第16話 瀬戸さんは、ちゃんと素敵な人
瀬戸が選んだ店は、窓から小さな庭が見えた。
「今日は、少しゆっくり話したくて」
席に着いてから、彼はそう言った。
汐乃はメニューを閉じ、うなずいた。出張から三日後の土曜日だった。瀬戸とは週に何度か連絡を取り、次に会う日も無理なく決まるようになっていた。
注文を済ませると、彼は水のグラスを両手で持った。
「この前、仕事を続けたいと話してましたよね」
「はい」
「僕も、続けてほしいと思っています。ただ、僕のほうで、先に話しておきたいことがあって」
汐乃は姿勢を正した。
瀬戸の実家は、岐阜県の山間部で小さな建築会社を営んでいた。父親が年齢を重ね、今の仕事の区切りがつけば、地元へ戻って事業に関わろうと考えているという。
「すぐではありません。今の案件もあるので。でも、一、二年のうちには」
「そうなんですね」
「前にも実家の話はしましたけど、時期はまだ曖昧で。汐乃さんと、これからも会いたいと思ったので、曖昧なままにはしたくなくて」
初めて、下の名前で呼ばれた。
彼は言ったあとで「呼び方、大丈夫ですか」と確かめた。汐乃は、はい、と答えた。
きちんとしている。
自分を急がせず、でも大事な話は先延ばしにしない。
「戻ったら、どんなお仕事をされるんですか」
「設計だけでなく、現場の調整も増えると思います。今より規模は小さくなりますけど、使う人と長く関われるので」
瀬戸の顔が少し明るくなった。
汐乃はその変化を見ていた。彼が地元へ帰るのは、家族の都合だけではない。そこでやりたい仕事があるのだ。
「楽しみなんですね」
「不安もあります。昔の知り合いばかりだから、やりづらいこともあるでしょうし。でも、やってみたいです」
汐乃は、地元の仕事で好きなところを、もう少し聞いた。
瀬戸は、昔からある家を直す仕事のことを話した。図面が残っていない家もあり、住んでいる人に、いつどこを変えたか聞きながら進めるのだという。
「効率がいい仕事ばかりではないです。でも、その家で暮らしてきた人の話を聞くのが好きで」
「新しくするより、残すほうが難しそうです」
「そうなんです。何を残したいかも、人によって違うので」
彼の話を聞いていると、地元へ戻りたい理由がよくわかった。
家族に頼まれたからだけではない。自分で、そこを選んでいる。
「静岡で、その仕事を続けるのは難しいんですか」
聞いてから、汐乃は言葉を補った。
「戻るのをやめてほしい、ということではなくて。私、選び方を知りたくて」
「仕事だけなら、似たことはできます。でも、知っている人が暮らしている場所で、長く関わりたいんです」
瀬戸は少し考え、続けた。
「ここでの仕事も好きです。ただ、五年後を考えると、向こうにいる自分を想像します」
汐乃はその言葉を、自分にも問い直した。
五年後。
今より責任のある仕事をしているだろうか。相変わらず資料を直し、現場へ行っているのか。誰かと暮らしているなら、夕飯を食べながら何を話しているのだろう。
浮かんだ食卓の向かいに、橘が座りかけた。
汐乃は水を飲んだ。
それを、今ここで考えていいはずがない。瀬戸が話している未来を、別の人で埋めてしまったことが、胸に残った。
料理が運ばれてきた。二人は少し間を置き、食べ始めた。
汐乃は煮込まれた肉をフォークでほぐした。簡単に崩れるはずなのに、指に力が入っていた。
「汐乃さんは、今の会社で続けたいですか。それとも、仕事そのものが続けられたら」
瀬戸は静かに聞いた。
汐乃はすぐに答えられなかった。
仕事を続けたい。それはいつでも言えた。
今の会社、今の部署、今の街。どこまでが自分にとって大事なのかを、切り分けて考えたことがなかった。
「今の仕事は、好きです」
「うん」
「でも、別の場所で同じような仕事ができないとは、思っていません。ただ、すぐに移ることを考えると……」
「まだ、決められないですよね」
「はい」
瀬戸はうなずいた。
「僕も、今日決めてほしいわけではありません。遠距離の期間を作るのか、別の方法があるのかも、一緒に考えたいです」
一緒に考える。
前の恋人と話していたとき、欲しかった言葉だった。
なのに、今それを言ってもらっても、胸の中の緊張は解けなかった。
「私、今の仕事を辞めることが、まだ想像できないんです」
汐乃はゆっくり言った。
「途中の案件もありますし、これからやりたいこともあって」
「辞めてほしい、とは思っていません。ただ、僕の地元から静岡へ毎日通うのは難しいです」
「そうですね」
現実の距離が、テーブルの上に置かれた。
自分は、瀬戸が話す暮らしの、どこへ座りたいのだろう。
「帰ったら、僕の生活は今より地元中心になると思います。親とも近くなります。そこも、仕事だけとは分けて考えたほうがいいですよね」
瀬戸は続けた。
「僕は慣れているので、簡単に大丈夫と言ってしまいそうです。でも、汐乃さんには初めての場所だから」
汐乃は彼の言葉を聞いた。
相手の負担を考えてくれる人だった。だから、自分も曖昧な笑顔だけで返したくなかった。
「少し、考える時間をもらえますか」
「もちろんです。僕のほうも、どこまで変えられるのか考えます」
汐乃は礼を言った。
答えを出せなかったことに、彼は落胆を隠そうとも、取り繕おうともしなかった。少し寂しそうな顔で、それでも次の料理の話題へ移ってくれた。
*
食事のあと、二人は駅まで歩いた。
展示の話も、最近読んだ本の話も、いつもどおりできた。ただ、汐乃の中には、さっきの言葉が残っていた。
改札の手前で、瀬戸が言った。
「今日話したこと、負担だったらすみません」
「いえ。話してくださって、よかったです」
「僕も、ちゃんと話せてよかったです」
次の約束は、その場では決めなかった。後日連絡することにして、二人は別れた。
帰りの電車で、汐乃は条件表を開いた。
勤務地、転勤の可能性。
空欄に答えが入った。地元へ戻る予定。一、二年以内。
それだけを見れば、自分の希望とは合わない。
けれど、目の前で「一緒に考えたい」と言った彼を、ひとつの項目だけで閉じるのも違う気がした。
汐乃は入力した文の下に「自分は、どこで、何を続けたい?」と書いた。
その先は、すぐに埋まらなかった。
*
月曜日、修正した点検表の確認をしていると、小野寺が覗き込んだ。
「向こうの担当さん、すごく使いやすくなったって」
「まだ試してもらってるところだけどね」
「白石さん、次の導入先でも、この手順を使いたいです」
汐乃はうなずき、画面を二人の間へ寄せた。
自分が作ったものが、誰かの役に立つ。次はもっとよくできると思える。
その時間を、手放したくない。
ふと橘を見ると、電話をしながら資料へ書き込みをしていた。汐乃の視線に気づくと、何か用かというように眉を上げる。
汐乃は首を振った。
ここで働きたい理由に、彼が混ざっているのか。
考えかけて、いったん仕事へ戻った。
瀬戸は、ちゃんと素敵な人だ。そのことと、彼の望む未来を自分も選べるかどうかは、同じではない。
画面には、次の導入先へ送る資料が開いていた。
汐乃は、今の仕事を続けたい理由を、橘以外でも三つ挙げてみた。現場の話を形にしたい。作った手順を、継続して直したい。小野寺が自分で提案できるところを、もっと見たい。
どれも、彼がいなくても残る。




