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嫌いな上司と、婚活パーティーで会いました  作者: 雨宮 弦


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13/18

第13話 ほかの人と会っているのに

 瀬戸と会うのは、三度目だった。


 日曜の午後、二人は清水の小さな展示室へ入った。古い商店の写真と、改装前後の図面を並べた展示で、瀬戸が興味を持っていたものだ。


「難しかったら、途中でお茶にしましょう」


「私、そんなに退屈そうですか」


「いえ。僕が立ち止まりすぎるかもしれないので」


 瀬戸は自分で言って笑い、一枚目の写真の前ですでに足を止めた。


 汐乃は隣に立ち、写真の中の喫茶店を見た。カウンターの角が丸く擦り減っている。彼の言っていた、使われた跡だ。


「これ、変えずに残したんですね」


「そうみたいです。全部新しくするより、店の人も落ち着くのかもしれません」


 汐乃は喫茶つむぎの窓際を思い出した。あの席のテーブルにも、カップの底のような薄い輪がある。


 橘なら、そこに資料を置く前に水気を確かめるだろう。


 突然浮かんだ姿に、汐乃は写真へ意識を戻した。


 瀬戸が隣にいる。今は、その人と来ているのだ。


 展示を見たあと、近くの店で遅い昼食を取った。瀬戸は自分が見たかった理由を話し、汐乃がどこに興味を持ったかを聞いた。


 汐乃は、改装の前に働く人の動きを調べた図が面白かったと答えた。


「やっぱり、お仕事に近いところが気になります?」


「そうかもしれません。自分が知らなかった手間を見るのが好きなんです」


「それ、いいですね」


 素直に言われて、汐乃は少し照れた。


 瀬戸と話していると、自分の言葉を守るために身構えなくていい。明日の仕事に戻っても、この時間が小さな支えになりそうだった。


 食事を終えて外へ出ると、急に風が強くなった。汐乃の手から展示の案内紙が滑り、足元を転がる。


 瀬戸が拾い、端を払って渡してくれた。


「ありがとうございます」


「折れちゃいましたね」


「中身が読めれば大丈夫です」


 そう答えながら、汐乃は笑った。


 橘なら、折る場所を直してから渡してくれるだろうか。


 今度は、自分の考えに気づいた途端、笑顔が少し固くなった。


「寒いですか」


 瀬戸が聞いた。


「大丈夫です」


「駅まで、風の弱い道を通りましょう」


 気づいてもらったのに、理由を正直に説明できないことが後ろめたかった。


     *


 駅へ向かう途中、瀬戸が横道の小さな店を指した。


「前に話した喫茶店、今日は休みですね」


「あ、本当ですね」


 店の扉には、手書きの休業札が掛かっていた。瀬戸は残念そうにしたが、すぐ「また別の日に」と言った。


 予定が変わっても、誰かのせいにしない人だった。


 汐乃は一緒に歩きながら、自分がどれほどそういう反応を気にしていたかに気づいた。相手が不機嫌にならないかを、先に確かめている。


「私、予定どおりにならないと、少し焦るんです」


「お仕事でも?」


「はい。調べておけばよかったって」


「準備で防げることもありますけど、店が休みなのは仕方ないですよ」


「そうですよね」


「今日は、歩ける時間が増えました」


 汐乃は彼を見た。


「嫌でなければ、ですけど」


「嫌じゃないです」


 そう答えると、瀬戸は少し笑った。


 誰かと歩く時間を、残った時間ではなく、増えた時間と呼ぶ。それは、いい言い方だと思った。


 汐乃は、自分が瀬戸に好かれたいと思っているかを考えた。


 嫌われたくはない。がっかりさせたくもない。楽しいと思って帰ってほしい。


 でも、自分からもっと近づきたいという思いがどこにあるのかは、まだわからなかった。


 その曖昧さを、いま無理に答えへ変えることもない。会う回数を重ねれば、見えてくるかもしれない。


「次に会うとき、どこか行きたいところはありますか」


 瀬戸に聞かれ、汐乃は考えた。相手の希望へ合わせるだけでは、二人で決めたことにならない。


「海の近くを、少し歩きたいです」


「いいですね。暑すぎない時間にしましょう」


 予定が一つ増えた。


 そのことを嬉しいと思いながら、汐乃はつむぎの窓際を思い出した。あそこでなら、今日の展示の話をどこから始めるだろう。


 隣で瀬戸が、次の道を確かめていた。


 汐乃は、いま見えている景色へ意識を戻した。


 駅で別れ、電車に乗る前に、汐乃はスマートフォンを取り出した。


 展示の写真を橘に送りたくなった。店の改装についての話は、彼も面白がる気がする。点検の説明資料に使えそうな考え方もあった。


 写真を選び、送信先を開いたところで止まる。


 今日、楽しかった。その報告を、一緒にいた相手より先に別の人へ送りかけている。


 汐乃は画面を戻し、瀬戸に礼を送った。


『今日はありがとうございました。あの図、面白かったです』


『こちらこそ。白石さんと話すと、僕も見方が増えます』


 丁寧な返事だった。


 汐乃は「また行きましょう」と書き、少し迷ってから送った。嘘ではない。彼と歩くのは楽しかった。


 だからこそ、説明のつかないものを混ぜたくなかった。


 夜、橘から、先日話した小説を読み終えたという連絡が来た。


『最後まで読むと、途中の場面の意味が変わりました』


『よかったですね。次に会う方とも、続きが話せますね』


 汐乃は自然な返事をしたつもりだった。


『ええ。佐伯さんと、来週また会います。お名前だけは、話しても構わないと聞いています』


 佐伯さん。


 名前が一つ出ただけで、その人が急に近くなった。


 読書の会で会い、橘がもう一度読むきっかけを作った女性。彼の前で、話し終えるまで待ってもらえる人。


 汐乃は画面を見つめた。


『楽しんできてください』


 送信したあと、何を楽しむのか具体的に聞かなかったことにほっとした。


 返事は「ありがとうございます」だった。


 いつもと同じ、短い文章。


     *


 翌日の昼、彩乃が研修の担当調整について話した。


「準備の日は、別の仕事を一つ減らしてもらった。言ってみてよかった」


「よかったね」


「汐乃は? この前の人とは」


 汐乃は瀬戸との展示の話をした。彼の許可なく細かい仕事の話はせず、楽しかったことだけを伝える。


「じゃあ、いい感じなんだ」


「うん。いい人」


「いい人、以外には?」


 汐乃は箸を止めた。


「一緒にいると、落ち着く」


「そっか」


 彩乃はそこで話を終えた。何かを見抜くような顔も、からかうような声もなかった。


 汐乃は自分の答えを聞き直すように考えた。


 落ち着く。それは本当だ。


 なのに、別の人が別の女性と会うと知って、落ち着かなくなる理由は何だろう。


 午後、橘が汐乃へ確認事項を持ってきた。会議資料の数字の出所だった。


「こちらは、初回の点検だけですか」


「継続分も含みます。分けた表が次にあります」


「わかりました」


 彼は次のページを見て、うなずいた。


 ただそれだけのやり取りで、汐乃は少し安心していた。


 勝手に何かを失いかけ、何も変わっていないことを確かめている。そんな自分が、面倒だった。


 夜、展示の写真を添えたメッセージの下書きを消した。展示室で撮った元の写真は残した。


 随筆を数ページ読み、汐乃は栞を挟んだ。


 昨日、瀬戸が選んだ店の料理を思い出す。おいしかった。展示を見て、一緒に笑った。全部、ちゃんとあったことだ。


 汐乃は枕元へ本を置き、明日の仕事の予定を確認した。先延ばしにするために忙しくならないようにしようと思った。

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