第18話 残業と、冷めたナポリタン
試験導入先から、点検時間を変更したいという連絡が来た。
木曜日の午後四時。翌週の予定を確定した直後だった。
機械を使わない時間が変わったため、これまでの順番では点検できない。訪問自体を延期すれば簡単だが、先方の責任者は月内に結果を見たいという。
電話を切った橘が、予定表を開いた。
「私が全件、組み直します。皆さんは予定の仕事を進めてください」
汐乃は自分の手元の資料を見た。変更が必要なのは、訪問順と点検員の移動、それに先方への連絡だ。一人で全部を持てば、その人の返事を全員が待つことになる。
「分けたほうが、早いと思います」
「今から説明するより」
「部長が説明しないまま組み替えると、確認のときにまた説明が必要です」
橘は画面へ視線を戻した。少し迷っているのがわかった。
汐乃は小野寺を見た。
「今の仕事、今日中にどこまで必要?」
「集計はあと三十分くらいです。そのあとなら、訪問順の確認はできます」
「今日は何時まで?」
「七時には出たいです」
汐乃はうなずいた。
「じゃあ、六時半までに見られるところだけ、お願いしてもいい?」
「はい。まとまらなかったところは、一覧で残します」
橘が口を開いた。
「無理はしなくていいです」
「無理なところを、今、確認しています」
汐乃は彼へ向き直った。
「私は、変更する点検手順を見ます。部長は、先方の責任者と調整してください。担当の方へ、私から直接聞いていい範囲も決めていただければ」
「……わかりました」
橘は予定表の画面を共有した。
役割を分け始めると、すぐに一つ問題が見つかった。
変更の連絡が、営業担当のメールと、点検担当の電話メモへ分かれていた。同じ日程について、別の答えが残っている。
「この二つ、どちらが新しいんでしょう」
小野寺が聞いた。
橘は自分で電話を取ろうとしたが、汐乃が共有画面を示した。
「確認した人が、ここへ時刻も書くことにしませんか。あとで全員が部長に聞きに来ると、また止まります」
「そうですね。先方の判断が必要なところだけ、私が聞きます」
汐乃は表へ列を足した。小野寺が確認時刻を入力し、情報の出所も残す。
電話のメモには、担当者の希望が書かれていた。正式に日程を変えたという答えではなかった。そこを分けるだけで、動かす必要のある予定が二件減った。
「全部、変わったんだと思ってました」
小野寺が言うと、橘はうなずいた。
「私もです。最初に、確かめるべきでした」
点検担当へ無理な移動を頼まずに済む。そのことを、営業の担当者にも共有した。
汐乃は水を飲み、次に確認する一件を開いた。
三人で十五分、今ある情報と足りない情報を並べた。営業担当者には翌朝の確認を依頼し、今日答えが出ない項目は無理に埋めないことにする。
机へ戻ると、汐乃は一度だけ大きく息を吐いた。
*
六時半、小野寺が確認表を共有した。
「二件、距離が離れてます。片方を別の日にしないと、移動が厳しいです」
「ありがとう。ここは私から先方に聞く」
汐乃が言うと、橘は「お願いします」と応じた。
小野寺は帰る前に、自分が触った範囲と未確認の箇所を説明した。
「残ってるの、気になりますけど」
「明日また見てもらうから。今日はありがとう」
彼が出ていくと、フロアは少し静かになった。ほかの担当者も、それぞれ必要なところまで終えて帰っている。
七時前、橘が席を立った。
「何か、食べますか。長くなるので」
「八時までには、切り上げましょう」
「はい。それまでに」
近所の店で持ち帰りを頼むことにした。橘はナポリタン、汐乃はサンドイッチ。受け取った袋を休憩スペースに置いたところで、先方から電話が来た。
橘が応対し、汐乃は共有の予定表を動かす。電話口の答えを聞きながら、変更するセルを色分けした。
気づくと、二十分経っていた。
「先に食べてください」
「今のところだけ、確認します」
汐乃は一件の予定を読み上げた。橘が復唱し、先方へ伝える。電話を終えると、二人はようやく休憩スペースへ移った。
ナポリタンの麺は、少し固まっていた。
「温めますか」
汐乃が聞くと、橘は容器を確認した。
「このままでは、無理そうです」
「お皿、ありますよ」
給湯室から皿を借り、橘は麺を移した。ソースが容器の底に残り、なかなか出てこない。
「一人で全部やってたら、もっと冷えてましたね」
汐乃が言うと、橘は皿を持ったまま止まった。
「……そうですね」
電子レンジの音がしているあいだ、二人は並んで立っていた。
「前に、説明が足りないまま進めた案件がありました」
橘が言った。
汐乃は彼を見ず、サンドイッチの包装を開けた。
「営業担当が、お客様に説明できずに困ったんです。私が決めたことなのに、先方の前で頭を下げるのは担当者で」
「それで、自分で全部?」
「そのほうが、迷惑をかけないと思っていました」
「全部持たれたら、手伝いたくても手が出せません」
「はい」
短い返事だった。
電子レンジが鳴った。橘は皿を取り出し、熱さに少し指を浮かせる。汐乃は布巾を渡した。
「ありがとうございます」
「分ける前に、何を頼むか説明してください。そこは面倒でも」
「今日は、助かりました」
「小野寺くんにも、明日言ってくださいね」
「言います」
席へ戻って食べると、温め直したナポリタンから湯気が上がっていた。橘はひと口食べ、少し考えるような顔をした。
「味、変ですか」
「玉ねぎは、もう少し」
「今、それを求めます?」
「いえ」
汐乃は笑い、サンドイッチを飲み込んだ。
「ひと口、試しますか」
橘が皿を少し動かした。
「いえ。部長の分が減ります」
「玉ねぎの意見を、聞きたかっただけです」
「私、そこまで詳しくありません」
「そうでした」
戻された皿を、汐乃は一瞬だけ目で追った。
*
食事を終えたあと、二人は皿を洗い、借りた場所へ戻した。
橘は小野寺が残した一覧を見て、翌朝頼むところを二つに絞った。汐乃も自分の確認事項を書き込み、手が空いた人が何を見ればいいか、わかる形にした。
「明日の朝、同じ説明を最初からしなくて済みますね」
「そのために、書いています」
「部長が一人で抱えていたら、全部、口頭でしたね」
「……はい」
彼が苦笑したので、汐乃も笑った。疲れていても、仕事を減らすための手間なら、今は一緒にかけられると思った。
八時前、残った課題を一覧にして、その日の作業を終えた。
全部は解決していない。だが、明日誰が何を聞くかは決まっていた。
橘はパソコンを閉じ、汐乃へ向き直った。
「今日はありがとうございました」
「お疲れさまでした」
「一人で抱える前に、説明するようにします」
「はい。こちらも、できる範囲はちゃんと言います」
エレベーターを待つあいだ、汐乃のスマートフォンが振動した。瀬戸から、週末の都合を聞く連絡だった。
橘が画面を見ないよう、少し顔を横へ向けた。汐乃はその配慮に気づき、鞄へ戻す。
「返事、後で大丈夫なんですか」
「帰ってから、落ち着いて書きます」
「そうですか」
外は少し蒸し暑かった。会社の明かりを背に、二人は駅へ向かった。
冷めたナポリタンを温め直すくらいのことを、これからも隣でしてしまいそうな気がした。




