第14話 デート報告禁止令
木曜日の反省会で、汐乃は瀬戸との食事の話を始め、途中で止めた。
向かいの橘は、黙ってコーヒーを飲んでいる。
話を遮らなくなったからといって、何でも話していいわけではない。
「すみません。私ばかり報告してました」
「構いませんよ」
「でも、相手の方の話まで、こちらが勝手に材料にしているみたいで」
瀬戸は、汐乃と食事に行くことを彩乃に話す程度なら構わないと言ってくれていた。名前も隠さなくていいという。だが、二人で話したことをどこまでほかの人へ伝えていいかは、別の問題だった。
まして、その相手が直属の上司だと知ったら、どう感じるだろう。
橘はカップを置いた。
「私も考えていました。助言を受けるために話すことと、全部を報告することは違いますね」
「私たち、いつの間にか、反省会が定例になってますし」
「都合が合うときだけ、のはずでした」
「はい」
汐乃はノートを開いた。協定の文字が、最初に書いたときより少し馴染んで見えた。
「デート報告禁止、にしますか」
口にすると、少し強すぎる響きだった。
橘も眉を動かした。
「相談できなくなるのでは」
「そうですね」
汐乃は見出しを書きかけて、やめた。
「細かい会話の再現はしない。困っていることを、自分の言葉で話す」
「相手の人柄を、ここで二人が判定しない」
「それ、大事ですね」
「瀬戸さんと会うかどうかも、君が決める」
「佐伯さんと会うかどうかも、部長が」
言いながら、汐乃はその名前を初めて声にした。
橘は少し間を置いてから、うなずいた。
「佐伯さんとの時間は、大切にしたいと思っています」
汐乃はペンを持ち直した。
「……はい。それがいいと思います」
何に賛成しているのか、ほんの一瞬わからなくなった。
協定の余白へ、三つの文を書き加える。自分で決める、という言葉の下に、意図せず二重線ができた。
橘はノートを覗き込まず、汐乃が書き終えるのを待っていた。
「それで、君が今、相談したいのは何ですか」
汐乃は顔を上げた。
話したいことはあった。瀬戸といるのは楽しいのに、先のことを考えると、自分の希望をうまく言えない。断られるのが怖いのか、意見が違うと知るのが怖いのか。
「自分の希望を話そうとすると、重く聞こえそうで」
「仕事のことですか」
「それも。どこで暮らしたいかとか」
「相手の答えを、先に知りたい?」
「……そうかもしれません」
正解に合わせてから、自分の希望を出そうとしている。
それでは、条件表の質問と同じだった。
「部長は、どうしていますか」
「まだ、うまくできていません」
「うまくいった答えを聞こうとしてました」
「私も、そういう答えがほしいです」
汐乃は笑った。二人で助言し合っているのに、二人とも答えを持っていない。
橘は少し考え、言葉を選んだ。
「答え方より、今は決めきれていない、と伝えることもできるでしょう」
「曖昧なままで?」
「その曖昧さがあることを、隠さずに」
汐乃はうなずいた。
先に言い切ってしまえば、自分が揺れなくて済む。けれど、あとで変わることもある。それを相手へ説明する手間を省きたかったのかもしれない。
「相手に、どこまで話しているんですか」
汐乃は、自分でも聞き方が曖昧だと思い、言い足した。
「こうして、婚活の相談をする人がいることです。私、友人には話していると伝えました。でも、部長だとは言っていません」
橘は少し長く黙った。
「佐伯さんには、話し方について助言してくれる人がいる、と伝えました。君との関係までは」
「そうですか」
汐乃はノートの上へペンを置いた。
約束を守って秘密にしている。そのことと、別の相手へ不誠実になっていないかは、分けて考える必要があった。
「相手に知られたら嫌だな、と思うことを、増やしたくありません」
「はい」
「もし、どちらかが交際へ進んだら、この反省会は一度終わりにしませんか。相手の方が嫌がるかどうかを、私たちで勝手に決めずに」
言い終えると、胸の中が少し冷えた。
橘はゆっくりうなずいた。
「そうしましょう。今の関係のまま続けていい、と、こちらだけで判断するべきではありませんね」
汐乃は一行書き足した。
交際を始めるときは、今の相談の形を見直す。
当然のことを決めただけなのに、ノートを閉じるのが少し重かった。
「今日、急に厳しくなりましたね」
橘が言った。
「自分に、です。話せるからって、全部話してよかったのかなと」
「私も、同じです」
彼はそれ以上を説明しなかった。
汐乃も、なぜそう思ったかまでは聞かなかった。自分の気持ちが揺れたことを、まだ言えない。
しばらくして、汐乃はノートをしまった。
「いま決めたこと、窮屈ですか」
「必要な範囲を確かめただけでしょう」
「そうですね」
「君は、どうですか」
「少し、寂しいです」
言ってから驚いた。そこまで言うつもりではなかった。
橘は汐乃を見て、すぐには答えなかった。
「……慣れた時間を、変える話ですからね」
汐乃はその説明にうなずいた。間違ってはいない。二人とも、そこで話を止めておいた。
注文していたプリンが届いた。今日はまだ数があると言われたが、橘は頼まなかった。
「いらないんですか」
「今日は、昼食が遅かったので」
汐乃は半分譲ろうかと一瞬思い、やめた。いらないと言った相手に、勧め直す必要はない。
代わりに、自分の皿を手元へ寄せた。
*
店を出てから、橘は来週の現地確認について話し始めた。
「来週の出張ですが」
「今、仕事の話ですか」
「……明日、会社で」
「そうしてください」
汐乃は笑った。
ところが会社で話すべきことを一つ除くと、駅までの間が思ったより空いた。
佐伯のことは聞かない。瀬戸とのやり取りも話さない。何を話してもよかったのに、自分で設けた境界の前で、少し戸惑っている。
「今日、帰りにパンを買って帰ります」
汐乃は唐突に言った。
「明日の朝食ですか」
「はい。いつもの店が、まだ開いているので」
「私は、冷凍したものがあります」
「そういう準備、きちんとしてそうです」
「忘れて、同じものを買うこともあります」
「何が多いんですか」
「食パンです」
同じものとは何かを聞いたつもりだったが、予想以上にそのままの返事だった。
汐乃は笑い、橘も少し笑った。
特別な相談がなくても、話せることはある。けれど、話せることがあるから会うのは、協定の中に入るのだろうか。
パン屋の前で別れたあと、汐乃はトレーを持ったまま考えた。
選んだパンを、自分一人で食べる。それは気楽なことだ。好きなものだけ選べるし、誰かの予定を聞く必要もない。
それなのに、冷凍庫の食パンを思い出して笑ってしまった。
店で買ったパンは、二個だった。
汐乃は一つを明日の朝用に包み直し、もう一つを小さく切った。
境界を決めたら、会う理由がなくなると思っていた。
実際には、食パンの話ができた。何でもないことを言って、少し笑った。それが、相談よりも親しい時間のように感じられて、かえって困った。
汐乃は切ったパンを口へ運んだ。甘い味がした。
帰宅して、ノートを鞄から出した。
「デート報告禁止令」と書きかけた跡は、薄く残っていた。汐乃はその横に小さく「相談は、自分のこと」と書き、閉じた。




