第15話 二人きりの出張
水曜日の朝、橘は静岡駅の新幹線改札で、汐乃に紙の行程表を渡した。
「移動の確認だけです。説明は、予定どおり白石さんにお願いします」
「はい」
日帰りで、豊橋の工場を訪ねる。試験導入した点検サービスについて、実際の作業と資料が合っているかを見るためだった。小野寺は別の訪問があり、今回は二人になった。
汐乃は前日に、説明範囲と判断が必要な項目を橘と確認していた。それでも、隣に座ると少し気が張った。
車内で資料を開く。橘は別の書類を読んでいたが、汐乃の手元を見て、赤字を入れることはなかった。
「何か、確認したいことは」
「質問が出たとき、私から答えてもいいですか」
「もちろん。契約条件に関わるところだけ、私が補足します」
「わかりました」
それだけで、資料に書いた言葉を自分で使う準備ができた。
車内で、橘が一枚の紙へ丸をつけた。
「こちらだけ、先に聞いてもいいですか。先方から、点検をする人と記録を確認する人は、別だと伺っています」
「はい。今日、確認したいところです」
「では、質問も君からお願いします。私は、最後に契約の範囲を確かめます」
汐乃はうなずいた。誰が答え、誰が聞くのかが決まると、途中で引き取られるかどうかを考えずに済む。
窓の外を見ていた橘が、ふと彼女へ向いた。
「説明の途中で、こちらが気づいたことは、どう伝えるのがいいですか」
「メモでいただけますか。必要なら、私からお願いするので」
「わかりました」
自分の進め方を聞かれたのが、少し意外だった。
汐乃は資料の隅へ、彼からの補足を書く場所を空けた。
工場へ着くと、設備担当の男性が二人を迎えた。会議室へ案内され、現場で使っている点検表を見せてもらう。
汐乃の作った様式には、鉛筆でいくつも追記があった。
「ここ、丸をつけるだけで済むと思ったんですが、同じ型でも設置場所によって違うんです」
「どんな違いですか」
「あとで実物を見てもらえれば、すぐわかります」
汐乃は説明を始めず、まず現場を見ることにした。
安全帽をかぶり、担当者のあとを歩く。通路の右側に、点検対象の機械が三台並んでいた。奥の一台だけが壁に近く、表示部を正面から読めない。
「ここは横から覗くんです。数字を書きながら見るのが難しくて」
「記入する位置を変える必要がありますね」
汐乃は点検表をクリップ板に挟み、実際の立ち位置で見た。視線を上げ下げするたび、同じ数字を探し直すことになる。
橘は少し離れ、通路を通る作業員の邪魔にならない位置で聞いていた。
「記入順を、この並びに合わせたらどうでしょう」
汐乃が提案すると、担当者はすぐに答えず、隣の同僚を呼んだ。
二人で相談し、別の順番を示してくれる。汐乃の案は、一台目には合うが三台目ではかえって見にくかった。
「そうですね。こちらの並びのほうが、行き来が少ないです」
自分の提案を引っ込めても、話が止まることはなかった。現場の人が書きやすい形へ近づけば、それでいい。
会議室へ戻り、汐乃は修正案を説明した。
「様式の変更だけなら、来週から試せます。ただ、記入する項目を減らすところは、点検担当にも確認が必要です」
「全部、一緒には変えられませんか」
「見落としがないか確かめたいので、二段階にさせてください」
担当者は橘を見た。
汐乃は一瞬、彼が引き取ると思った。だが橘は「手順については、白石からご説明したとおりです」と言った。
「費用と契約範囲の変更が必要になれば、私からご相談します。まずは、今の範囲で使いやすくできるところから進めましょう」
汐乃は自分の資料に目を戻した。
任せてもらえた。
嬉しさより先に、次の質問へきちんと答えたいと思った。
*
打ち合わせは予定より早く終わった。工場を出ると、昼過ぎの光が道路に照り返していた。
駅近くの食堂で遅い昼食を取りながら、汐乃はメモを整理した。橘は定食の味噌汁を飲み、手帳に何か書いた。
「今日の説明、長くありませんでしたか」
汐乃は聞いた。
橘は顔を上げた。
「必要なところに時間を使っていたと思います」
「最初に現場を見た分、資料の順番を変えました」
「ええ。そのほうが伝わりました」
簡潔な返事だった。だが、どこを見てそう判断したかがわかった。
「補足、ありがとうございました」
「私は契約の話をしただけです」
「そこを分けていただけたので、説明しやすかったです」
橘は少しだけ箸を止めた。
「次も、最初に範囲を決めましょう」
「はい」
汐乃はノートを閉じた。食べながら全部まとめる必要はない。戻ってから、小野寺にも聞いてもらえばいい。
帰りの駅で、家族への土産を見た。汐乃は母に頼まれた菓子を探し、橘は自宅用に小さな箱を買った。
「お母様に?」
「半分は。残りは自分で」
「配分、先に決まってるんですね」
「勝手に全部渡すと、自分の分がなくなるので」
汐乃は笑った。
母親が箱の向きを直させていた姿を思い出し、土産の袋を丁寧に持ち直した。
新幹線は隣同士の席だった。行きには資料を広げていたテーブルを、今は二人とも閉じている。
汐乃は窓側に座り、鞄を足元へ入れた。橘は上着を畳み、膝へ置く。
「眠ってもらって構いませんよ」
言われ、汐乃は彼を見た。
「部長は寝ないんですか」
「眠くなれば」
「では、お互いに」
「はい」
そのあと、会話が途切れた。
橘が本を開いたので、汐乃も鞄の文庫本を取り出した。同じ出版社の、色の似たカバーだった。
「持ってくる本まで、会議みたいにそろいましたね」
「内容は違います」
「わかってます」
二人で本の表紙を見せ合った。橘の栞がずいぶん手前にある。
「今日は、進みませんでした?」
「行きは、隣の資料が気になったので」
汐乃は文庫本を開いた。仕事のことだとわかっているのに、最初の一行を二度読んだ。
汐乃は窓の外を見た。街が遠のき、低い山の間に家々が続いている。隣から、ページをめくる音がした。
何か話さなければとは思わなかった。前なら、この沈黙は評価を待つ時間だった。今は、同じ目的で出かけ、戻っている人が隣にいるだけだった。
列車がトンネルへ入る。窓に、目を閉じた自分と、本を読んでいる橘が映った。
彼がページをめくる手を止めたので、汐乃は声をかけた。
「その本、面白いですか」
「まだ、わかりません」
「途中で結論を出さないんですね」
「今は、そうしています」
汐乃は少し笑って、また目を閉じた。
しばらくして、車内の空調が冷たく感じた。腕をさすると、橘が足元へ視線を落とした。
「上着、出せますか。鞄が引っかかっているようですが」
「あ、はい」
彼は勝手に鞄へ触らず、汐乃が取るための場所を空けた。
汐乃は薄いカーディガンを羽織った。
気づくと、少し眠っていた。橘の声で目を開ける。
「あと十分です」
汐乃は背を起こし、窓の外を見た。見慣れた街が近づいている。
「すみません」
「なぜ謝るんですか」
「寝てしまったので」
「お互いに、という話でした」
「部長も?」
「少し」
その返事に、汐乃は安心した。
駅で解散する前に、二人で翌日の仕事を確認した。資料の修正は汐乃、契約範囲の確認は橘。小野寺への共有は、朝の短い打ち合わせで行う。
橘は「お疲れさまでした」と言い、別の改札へ向かった。
汐乃は土産の袋を提げ、ホームへ歩いた。
仕事の帰りなのに、疲れだけが残っているわけではなかった。
母へ、土産を買ったと連絡した。返事は、気を遣わなくてよかったのに、というものだったが、食べるのを楽しみにしているとも書いてあった。
汐乃は袋を膝へ置いた。誰かの喜びそうなものを選び、持ち帰る。その小さな予定まで含めて、今日の出張はいつもより長く記憶に残りそうだった。
今日あったことを、橘へ報告する必要はない。
一緒にいたのだ。




