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嫌いな上司と、婚活パーティーで会いました  作者: 雨宮 弦


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10/13

第10話 模擬デートは業務外です

 橘から、夕食の練習に付き合ってほしいと言われたのは、翌週の水曜日だった。


 私用のメッセージに「会話の練習」とある。会議資料の説明ではないことを確かめ、汐乃は読み直した。


『どういう練習ですか』


『食事をしながら、話を最後まで聞く練習です』


『部長が聞く側ですか』


『はい。都合が悪ければ、断ってください』


 汐乃は金曜日の夜を確認した。残業の予定はない。瀬戸との次の約束は、日曜の午後だった。


『一時間なら』


『ありがとうございます』


『練習相手にも、ご飯を食べる時間をください』


『善処します』


『そこは確約してください』


 橘から、少し間を置いて「確約します」と届いた。


 汐乃は笑い、スマートフォンをしまった。


 場所は、仕事帰りでも気負わず入れる、小さな洋食店になった。つむぎではプリンを食べて話し込んでしまう。食事の練習なら、食事のある店のほうがいい。


 金曜日、向かい合って席に着くと、橘が小さなノートを出した。


「それ、しまってください」


「記録を」


「私の発言を?」


「改善点です」


「今のが一つ目です」


 橘は素直にノートを鞄へ戻した。汐乃はメニューを開いた。


「最初に言っておきますけど、模擬デートは業務外です」


「承知しています」


「点数もつけません」


「そのほうが助かります」


 真剣な返事に、かえってこちらの肩の力が抜けた。


 料理を注文し終えると、橘が水をひと口飲んだ。


「先週の食事は、楽しかったですか」


「はい」


「……それ以上は、話したい範囲だけで」


 汐乃は彼を見た。先に境界を示してもらえると、話す量を自分で決められた。


「仕事のことを、少し話しました。資料を作るのが好きだって」


「どんなところが」


「お客様が困っていることを、形にできたときです。最初は、何を説明すればいいのかもわからなくて」


 橘は黙っていた。結論を聞こうとも、足りない部分を指摘しようともしない。


 汐乃は少し迷い、続きを話した。


「入社して二年目に、営業の方へ同行したんです。作った資料を持っていったら、お客様が、これじゃうちで何をするかわからないって」


「それで?」


「悔しくて。でも、後日もう一度、現場へ連れていってもらったら、私が知らない手間がいっぱいあって」


 点検表を探すために、別の棟まで歩く。機械の名前が人によって違う。数字が合っていても、その場で使えない情報がある。


「資料を作り直したら、今度は使ってもらえました。見てもらえたって、すごく嬉しかったんです」


 料理が運ばれてきて、汐乃は話を止めた。


 橘は店員へ礼を言い、皿が置かれるのを待った。


「だから、現場の話を先に出したかったんですね」


 汐乃はフォークに伸ばしかけた手を止めた。


 仕事のやり方を褒められたわけではない。それでも、なぜそうしたいのかを聞いてもらったことが、じわじわと胸へ届いた。


「……はい」


「わかりました」


 彼はそこで話を終えた。


 汐乃はハンバーグを切った。食べる前に説明を追加する必要がないのが、不思議だった。


 汐乃は料理を飲み込んでから、聞いた。


「いま、何か言いたくなりませんでした?」


「助言ですか」


「はい」


「なりました」


「何を」


「その経験を、若手の方へ共有するといいと思いました」


 汐乃は笑った。


「それ、もうやってます。去年、小野寺くんと同行したときに」


「そうでしたか」


「でも、話を聞いてもらってからだと、同じ助言でも、嫌じゃないです」


 橘は少し考え、うなずいた。


「話している目的を、聞く前に決めていたんですね」


「部長が役に立とうとしていたのは、わかります」


「ええ」


「ただ、今日は私、昔のことを話してるだけだったので」


 橘は「わかりました」と言い、料理へ視線を戻した。


 汐乃は、自分も同じことをしていないか考えた。彩乃が忙しいと話せば、分担を見直せばと答える。母が疲れたと言えば、荷物を減らせばと返す。


 話を聞かない上司を嫌いながら、自分はちゃんと聞いていると思っていた。


「私も、気をつけます」


「何をですか」


「頼まれたか、確かめること。部長が本を読み直していると聞いたときも、早く読み終えたほうがいいって、言いたくなりました」


「読みたいので、読みます」


「そうですよね」


 汐乃は水を飲んだ。


 店員が空いた皿を下げに来た。橘は話を止め、そちらへ体を少し引いた。汐乃も椅子を寄せる。


「今度、汐乃さんが話すときも、私は――」


 橘はそこで止まり、言い直した。


「白石さんが」


「いま、下の名前でした?」


「カードに、そう書いてあったので」


 汐乃はフォークを持ち直した。胸が少し落ち着かない。


「会社の呼び方で、構いません」


「わかりました」


 それから二人とも、少しのあいだ料理へ集中した。練習をしていたはずなのに、予想していなかったところで、普段と違う時間になった。


 しばらく、それぞれの皿に向かう。


「部長は、どうして営業企画に?」


「最初は営業でした。現場へ行くたび、社内の説明とお客様の使い方が違うと思って。それを調整する仕事が、向いていると考えました」


「今の私の話と、似てますね」


「ええ」


 橘の皿には、オムライスがあった。ナポリタンではないことを指摘すると、彼はメニューの端を示した。


「今日は、ないので」


「それで帰ったりはしないんですね」


「そこまでではありません」


 汐乃が笑うと、橘も少し笑った。


 そのあと、本の話をした。橘が読み直している小説はまだ終わっていなかった。彼は途中でやめた理由を語ったが、今はその先を読みたいと思っているという。


「最初は、主人公が何もしないのが気になったんです」


「読んでいて、解決策を考えたんですか」


「たぶん」


「本の人まで」


「本人には、伝えていません」


 汐乃は水を飲もうとして、笑ってやめた。


 気づけば料理は食べ終わっていた。話した量は、汐乃のほうが多かったかもしれない。だが、話さなければという焦りはなかった。


「練習、どうでしたか」


 橘が聞いた。


 汐乃は少し考えた。合格、不合格という言葉は使いたくなかった。


「聞いてもらえて、よかったです」


「そうですか」


「でも、ずっと聞く側だと疲れませんか」


「今日は、私も話せました」


「オムライスの話ですけど」


「営業の話もしました」


 そうだった。汐乃はうなずいた。


「次は、もっと普通でいいと思います。練習しているかどうか、途中から忘れてました」


「私もです」


 橘の返事が自然だったので、汐乃はそれ以上考えずに席を立った。


 会計は別々にした。レジの店員が伝票を二枚に分けながら、にこやかに言った。


「仲の良いお二人ですね」


「違います」


「そういう関係ではありません」


 二人の声が重なった。


 店員が少し驚き、それから「失礼しました」と頭を下げた。


 汐乃は慌てて「いえ、こちらこそ」と言った。仲が良いと言われただけなのに、何をそこまで否定したのか。


 外へ出ると、橘も同じことを考えているように口を閉じていた。


「お店の人、困らせましたね」


「ええ」


「仲が悪いと言うのも、違いますけど」


「……そうですね」


 駅までの短い道で、会話が途切れた。


 さっきまでいくらでも話せたのに、今は新しい話題が浮かばない。沈黙を急いで埋める必要もないはずなのに、汐乃はハンカチの角を指で折った。


「練習、ありがとうございました」


 改札の前で橘が言った。


「どういたしまして」


 汐乃は会釈し、反対側のホームへ向かった。


 電車を待ちながら、なぜあんなにすぐ否定したのだろうと、もう一度考えた。上司と部下だから。それで説明はつく。


 説明がつくことを確かめてから、スマートフォンを鞄へ戻した。

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