第13話 ほかの人と会っているのに
瀬戸と会うのは、三度目だった。
日曜の午後、二人は清水の小さな展示室へ入った。古い商店の写真と、改装前後の図面を並べた展示で、瀬戸が興味を持っていたものだ。
「難しかったら、途中でお茶にしましょう」
「私、そんなに退屈そうですか」
「いえ。僕が立ち止まりすぎるかもしれないので」
瀬戸は自分で言って笑い、一枚目の写真の前ですでに足を止めた。
汐乃は隣に立ち、写真の中の喫茶店を見た。カウンターの角が丸く擦り減っている。彼の言っていた、使われた跡だ。
「これ、変えずに残したんですね」
「そうみたいです。全部新しくするより、店の人も落ち着くのかもしれません」
汐乃は喫茶つむぎの窓際を思い出した。あの席のテーブルにも、カップの底のような薄い輪がある。
橘なら、そこに資料を置く前に水気を確かめるだろう。
突然浮かんだ姿に、汐乃は写真へ意識を戻した。
瀬戸が隣にいる。今は、その人と来ているのだ。
展示を見たあと、近くの店で遅い昼食を取った。瀬戸は自分が見たかった理由を話し、汐乃がどこに興味を持ったかを聞いた。
汐乃は、改装の前に働く人の動きを調べた図が面白かったと答えた。
「やっぱり、お仕事に近いところが気になります?」
「そうかもしれません。自分が知らなかった手間を見るのが好きなんです」
「それ、いいですね」
素直に言われて、汐乃は少し照れた。
瀬戸と話していると、自分の言葉を守るために身構えなくていい。明日の仕事に戻っても、この時間が小さな支えになりそうだった。
食事を終えて外へ出ると、急に風が強くなった。汐乃の手から展示の案内紙が滑り、足元を転がる。
瀬戸が拾い、端を払って渡してくれた。
「ありがとうございます」
「折れちゃいましたね」
「中身が読めれば大丈夫です」
そう答えながら、汐乃は笑った。
橘なら、折る場所を直してから渡してくれるだろうか。
今度は、自分の考えに気づいた途端、笑顔が少し固くなった。
「寒いですか」
瀬戸が聞いた。
「大丈夫です」
「駅まで、風の弱い道を通りましょう」
気づいてもらったのに、理由を正直に説明できないことが後ろめたかった。
*
駅へ向かう途中、瀬戸が横道の小さな店を指した。
「前に話した喫茶店、今日は休みですね」
「あ、本当ですね」
店の扉には、手書きの休業札が掛かっていた。瀬戸は残念そうにしたが、すぐ「また別の日に」と言った。
予定が変わっても、誰かのせいにしない人だった。
汐乃は一緒に歩きながら、自分がどれほどそういう反応を気にしていたかに気づいた。相手が不機嫌にならないかを、先に確かめている。
「私、予定どおりにならないと、少し焦るんです」
「お仕事でも?」
「はい。調べておけばよかったって」
「準備で防げることもありますけど、店が休みなのは仕方ないですよ」
「そうですよね」
「今日は、歩ける時間が増えました」
汐乃は彼を見た。
「嫌でなければ、ですけど」
「嫌じゃないです」
そう答えると、瀬戸は少し笑った。
誰かと歩く時間を、残った時間ではなく、増えた時間と呼ぶ。それは、いい言い方だと思った。
汐乃は、自分が瀬戸に好かれたいと思っているかを考えた。
嫌われたくはない。がっかりさせたくもない。楽しいと思って帰ってほしい。
でも、自分からもっと近づきたいという思いがどこにあるのかは、まだわからなかった。
その曖昧さを、いま無理に答えへ変えることもない。会う回数を重ねれば、見えてくるかもしれない。
「次に会うとき、どこか行きたいところはありますか」
瀬戸に聞かれ、汐乃は考えた。相手の希望へ合わせるだけでは、二人で決めたことにならない。
「海の近くを、少し歩きたいです」
「いいですね。暑すぎない時間にしましょう」
予定が一つ増えた。
そのことを嬉しいと思いながら、汐乃はつむぎの窓際を思い出した。あそこでなら、今日の展示の話をどこから始めるだろう。
隣で瀬戸が、次の道を確かめていた。
汐乃は、いま見えている景色へ意識を戻した。
駅で別れ、電車に乗る前に、汐乃はスマートフォンを取り出した。
展示の写真を橘に送りたくなった。店の改装についての話は、彼も面白がる気がする。点検の説明資料に使えそうな考え方もあった。
写真を選び、送信先を開いたところで止まる。
今日、楽しかった。その報告を、一緒にいた相手より先に別の人へ送りかけている。
汐乃は画面を戻し、瀬戸に礼を送った。
『今日はありがとうございました。あの図、面白かったです』
『こちらこそ。白石さんと話すと、僕も見方が増えます』
丁寧な返事だった。
汐乃は「また行きましょう」と書き、少し迷ってから送った。嘘ではない。彼と歩くのは楽しかった。
だからこそ、説明のつかないものを混ぜたくなかった。
夜、橘から、先日話した小説を読み終えたという連絡が来た。
『最後まで読むと、途中の場面の意味が変わりました』
『よかったですね。次に会う方とも、続きが話せますね』
汐乃は自然な返事をしたつもりだった。
『ええ。佐伯さんと、来週また会います。お名前だけは、話しても構わないと聞いています』
佐伯さん。
名前が一つ出ただけで、その人が急に近くなった。
読書の会で会い、橘がもう一度読むきっかけを作った女性。彼の前で、話し終えるまで待ってもらえる人。
汐乃は画面を見つめた。
『楽しんできてください』
送信したあと、何を楽しむのか具体的に聞かなかったことにほっとした。
返事は「ありがとうございます」だった。
いつもと同じ、短い文章。
*
翌日の昼、彩乃が研修の担当調整について話した。
「準備の日は、別の仕事を一つ減らしてもらった。言ってみてよかった」
「よかったね」
「汐乃は? この前の人とは」
汐乃は瀬戸との展示の話をした。彼の許可なく細かい仕事の話はせず、楽しかったことだけを伝える。
「じゃあ、いい感じなんだ」
「うん。いい人」
「いい人、以外には?」
汐乃は箸を止めた。
「一緒にいると、落ち着く」
「そっか」
彩乃はそこで話を終えた。何かを見抜くような顔も、からかうような声もなかった。
汐乃は自分の答えを聞き直すように考えた。
落ち着く。それは本当だ。
なのに、別の人が別の女性と会うと知って、落ち着かなくなる理由は何だろう。
午後、橘が汐乃へ確認事項を持ってきた。会議資料の数字の出所だった。
「こちらは、初回の点検だけですか」
「継続分も含みます。分けた表が次にあります」
「わかりました」
彼は次のページを見て、うなずいた。
ただそれだけのやり取りで、汐乃は少し安心していた。
勝手に何かを失いかけ、何も変わっていないことを確かめている。そんな自分が、面倒だった。
夜、展示の写真を添えたメッセージの下書きを消した。展示室で撮った元の写真は残した。
随筆を数ページ読み、汐乃は栞を挟んだ。
昨日、瀬戸が選んだ店の料理を思い出す。おいしかった。展示を見て、一緒に笑った。全部、ちゃんとあったことだ。
汐乃は枕元へ本を置き、明日の仕事の予定を確認した。先延ばしにするために忙しくならないようにしようと思った。




