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嫌いな上司と、婚活パーティーで会いました  作者: 雨宮 弦


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12/18

第12話 知らなかった土曜日

 土曜日の午前、汐乃は母から届いた写真を見ながら、清水の商店街を歩いていた。


 実家のベランダに置かれた鉢植え。去年も似たような写真が届いた気がする。汐乃は「きれいだね」と返し、そのあと何を書けばいいかわからず画面を閉じた。


 電話するほどの用事はない。母も、仕事は忙しいだろうからと言って、長く引き留めない。


 気を遣い合ったまま、話すことが少しずつ減っていた。


 昼食用のパンを買い、通りへ戻ると、前を歩く女性の紙袋から箱が滑りかけた。


「あっ」


 汐乃はとっさに手を伸ばした。箱の底を受け止め、女性と一緒に持ち直す。


「ありがとうございます。欲張って買ってしまって」


「大丈夫ですか」


「ええ。息子が袋を取りに戻ってるところで」


 女性は柔らかく笑った。背筋が伸び、明るい色のスカーフを巻いている。紙袋の中には、包装された小さな菓子箱が並んでいた。


「母さん、だから動かないでと――」


 横の店から出てきた橘が、汐乃を見て止まった。


 大きな買い物袋を二つ持っている。


「……白石さん」


「おはようございます」


 汐乃は箱から手を離し、一歩下がった。


「会社の方?」


「はい。同じ部署の」


「お世話になっております。橘の母です。恵子(けいこ)と申します」


 母親が先に頭を下げた。汐乃も名乗り、仕事で世話になっていると答えた。息子が世話になっていると言い直されそうで、少し可笑しかった。


 橘は母の紙袋を受け取り、中身を大きな袋へ移した。


「箱を縦に入れないで。中が寄るから」


「全部、個包装でしょう」


「せっかくなら、きれいなまま渡したいの」


 仕事の修正指示より細かい。


 汐乃は口元を引き締めたが、橘の母に見つかった。


「この人、すぐ効率で考えるんですよ」


「母さん」


「でも今日は、付き合ってくれて助かったわ」


 橘は返事をせず、箱を横へ置き直した。


「お祝いのお返しを選びに来たの。自分で決めたいのに、一人だと持てないでしょう。運ぶところだけ頼んだんです」


「荷物は、かなりありますね」


「買う前は、こんなに大きくなると思わなくて」


 母親は楽しそうに言った。橘は袋の持ち手を二つまとめ、ひとつだけまた分けた。


 優しい息子というより、慣れた役割分担に見えた。


「白石さん、お買い物?」


「はい。パンを」


「いい匂い。修悟、お昼はもう決めたの?」


「帰ってから」


「あなたが決めると、また麺になるでしょう」


 汐乃はとうとう少し笑った。


 橘がこちらを見たが、否定はしなかった。


「お引き留めしてごめんなさいね」


 母親が言い、汐乃は首を振った。


「いえ。お気をつけて」


「白石さんも」


 別れ際、母親が橘の持つ袋を一つ取ろうとした。橘は避けず、重くないほうを差し出した。


「それなら」


「最初からそうして」


 二人は並んで歩き出した。


 汐乃は少しだけ見送ってから、自分のパンの袋を持ち直した。


 会社にいないときも部長のままなのだと思っていたのは、自分の想像だった。


     *


 近くの公園のベンチで、汐乃は母へ電話をした。


 二回目の呼び出し音でつながった。


「どうしたの。何かあった?」


「何もないよ。花の写真、ありがとう」


「ああ。もうすぐ散っちゃうと思って」


「ちゃんと見た。きれいだった」


 少し間が空いた。


 母が、ベランダに出たのだろう。風の音が電話越しに聞こえた。


「仕事はどう?」


「忙しい。でも、今は土曜日だから」


 そう返すと、母は笑った。


「いつも忙しそうだから、電話するの遠慮しちゃって」


「毎回は出られないけど、出られるときは出るよ」


「そう?」


 汐乃は膝の上のパン袋を見た。


「お母さんも、何か手伝ってほしいことがあったら言ってね。先に予定を聞いてくれたら」


「じゃあ、今度帰ってきたとき、棚を動かしてほしい」


「え、どの棚?」


「台所の。お父さんと二人だと、腰がね」


「それは、私一人でも無理じゃない?」


 二人で笑った。結局、動かす前に中身を減らす話になり、汐乃は次に実家へ帰る日を決めた。


 婚活のことは聞かれなかった。汐乃も話さなかった。それでも、何も話せなかったという感じはしなかった。


「お母さん、最近、どこか行った?」


 汐乃が聞くと、母は少し驚いた声を出した。


「急にどうしたの」


「いつも、私の仕事の話ばかり聞かれてるなと思って」


「そうねえ。先週、お友達と映画に行ったわよ」


 汐乃の知らない映画だった。母は出演者の名前を思い出そうとして言葉を止め、途中で父へ声をかけた。


 電話の向こうで、二人の短い相談が聞こえる。


 汐乃は口を挟まず待った。以前なら、題名がわかればあとで調べるからと言って、別の話へ移ったかもしれない。


「そうそう、その人。昔の映画にも出ていたでしょう」


 母が思い出して笑った。


「話は、どんなだったの?」


「細かく話すと長いけど」


「今、時間あるよ」


 言ってみると、母は本当に長く話した。途中で結末まで教えようとしたので、そこだけは止めた。


「私も見るかもしれないから」


「じゃあ、見たら感想を教えて」


 仕事の報告でも、帰省の日程でもない約束が一つできた。


 汐乃はベンチにもたれた。母について、だいたい知っているつもりだった。どんな映画を選ぶのか、どんな場面で笑うのか、考えたこともなかった。


 近くを子どもと父親が通った。パンの袋を見て、子どもが何か言う。汐乃は袋を少し膝へ寄せ、母の話へ耳を戻した。


「次は、私から電話するね」


「仕事中だったら、出なくていいからね」


「うん。でも、帰ったらかけ直す」


 母が電話の向こうで笑う声を、久しぶりに長く聞いた。自分の話を聞いてくれる人だと思っていたが、母にも話したいことがある。その当たり前を、汐乃は少し遅れて思い出していた。


 そのくらいの約束なら、続けられると思った。


 母は電話を終える前に、棚の寸法を伝え始めた。汐乃は片手でメモを取り、聞き取れなかったところを聞き直す。


「全部、一人で動かそうとしないでね」


「わかってるわよ。頼むために、寸法を言ってるの」


「そうか」


 母に笑われ、汐乃も笑った。手伝ってほしいと言う人に、手伝い方を教える前に、その希望を聞く。それだけのことを、自分も時々忘れる。


 電話を切るころ、パンは少し冷めていた。


     *


 夕方、橘から短いメッセージが来た。


『母が、ご親切にありがとうございましたと申していました』


 汐乃は箱を支えただけだと返した。


『お買い物、無事に終わりましたか』


『一度終わってから、もう一軒ありました』


『袋、足りました?』


『何とか』


 その「何とか」の様子が想像でき、汐乃は笑った。


 続いて届いた文を読んで、少し手が止まった。


『会社の方とだけ伝えています。今日のこと以外は話していません』


 汐乃は息を吐いた。婚活のことを話されるとは思っていなかったが、確認してもらえたことで安心した。


『ありがとうございます。私も母と少し電話しました』


『何かありましたか』


『いえ。何もなくても、電話していいんだと思って』


『そうですか』


 彼からは、詳しい説明を求める言葉が来なかった。


 汐乃はスマートフォンを置き、明日の瀬戸との約束を確認した。


 ベランダの鉢植えの写真をもう一度開いた。母が送ってきた花の名前を知らないことに気づき、汐乃は追加で質問を送った。


 母からは、すぐに長い返事が来た。

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