄ってきた。
橘はようやく椅子に座った。汐乃はプロフィールカードを裏返しかけ、途中でやめた。今さら隠したところで、名前も年齢も勤務先も知られている。
知られていなかったのは、今日ここへ来ることだけだ。
女性は汐乃を見て、橘を見た。
そして、にこやかに首をかしげた。
「お二人、お知り合いですか?」




