第12話 知らなかった土曜日
土曜日の午前、汐乃は母から届いた写真を見ながら、清水の商店街を歩いていた。
実家のベランダに置かれた鉢植え。去年も似たような写真が届いた気がする。汐乃は「きれいだね」と返し、そのあと何を書けばいいかわからず画面を閉じた。
電話するほどの用事はない。母も、仕事は忙しいだろうからと言って、長く引き留めない。
気を遣い合ったまま、話すことが少しずつ減っていた。
昼食用のパンを買い、通りへ戻ると、前を歩く女性の紙袋から箱が滑りかけた。
「あっ」
汐乃はとっさに手を伸ばした。箱の底を受け止め、女性と一緒に持ち直す。
「ありがとうございます。欲張って買ってしまって」
「大丈夫ですか」
「ええ。息子が袋を取りに戻ってるところで」
女性は柔らかく笑った。背筋が伸び、明るい色のスカーフを巻いている。紙袋の中には、包装された小さな菓子箱が並んでいた。
「母さん、だから動かないでと――」
横の店から出てきた橘が、汐乃を見て止まった。
大きな買い物袋を二つ持っている。
「……白石さん」
「おはようございます」
汐乃は箱から手を離し、一歩下がった。
「会社の方?」
「はい。同じ部署の」
「お世話になっております。橘の母です。恵子と申します」
母親が先に頭を下げた。汐乃も名乗り、仕事で世話になっていると答えた。息子が世話になっていると言い直されそうで、少し可笑しかった。
橘は母の紙袋を受け取り、中身を大きな袋へ移した。
「箱を縦に入れないで。中が寄るから」
「全部、個包装でしょう」
「せっかくなら、きれいなまま渡したいの」
仕事の修正指示より細かい。
汐乃は口元を引き締めたが、橘の母に見つかった。
「この人、すぐ効率で考えるんですよ」
「母さん」
「でも今日は、付き合ってくれて助かったわ」
橘は返事をせず、箱を横へ置き直した。
「お祝いのお返しを選びに来たの。自分で決めたいのに、一人だと持てないでしょう。運ぶところだけ頼んだんです」
「荷物は、かなりありますね」
「買う前は、こんなに大きくなると思わなくて」
母親は楽しそうに言った。橘は袋の持ち手を二つまとめ、ひとつだけまた分けた。
優しい息子というより、慣れた役割分担に見えた。
「白石さん、お買い物?」
「はい。パンを」
「いい匂い。修悟、お昼はもう決めたの?」
「帰ってから」
「あなたが決めると、また麺になるでしょう」
汐乃はとうとう少し笑った。
橘がこちらを見たが、否定はしなかった。
「お引き留めしてごめんなさいね」
母親が言い、汐乃は首を振った。
「いえ。お気をつけて」
「白石さんも」
別れ際、母親が橘の持つ袋を一つ取ろうとした。橘は避けず、重くないほうを差し出した。
「それなら」
「最初からそうして」
二人は並んで歩き出した。
汐乃は少しだけ見送ってから、自分のパンの袋を持ち直した。
会社にいないときも部長のままなのだと思っていたのは、自分の想像だった。
*
近くの公園のベンチで、汐乃は母へ電話をした。
二回目の呼び出し音でつながった。
「どうしたの。何かあった?」
「何もないよ。花の写真、ありがとう」
「ああ。もうすぐ散っちゃうと思って」
「ちゃんと見た。きれいだった」
少し間が空いた。
母が、ベランダに出たのだろう。風の音が電話越しに聞こえた。
「仕事はどう?」
「忙しい。でも、今は土曜日だから」
そう返すと、母は笑った。
「いつも忙しそうだから、電話するの遠慮しちゃって」
「毎回は出られないけど、出られるときは出るよ」
「そう?」
汐乃は膝の上のパン袋を見た。
「お母さんも、何か手伝ってほしいことがあったら言ってね。先に予定を聞いてくれたら」
「じゃあ、今度帰ってきたとき、棚を動かしてほしい」
「え、どの棚?」
「台所の。お父さんと二人だと、腰がね」
「それは、私一人でも無理じゃない?」
二人で笑った。結局、動かす前に中身を減らす話になり、汐乃は次に実家へ帰る日を決めた。
婚活のことは聞かれなかった。汐乃も話さなかった。それでも、何も話せなかったという感じはしなかった。
「お母さん、最近、どこか行った?」
汐乃が聞くと、母は少し驚いた声を出した。
「急にどうしたの」
「いつも、私の仕事の話ばかり聞かれてるなと思って」
「そうねえ。先週、お友達と映画に行ったわよ」
汐乃の知らない映画だった。母は出演者の名前を思い出そうとして言葉を止め、途中で父へ声をかけた。
電話の向こうで、二人の短い相談が聞こえる。
汐乃は口を挟まず待った。以前なら、題名がわかればあとで調べるからと言って、別の話へ移ったかもしれない。
「そうそう、その人。昔の映画にも出ていたでしょう」
母が思い出して笑った。
「話は、どんなだったの?」
「細かく話すと長いけど」
「今、時間あるよ」
言ってみると、母は本当に長く話した。途中で結末まで教えようとしたので、そこだけは止めた。
「私も見るかもしれないから」
「じゃあ、見たら感想を教えて」
仕事の報告でも、帰省の日程でもない約束が一つできた。
汐乃はベンチにもたれた。母について、だいたい知っているつもりだった。どんな映画を選ぶのか、どんな場面で笑うのか、考えたこともなかった。
近くを子どもと父親が通った。パンの袋を見て、子どもが何か言う。汐乃は袋を少し膝へ寄せ、母の話へ耳を戻した。
「次は、私から電話するね」
「仕事中だったら、出なくていいからね」
「うん。でも、帰ったらかけ直す」
母が電話の向こうで笑う声を、久しぶりに長く聞いた。自分の話を聞いてくれる人だと思っていたが、母にも話したいことがある。その当たり前を、汐乃は少し遅れて思い出していた。
そのくらいの約束なら、続けられると思った。
母は電話を終える前に、棚の寸法を伝え始めた。汐乃は片手でメモを取り、聞き取れなかったところを聞き直す。
「全部、一人で動かそうとしないでね」
「わかってるわよ。頼むために、寸法を言ってるの」
「そうか」
母に笑われ、汐乃も笑った。手伝ってほしいと言う人に、手伝い方を教える前に、その希望を聞く。それだけのことを、自分も時々忘れる。
電話を切るころ、パンは少し冷めていた。
*
夕方、橘から短いメッセージが来た。
『母が、ご親切にありがとうございましたと申していました』
汐乃は箱を支えただけだと返した。
『お買い物、無事に終わりましたか』
『一度終わってから、もう一軒ありました』
『袋、足りました?』
『何とか』
その「何とか」の様子が想像でき、汐乃は笑った。
続いて届いた文を読んで、少し手が止まった。
『会社の方とだけ伝えています。今日のこと以外は話していません』
汐乃は息を吐いた。婚活のことを話されるとは思っていなかったが、確認してもらえたことで安心した。
『ありがとうございます。私も母と少し電話しました』
『何かありましたか』
『いえ。何もなくても、電話していいんだと思って』
『そうですか』
彼からは、詳しい説明を求める言葉が来なかった。
汐乃はスマートフォンを置き、明日の瀬戸との約束を確認した。
ベランダの鉢植えの写真をもう一度開いた。母が送ってきた花の名前を知らないことに気づき、汐乃は追加で質問を送った。
母からは、すぐに長い返事が来た。




