第10話 模擬デートは業務外です
橘から、夕食の練習に付き合ってほしいと言われたのは、翌週の水曜日だった。
私用のメッセージに「会話の練習」とある。会議資料の説明ではないことを確かめ、汐乃は読み直した。
『どういう練習ですか』
『食事をしながら、話を最後まで聞く練習です』
『部長が聞く側ですか』
『はい。都合が悪ければ、断ってください』
汐乃は金曜日の夜を確認した。残業の予定はない。瀬戸との次の約束は、日曜の午後だった。
『一時間なら』
『ありがとうございます』
『練習相手にも、ご飯を食べる時間をください』
『善処します』
『そこは確約してください』
橘から、少し間を置いて「確約します」と届いた。
汐乃は笑い、スマートフォンをしまった。
場所は、仕事帰りでも気負わず入れる、小さな洋食店になった。つむぎではプリンを食べて話し込んでしまう。食事の練習なら、食事のある店のほうがいい。
金曜日、向かい合って席に着くと、橘が小さなノートを出した。
「それ、しまってください」
「記録を」
「私の発言を?」
「改善点です」
「今のが一つ目です」
橘は素直にノートを鞄へ戻した。汐乃はメニューを開いた。
「最初に言っておきますけど、模擬デートは業務外です」
「承知しています」
「点数もつけません」
「そのほうが助かります」
真剣な返事に、かえってこちらの肩の力が抜けた。
料理を注文し終えると、橘が水をひと口飲んだ。
「先週の食事は、楽しかったですか」
「はい」
「……それ以上は、話したい範囲だけで」
汐乃は彼を見た。先に境界を示してもらえると、話す量を自分で決められた。
「仕事のことを、少し話しました。資料を作るのが好きだって」
「どんなところが」
「お客様が困っていることを、形にできたときです。最初は、何を説明すればいいのかもわからなくて」
橘は黙っていた。結論を聞こうとも、足りない部分を指摘しようともしない。
汐乃は少し迷い、続きを話した。
「入社して二年目に、営業の方へ同行したんです。作った資料を持っていったら、お客様が、これじゃうちで何をするかわからないって」
「それで?」
「悔しくて。でも、後日もう一度、現場へ連れていってもらったら、私が知らない手間がいっぱいあって」
点検表を探すために、別の棟まで歩く。機械の名前が人によって違う。数字が合っていても、その場で使えない情報がある。
「資料を作り直したら、今度は使ってもらえました。見てもらえたって、すごく嬉しかったんです」
料理が運ばれてきて、汐乃は話を止めた。
橘は店員へ礼を言い、皿が置かれるのを待った。
「だから、現場の話を先に出したかったんですね」
汐乃はフォークに伸ばしかけた手を止めた。
仕事のやり方を褒められたわけではない。それでも、なぜそうしたいのかを聞いてもらったことが、じわじわと胸へ届いた。
「……はい」
「わかりました」
彼はそこで話を終えた。
汐乃はハンバーグを切った。食べる前に説明を追加する必要がないのが、不思議だった。
汐乃は料理を飲み込んでから、聞いた。
「いま、何か言いたくなりませんでした?」
「助言ですか」
「はい」
「なりました」
「何を」
「その経験を、若手の方へ共有するといいと思いました」
汐乃は笑った。
「それ、もうやってます。去年、小野寺くんと同行したときに」
「そうでしたか」
「でも、話を聞いてもらってからだと、同じ助言でも、嫌じゃないです」
橘は少し考え、うなずいた。
「話している目的を、聞く前に決めていたんですね」
「部長が役に立とうとしていたのは、わかります」
「ええ」
「ただ、今日は私、昔のことを話してるだけだったので」
橘は「わかりました」と言い、料理へ視線を戻した。
汐乃は、自分も同じことをしていないか考えた。彩乃が忙しいと話せば、分担を見直せばと答える。母が疲れたと言えば、荷物を減らせばと返す。
話を聞かない上司を嫌いながら、自分はちゃんと聞いていると思っていた。
「私も、気をつけます」
「何をですか」
「頼まれたか、確かめること。部長が本を読み直していると聞いたときも、早く読み終えたほうがいいって、言いたくなりました」
「読みたいので、読みます」
「そうですよね」
汐乃は水を飲んだ。
店員が空いた皿を下げに来た。橘は話を止め、そちらへ体を少し引いた。汐乃も椅子を寄せる。
「今度、汐乃さんが話すときも、私は――」
橘はそこで止まり、言い直した。
「白石さんが」
「いま、下の名前でした?」
「カードに、そう書いてあったので」
汐乃はフォークを持ち直した。胸が少し落ち着かない。
「会社の呼び方で、構いません」
「わかりました」
それから二人とも、少しのあいだ料理へ集中した。練習をしていたはずなのに、予想していなかったところで、普段と違う時間になった。
しばらく、それぞれの皿に向かう。
「部長は、どうして営業企画に?」
「最初は営業でした。現場へ行くたび、社内の説明とお客様の使い方が違うと思って。それを調整する仕事が、向いていると考えました」
「今の私の話と、似てますね」
「ええ」
橘の皿には、オムライスがあった。ナポリタンではないことを指摘すると、彼はメニューの端を示した。
「今日は、ないので」
「それで帰ったりはしないんですね」
「そこまでではありません」
汐乃が笑うと、橘も少し笑った。
そのあと、本の話をした。橘が読み直している小説はまだ終わっていなかった。彼は途中でやめた理由を語ったが、今はその先を読みたいと思っているという。
「最初は、主人公が何もしないのが気になったんです」
「読んでいて、解決策を考えたんですか」
「たぶん」
「本の人まで」
「本人には、伝えていません」
汐乃は水を飲もうとして、笑ってやめた。
気づけば料理は食べ終わっていた。話した量は、汐乃のほうが多かったかもしれない。だが、話さなければという焦りはなかった。
「練習、どうでしたか」
橘が聞いた。
汐乃は少し考えた。合格、不合格という言葉は使いたくなかった。
「聞いてもらえて、よかったです」
「そうですか」
「でも、ずっと聞く側だと疲れませんか」
「今日は、私も話せました」
「オムライスの話ですけど」
「営業の話もしました」
そうだった。汐乃はうなずいた。
「次は、もっと普通でいいと思います。練習しているかどうか、途中から忘れてました」
「私もです」
橘の返事が自然だったので、汐乃はそれ以上考えずに席を立った。
会計は別々にした。レジの店員が伝票を二枚に分けながら、にこやかに言った。
「仲の良いお二人ですね」
「違います」
「そういう関係ではありません」
二人の声が重なった。
店員が少し驚き、それから「失礼しました」と頭を下げた。
汐乃は慌てて「いえ、こちらこそ」と言った。仲が良いと言われただけなのに、何をそこまで否定したのか。
外へ出ると、橘も同じことを考えているように口を閉じていた。
「お店の人、困らせましたね」
「ええ」
「仲が悪いと言うのも、違いますけど」
「……そうですね」
駅までの短い道で、会話が途切れた。
さっきまでいくらでも話せたのに、今は新しい話題が浮かばない。沈黙を急いで埋める必要もないはずなのに、汐乃はハンカチの角を指で折った。
「練習、ありがとうございました」
改札の前で橘が言った。
「どういたしまして」
汐乃は会釈し、反対側のホームへ向かった。
電車を待ちながら、なぜあんなにすぐ否定したのだろうと、もう一度考えた。上司と部下だから。それで説明はつく。
説明がつくことを確かめてから、スマートフォンを鞄へ戻した。




