第17話 部長が選ぶかもしれない人
汐乃は、声をかける前に立ち止まった。
土曜日の午後、駅前の書店に併設されたカフェで、橘が女性と向かい合っていた。
窓際の席だった。女性は短く切った髪を耳へかけ、開いた本を指している。橘はその指先を見てから、相手の顔へ視線を戻した。
汐乃は紙袋の持ち手を握り直した。
佐伯さんだろうか。
そう思った瞬間、視線を外すべきだとわかった。だが、足が動くまで少しかかった。
女性が何かを言い、橘が笑った。
写真会で撮れた、あの笑顔より自然だった。
彼は人の話を聞ける。質問してから意見を言える。最後まで話を待ち、こうして笑える。
汐乃が教えたからではない。本人が考え、変えたのだ。
それは、喜んでいいことだった。
喜ぶために、こんなに力を入れる必要があるだろうか。
汐乃は店へ入らず、書店の棚へ戻った。買おうとしていた本の題名が思い出せない。スマートフォンのメモを開くと、書いてあったのは一行だけだった。
新刊の随筆。
そんな曖昧な探し物では、見つかるはずがない。
*
彩乃との待ち合わせには、十分早く着いた。
「どうしたの。本、買わなかった?」
「欲しいのが、わからなくなって」
「難しい買い物だね」
彩乃は追及せず、研修の打ち上げに使いたいという店へ汐乃を連れていった。今日はその下見を兼ねた昼食だった。
店内は明るく、テーブル同士も離れている。汐乃は料理を選びながら、何度も書店の窓際を思い出した。
「さっきから、あまり味の話しないね」
彩乃に言われ、汐乃はフォークを置いた。
「ごめん。おいしいよ」
「それはわかる。私も食べてる」
汐乃は少し笑った。彩乃は水を飲み、待った。
「知り合いが、誰かと会っているところを見かけた」
「うん」
「婚活で知り合った人と。たぶん」
「相手が見つかりそうなんだ」
「そう」
喜ばしいことのはずなのに、と言いかけて止まった。
彩乃が、汐乃の皿へ目を向けた。
「寂しいの?」
「相談する人がいなくなるかもしれないから」
答えはすぐに出た。準備していたような速さに、自分で驚いた。
「そうなんだ」
「それだけだと思う」
「じゃあ、寂しい理由は、それだけなんだね」
確かめるような言い方だった。
汐乃は答えられず、水のグラスを持った。
彩乃はそれ以上聞かず、研修の話へ戻った。準備の分担がうまくいき、今回は自分も内容を楽しめたという。
「全部自分でやるより、ちょっと時間はかかったけど。人に頼む説明って、案外難しい」
「うん」
「でも、私しかできないと思ってたことを、別の人が違うやり方でやってくれて。楽になった」
汐乃はうなずいた。
橘にも相談できる相手がいる。自分以外の、同じ目線で話せる女性が。
楽になって、よかったはずだ。
その「はず」を、何度も考えている。
*
夕方、買い忘れた本を探しに戻る気にはなれなかった。
汐乃は港のほうへ歩いた。空が曇り、風が少し湿っている。ベンチへ座り、瀬戸からのメッセージを読んだ。
地元へ戻る計画について、今の段階でわかっていることをまとめてくれていた。毎日の勤務場所、家族の事業で担う役割、住む場所は実家とは別に考えていること。
汐乃の不安を、雑に片づけようとしていなかった。
胸が痛んだ。
彼は自分との未来を考えている。汐乃は別の人の笑顔を、何度も思い出している。
返事を急いで送らず、ひとつずつ読んだ。
『詳しく教えてくださって、ありがとうございます。私も、自分の仕事と暮らしについて整理します』
嘘は書かなかった。けれど、それだけでは足りない気がした。
画面を閉じる前に、橘との連絡先が目に入った。
今日見かけました、と送ることはできる。お似合いでしたね、と添えることもできる。
そうして、彼から何を聞きたいのだろう。
汐乃はスマートフォンをしまった。
*
日曜の午後、汐乃は一人で近所の喫茶店に入った。
つむぎではない。誰かに会う可能性を考えず、本を読むために選んだ店だった。
窓際へ座り、昨日ようやく買った随筆を開いた。書店からいったん離れたあと、駅の小さな売店で、見覚えのある表紙を見つけたのだ。
最初の数ページは、買ったものを使わずにしまい込む話だった。
汐乃は自分のクローゼットを思い出した。黄色いブラウスを買わなかったことではない。以前買った、少し派手なスカーフが、袋のまま残っている。
似合わなかったら嫌だと思い、使わずにしまっておく。
着なければ、失敗しない。
コーヒーへ口をつける。温かさが、喉を通った。
人との関係も、同じようにしていないだろうか。好きだと認めなければ、選ばれなかったときに、自分から欲しがったわけではないと言える。
汐乃は本を閉じた。
橘があの女性といたことを、まだ誰にも具体的には話していない。話せば、彩乃が何か答えをくれるかもしれないと思った。でも、その答えを聞くこと自体が怖かった。
店員が水を注ぎに来た。
「おかわりは、いかがですか」
「今は、大丈夫です」
普通の返事をしただけで、少し気が抜けた。今いらないものは、いらないと言える。なのに欲しいものは、欲しくないふりをする。
汐乃は開いた本の端へ栞を挟み、外を見た。通りを並んで歩く二人が、片方の立ち止まった店の前で、一緒に足を止めている。
次に誰かと歩くとき、自分が何を見たいかを、ちゃんと言いたかった。
帰宅してから、スカーフを袋から出した。
鏡の前で巻いてみる。やはり少し派手だったが、顔が明るく見えた。母へ写真を送ると、「それ、前に買ったって言ってたもの?」と返ってきた。
汐乃は忘れられていなかったことに驚き、笑った。
『今度、使ってみる』
『いいと思う』
それだけのやり取りで、少し背中を押された気がした。
月曜日、会議の始まる前に、橘が汐乃の席へ来た。
「金曜の確認事項、反映できていますか」
「はい。こちらです」
彼は画面を見た。仕事の顔だった。
汐乃は、土曜日の窓際の顔と比べそうになり、資料へ意識を戻した。
「この部分は、営業担当から説明してもらいます。白石さんは、手順の変更点を」
「わかりました」
必要な確認が終わると、橘は自分の席へ戻った。
私生活を持ち込まない。それは二人で決めたことだった。何も聞かれないし、何も聞かない。
それなのに、話しかけてもらえたことだけで、少し呼吸が楽になっている。
汐乃はノートを開いた。今日の議題の横に、意味のない小さな四角を描き、すぐ塗りつぶした。
相談相手を失うのが寂しい。
その説明はまだ、間違いとは言えない。
でも、あの女性の前で笑う橘を見たとき、失うかもしれないと思ったのは、本当に相談の時間だけだったのか。
机の上には、次に出す提案がある。今ここで考えることを、一つずつ分けようと、汐乃は姿勢を直した。
ノートのページをめくると、以前書いた婚活協定の端が見えた。
嫌なら断れる。
相談相手としてなら、その一文で十分だった。だが、断られることを怖いと思い始めたら、話は変わる。
橘が、自分とは別の人と暮らす。それを考えるだけで、喉の奥が狭くなる。
汐乃はノートを仕事のページへ戻した。
けれど、伝えればいいと思えるほど、立場の違いは小さくなかった。彼はこのあと、自分の提案へ判断を下す人だ。
会議の開始を告げる声がして、汐乃は議題の一行目にペンを置いた。




